【完結】Ep2. アパルトマンの日記

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【完結】Ep2. アパルトマンの日記

 ”逃げなくちゃ。一刻も早く”  引っ越してきた先の部屋で見つけた、一冊の日記帳。表紙がボロボロで手垢がついていたけれど、中身はほとんど真っ白だった。  表紙をめくったすぐのページにだけ、書かれていたその一文。   ケヴィンは首を(かしげ)げる。  はて、自分はこんなものを持ち込んだだろうか。それとも、前の住人のものなのか。  記憶障害を(わずら)っているケヴィンには、時々こういうことが起こる。    そのことに気づいたのはいつだったか、それすらはっきり覚えていない。けれどケヴィンには、直近三年ほどの記憶がなかった。  そのことを自覚してからというもの、つい数時間前のことを思い出す時に、それがいつ起こったことなのかわからなくなったり、本当に自分が体験したことなのか自信が持てなくなることがあった。  自分が日記をつけていたなんて全く身に覚えがないけれど、どこかでこの表紙を見たような気もしていて、捨ててしまうのも躊躇(ためら)われた。 「おーい、ケヴィン。荷解(にと)きは終わったか」  下の階から、大家のアーサーさんの声が聞こえる。 「はいっ!大体はもう」  咄嗟(とっさ)に日記を閉じて、机の上に放り出す。 「そうか。じゃあ休憩でもしようか。ハーブティーを作ってみたから、一緒にどうだい」 「ありがとうございます。ぜひ」  階下へ行くと、アパルトマンの入居者用のテラスには、すでにティーカップが用意されていた。  木製のデッキには木漏れ日が差していて、休日の午後にはぴったりの穏やかな空気が漂っている。  ケヴィンが椅子に座ると、アーサーさんが温めたティーポットを運んできた。    ハーブ独特の爽やかな香りに混ざって、嗅いだことがない不思議な香りが鼻をつく。 「素敵な香りですね。何の種類のハーブですか」  アーサーさんがウインクする。 「品種改良したばかりの新種らしくてね。同僚の教授に分けてもらったんだ。苦手だった?」  黒縁メガネの奥で、ケヴィンを伺うような眼差しを向けてくる。 「いえ、とても好きな香りです」  ケヴィンが言うと、アーサーさんは照れ臭そうに頭をかいた。少し白毛の混じった短髪が風にそよぐ。  アーサーさんの本業は大学教授で、このアパルトマンは親から相続したものらしい。独り身のアーサーさんは、家賃の節約のために自分もここに入居しているのだとか。 「それなら良かった。味も気に入ってもらえたなら、同僚にもっとよこせと言っておくよ」  ケヴィンは微笑む。純朴そうなアーサーさんの笑顔は、心をとろかすようにじんわりと暖かい。  こういう気持ちになる度、自分たちは本当に恋人同士なんだと実感する。  ーーー記憶喪失になってすぐの頃は、もちろんアーサーさんのことなんて全く覚えていなかった。  だから、いきなりケヴィンの恋人だと言ってこの人が現れた時には、心底驚いた。  なにせ頭に残っていた三年前以上昔の記憶では、確かケヴィンは女性と付き合っていたのだ。  急に現れた恋人が男で、しかも自分よりも二回りも年上だなんて、さすがに何かの間違いだと疑う方が普通だろう。  自分が男相手に抱かれることができるだなんて、思いもしていなかったし。  けれど今では、二人で過ごす時間がとても居心地が良くて、記憶を失って不安だった時期を支えてくれたこの人を、心から大切に思っている。  それはまるで、失っていた時間を、少しずつ取り戻しているような気持ちにもなって、とても幸せを感じていた。
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