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「どうだい、新しい部屋は」
アーサーさんが、ハーブティーをケヴィンのカップに注いでくれる。一口すすると、少しツンとする香りが鼻に抜け、後からほのかな甘みが口の中に広がった。
「とても、住み心地が良さそうです。あ、そういえば、誰のかわからない日記を拾ったんですよね」
「日記?部屋の中でかい」
「はい。あいにく、自分のものかどうかもわからなくて。もしかしたら前の人が置いていったのかも。かなりボロボロだったから」
アーサーさんが少し興味を持ったようなので、ケヴィンは部屋から日記帳を取ってきた。
「これなんですけど」
「どれどれ。・・・ふうん、いうほどボロボロってわけでもないみたいだけれど」
老眼鏡のようにメガネを動かしながら、アーサーさんがひとりごちる。
そりゃあ、あなたが研究用として使っているようなノートに比べたら綺麗かもしれないけれど、なんて心の中で呟いた。
さっき見つけた文のことを思い出し、表紙を開いてアーサーさんに見せてみる。
”逃げなくちゃ。一刻も早く”
何度見ても、意味がわからない。逃げなくちゃって、一体何から逃げるのだろうか。どこか切羽詰まった様子なのが、少し気にかかった。
「・・・これ、ちょっと不気味じゃないですか?」
言うと、アーサーさんは顔を綻ばせ、ケヴィンの頭を優しく撫でた。
「はは。君は相当な怖がりだね。大丈夫だよ。ヘンテコなノートが落ちてたくらいで、そんな気に病むこともないさ」
ふわりと漂う、自然の草木の香り。アーサーさんは植物学の研究者で、近づくと、こうして大地に包まれたような気分になる。
ケヴィンは顔を赤らめた。ただでさえ歳が離れているのに、ますます子供っぽく思われたのではないかと不安になった。
「確かに、心配しすぎですよね」
「手元に持っておくのが嫌なら、私が預かろうか」
「いえ、大丈夫です。部屋に置いておいても、別に場所を取るものでもないですし」
柔らかい表情をしたアーサーさんの顔が、そっと近づいてきた。頬に唇が押し当てられる。
「君は、記憶をなくしてから少し臆病になっているみたいだ。早く、元に戻るといいんだが」
寂しそうに眉根が寄せられる。胸がじんと痛んだ。
アーサーさんの手を両手で包むように持ち上げ、ケヴィンは頬ずりをする。
「すぐ、全てを思い出します。あなたのとの思い出をこのまま忘れているなんて、とても耐えられないから」
「まあ、そのために毎日頑張っているわけだしね」
記憶を失うと、ただ思い出すのを待っている時間がひどく苦痛になる。いつ取り戻せるかもわからないのに、何もしないというのは大変なストレスだ。
気休めかもしれないけれど、ケヴィンはアーサーさんと毎日、言葉遊びのゲームをしていた。少しでも脳に良い刺激を与えるためだ。
面倒だと思うこともあるけれど、頑張ったらその分だけアーサーさんに甘やかしてもらえるから、そんなに悪いものでもない。
「あの、アーサーさん。・・・今日はその、アーサーさんの部屋でやってもいいですか。いつもの言葉遊びを」
「ああ、いいよ。ちょうど外は風が強くなってきたし、このまま私の部屋に移動しようか」
「いや、えっと、この後ではなくて。・・・その、夜に」
ケヴィンは顔を赤らめた。アーサーさんが、わずかに視線を下に逸らす。
「・・・もちろんだとも。それじゃあ風呂から上がった頃にでも、私の部屋においで」
アーサーさんの手が、するりとケヴィンの両手からすり抜ける。そのままケヴィンと目を合わせずに、建物の中へと入って行ってしまった。
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