さくら、さくら。

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 卒業というと何故か桜のイメージがあるけれど、卒業式の時期には桜はまだ咲かない。見上げた木々の蕾は、もう膨らみ始めてはいるけれど。  式が終わり会場を出ると、広い校庭のあちこちで繰り広げられる別れの光景。  部活の後輩に囲まれている者。涙と共に祝福の花束を貰うひと。第二ボタンを貰うひと、渡すひと。校舎を背景に記念写真をとるグループ。  その光景の中の埋もれながら、特になんの感慨も湧かないまま、ぼくはただなんとなく、それを眺めていた。  人混みの中から、僕を見つけた雄彦が近づいて来る。  「おまえのも、もう結構とられてるな。」  いくつかボタンのとれている僕の学生服。顔も知らない後輩に、記念に下さいと言われて、渡した。こんなものどうするんだろうと思いながら。  そう言う雄彦の学生服は、第二ボタンどころか、袖口の小さな飾りボタンまできれいに無くなっている。   一緒にいたはずの関口は、気を利かせたのか、後輩の彼女のところへ行ったのか、今僕たちの周りには誰もいなかった。  「これ、おまえの分。」  そういって、目の前に差し出されたのは、艶消しの金ボタン。  「これって…。」  「第二ボタン。別に、卒業しても俺達は変わらないし、こういう記念みたいなの、お前は欲しがらないだろうとは思ったけど。でも、他の誰かにやってしまうのも、…なんかさ。」  雄彦は、照れたようにそっぽを向く。僕は彼の掌の上のそれを、そっと摘みとる。  「もう、最後だから、―――記念にもらっとく。」  「え?」  雄彦は、不思議そうに僕を見る。  何も言わずに、消えるつもりだったけれど―――。  「東京に、行くんだ。W大学に受かったから。…最初から、そのつもりだった。」  「成? ……どういうことだよ、それ。」  雄彦の怪訝な顔が、だんだん強張っていく。見たこともないような、怖い顏。  「今日でもう、―――卒業だから。」  頭の良い雄彦には、これで十分。僕に言えるのは、これで精いっぱい。  彼を騙して裏切っておきながら、僕は、さよならも、お別れも、言いたくなかった。許してほしいとも、思わない。  伏せた目に、白くなるほど握りしめられた雄彦の手が映る。殴られる覚悟をした僕に、雄彦はほんの一瞬泣き出しそうな顔をして、背を向けた。  残された僕は、その場に立ち尽くす。彼は一度も振り向かずに、行ってしまった。視界がぼやけて、もう後ろ姿も見えない。  ふと、目の前に白い物が差し出される。見上げると、どこかから見ていたのか、おせっかい関口がハンドタオルを手に立っていた。  「よかったな、今日がいくらでも泣いて良い日で。」    差し出されたハンドタオルを黙って掴みとり、顔に押し当てる。  嗚咽をタオルで押さえ込みながら、やっぱり関口のフォローはピントがずれてるよな。と、僕は他人事のようにそう思った。    * * *    日が暮れて、桜を枝を繋ぐように吊り下げられたぼんぼりに明かりが灯され、夜桜の下、そこここに広げられたシートの上で宴会が始まる。  外れのベンチに座る僕の耳にも、ときおり広場の方から楽しそうな声が流れてくる。  僕はただ、一人、ぼんやり桜の下の座っている。  意地を張らずに、一度くらい一緒にくれば良かったな。と、今さらのように思う。ひと気のないところなら、少しくらい手を繋いで歩けたかもしれないのに。  そんなことを考えながら、ただ、座り続ける。  雄彦が来てくれるなんて、思っていない。僕はただ、待つためにここに来たんだ。来るはずのない相手をただ待つために。    彼と別れて、そうして僕は普通に社会人になって、いつか家庭を持って、平凡で穏やかな人生を送るつもりだった。  あの頃の想いも、新しい生活と時間に流されて、懐かしい思い出に変わっていくはずだった。  だけど、桜は毎年咲く。繰り返し、去年も今年も来年も、その先もずっと。  そうして僕は、春が来るたびに、もう側にいない人を思い出す。繰り返し。  あれから、十年――。  流れた年月の分、出会いや別れがあり、それなりの経験も積んで、あの頃よりは少し大人になった。  だけど結局、僕は、彼を忘れられなかった。  離れたらすぐに忘れられるなんて、そんなふうに思ってたあの頃の自分は、本当にバカだったな。って思う。  僕はいつも流されているばかりで、きっと最初に好きになったのは僕の方なのに、キスをしたのも、好きだと言ったのも、彼の方だった。  僕からは一度も、好きだと言葉にしなかった。きっと彼は僕がこんなに彼を好きだとは知らなかっただろうな、と思う。    夜桜見物の人波も途絶えて、酔客の声も、もう聞こえなくなった。  普段なら、もう真っ暗になっているこの公園も、まだぼんぼりの灯は灯ったままだ。  僕は、コートのポケットを探って、金ボタンを取り出した。  灯りに翳しても、くすんだボタンは光らない。  学生服も何もかも、高校時代の持ち物はもうとっくに処分してしまった。でも、これだけは捨てられなかった。取り出して手に取ったことは一度もなかったけれど。  捨てるつもりで、持ってきた。  今日一日、今までずっと思い出さないようにしてきた彼のことを、いっぱい想って、あの頃の自分と、今の自分の気持ちと向き合って、それで最後にするつもりった。  彼が来なかったら、このボタンを堀に沈めて、今度こそ彼を忘れるつもりで。  彼は来ない。  そう思う一方で、もしかしたら、って、ほんの少し思ってた。ほんの少しだけ、夢を見ていた。  潔くて、中途半端なことをしない彼は、僕のことを今でも許せないのなら、ここには来ない。…もう他に大事な人がいるのなら、絶対来ない。  だから、もし――。もし、彼が来てくれたら、その時は。  今度こそ、好きだと、伝えたかった。ちゃんと言葉にして、伝えたかったんだ。ずっとずっと好きだったって。  もう僕のことを好きじゃなくてもいい。応えてくれなくてもいい。ただ、ちゃんと伝えておきたかった。あの頃の僕は、君しか見ていなかったって。    止んでいた風がふわりと吹いて、はらはらと花びらが舞う。  もう、日付が変わる。30分に一本しかないローカル電車は、もうとっくに終わっているだろう。…思い出に浸る時間はもう、おしまい。  そうして僕がベンチから立ち上がったとき――。  近づいてくる足音。砂利道を上がってくる、人影。  これが現実なのかどうか、分からないまま立ち尽くす僕の前に、乱れた息を整えている、雄彦。  シャツにジーンズ、薄手のジャケットを羽織っただけのラフな格好。想い出の中の彼より、ちゃんと十年分年を取った雄彦が、立っている。  短く揃えられた癖のない黒髪は、変わらない。輪郭はシャープに力強くなって、体つきも顔つきも、一人前の大人の男になった。  でも、まっすぐに僕を見つめる瞳は、あの頃と変わらない。  「遅くなって、ごめん。」  まだ荒い息のまま、言う。    「夜勤明けで休みのはずだったのに、急患が入って出そびれて…。電車なくなったから、車で帰ってきたんだけど。」  懐かしい彼の声、あの頃より少し低くなったかも。声に意識がいって、内容が、なかなか頭に入ってこない。  それが、遅れた理由? ぼんやりと、考える。  来るのが当然で、そこには何の迷いも疑問のなかったような、彼の口調。申し訳なさそうに言う彼のその言葉の意味が、ようやく呑みこめた。  (そっか、もうお医者さんになったんだ。夢が叶ったんだね。)  彼は自分が思い描いた未来に向かって、真っ直ぐに歩き続けていたのだと、嬉しくなる。    「成…、俺は、」  「あの! 雄彦、俺、もし会えたら、言いたいことがあったんだ。」  何か言いかけた雄彦を遮るように、僕は彼の目を見てそう言った。  今度こそ、僕から伝えるんだ。結果なんてどうでもいい。  彼は黙って、僕の言葉を待ってくれる。  勇気を出して、口を開いた。  吹く風が花びらを巻き上げる。僕の言葉を掻き消すような木々のざわめきと風の音。  それでも届いた僕の言葉に、彼はくしゃりと顔を綻ばせ、花びらごと僕を抱きしめた。  毎年毎年、桜は咲く。これから先僕らがどんな未来を歩んで、どんな結末を迎えても、春がくれば、桜は咲く。  だから、僕が彼を忘れる日は、一生来ない――。  ――― fin*
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