さくら、さくら。

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 少しずつ急になっていく坂道をひとり上ってゆく。  普段ならこの時間、登校中の学生たちで埋まるこの道も、春休みに入った今日は、広々とした石畳に人影はほとんどない。  両側に、桜並木。  今まさに満開のソメイヨシノが、薄ピンクの靄のように頭上を埋め尽くしている。  この桜咲く並木道は、かつての自分自身の通学路。  学校の通用門を通り過ぎた辺りから一段と急になってゆく坂道は、この町の花見の名所である白い天守閣のある公園へと続いていた。  * * *  「雄彦(ゆうひこ)、やめようよ。ヤバいってば。」  真っすぐ伸びた背筋、大きな歩幅でどんどん進んでゆく彼の後を、僕は追いかける。皆と同じ制服の、他の誰とも違う後ろ姿を。  「大丈夫だって。花見にはまだ少し早いけど、こんなにいい天気なんだし、今なら人も少ないだろ。」  僕らの通っている高校は、この小さな田舎町の唯一の観光名所と言える城郭と背中合わせに建っている。そのため裏庭から直接お城の石垣の上に出られる隠れた抜け道があった。かなり急こう配で獣道的な感じの。  彼は自分と僕の分の弁当を持って、校舎の裏庭からその抜け道へと向かう。  小さな天守閣があるだけの田舎の城址公園だが、その高い石垣のお陰で遠くの山の緑まで見渡せる気持ちのいい場所だ。  お城側の校舎からは、石垣の端っこのベンチで腰掛けてお弁当を食べている観光客の姿が見えるくらい、距離も近い。芸術棟の校舎のすぐ裏はもうお堀だし。  お城に上がる坂道に面した通用門を出て、右に下れば最寄駅へ、左に上がってゆけばお城へと繋がっている。要するに『お城の公園』は、ここの学生たちの放課後デートコースの定番だった。  けれど今はお昼休みで、うちの高校は基本的に外出禁止だ。だが陽気が良くなってくると、――無断外出者が続出する。  大らかな雄彦と違って小心者の僕は、見つからないかとハラハラしながら、お弁当食べたくない。  「坂口とかに見つかったら、どうすんの? あの脳筋ゴリラに目付けられたくないんだけど。」    坂口は問答無用の熱血体育教師兼、生徒指導の教諭だ。剣道部の顧問でもある。  去年まで同じ市内の札付きのワル高にいた坂口は、その感覚がまだ抜けきっていないのか、先生も生徒も大人しいこの高校でも竹刀を持って校内外をうろうろするようなヤバい奴だ。ああいう教師にこの学校は、きっと物足りないんだろうな。と思う。  「あはは、嫌いだよなー、(なる)は。あいつの事。」  雄彦は笑って振り返る。  切れ長の目が印象的な、キツめの顏立ち。黙っていれば冷たそうな雰囲気だけど、目が無くなるまでくしゃりと笑う彼の笑顔は、すごく可愛い。  「笑いごとじゃないですよ。」  そうだよ、笑いごとじゃ、  「桜井先生!」  びっくりして思わず上げた声が、雄彦とハモってしまった。  すぐ裏の教室の窓から、苦笑いをしているつもりかもしれないけど、情けなさそうな少し困ったような笑顔を浮かべた男性が顔を出している。  ぼさぼさの髪とダサい眼鏡、年齢不詳なひょろりと背の高い姿は、美術担当の桜井先生。  そうだった。ここは美術室とか音楽室のある芸術等の裏手だ。美術準備室からは丸見えだよね。  「あの、先生…。」  焦っている僕の目の前に、すっと雄彦が立つ。背の高い彼の広い背中に、僕の身体はすっぽりと隠れてしまう。  「びっくりしたー。驚かさないでよ、先生。」  何にこやかに話しかけてんの?   「確かに今日はとてもいい日和ですけどね。坂口先生もそう思われたのか、先ほど校外に見回りに出られましたよ。」  桜井先生もにこやかに答えて下さる。  この人も、生徒指導じゃないとはいえ一応教師なんだけど。生徒にバラしていいんだろうか。寛容なのか、事勿れ主義なのか。今ひとつ掴めない人だ。  「えー! マジで? ほんと元気な人だなぁ、ったく。今日あたり狙い目だと思ったのに…。」  「ほら、だから言っただろ。わざわざお城まで行かなくても適当なとこでいいって。ね?」  悔しそうにぶつぶつ言う雄彦を、宥める。こういうところは子どもみたいなんだから。  彼はとても感情表現がストレートだ。あまり上手に空気を読めるタイプではないけれど、短くした真っ黒な髪と瞳、健康的な肌の色、笑い皺のいっぱい出来る豪快な笑顔。明るくて真っ直ぐで優しい。彼は、誰からも好かれる性格と容姿を持っていた。  「成がいいなら、それでいいけど…。仕方ない、また今度な。」  そう言って、僕の頭にぽんと手を置く。  ――あのね…。それじゃなんか僕が行きたがってたみたいに聞こえるんだけど。  「竹岡くん、成瀬くん。良かったらこっちへ来ますか? 室内だけど日当たりはいいし、お茶くらいなら出しますよ。」  にこにこと僕らの様子を眺めていた桜井先生が、彼の城へ招待してくれた。    通された細長いウナギ部屋は雑然としていて、はっきりいって狭かった。     だけど、一番奥のお城側の壁は天井まで全面が大きな窓になっていて室内は、明るい。深い緑の向こうに石垣が聳えていて、確かに景色は抜群だった。  先生は僕らにパイプ椅子を出し、部屋の隅にあるミニキッチンでお茶を入れてくれている。  芸術科目は選択制で、僕も雄彦も書道をとっていたから美術室には縁がないし、石膏像や牛?の頭蓋骨や、その他いろいろ訳のわからないもので溢れた部屋。雑然としたお世辞にもキレイとは言い難い部屋だけど、居心地は案外悪くなかった。  好奇心旺盛な雄彦は、勝手に部屋の中をうろうろしている。  「さぁ、どうぞ。」  先生は湯呑を載せたお盆を、僕らの前の使っていない丸ストーブの上に置いた。  「ごめんね、テーブルもなくて。なんせ狭いから。」  「いえ、ありがとうございます。」  先生も弁当を出して向かい側に座る。  「雄彦! 早く食べないとお昼終わっちゃうよ?」  雄彦は棚に並べられた石膏像に興味津々みたいで、堀の深い人の割れた顎のあたりをなぞってる。  「君たちは同じクラスでしたね。」  「あ、はい。」  「でも先生、よく僕らの名前知ってましたね。」  戻ってきた雄彦が意外そうにそう言った。  確かに。僕なんて、桜井先生とちゃんとお話しするのはこれが初めてだった。  いくら先生でも、ある程度関わりのある生徒じゃないと、そうそう全校生徒の名前なんて憶えられるものじゃない。  「君たちの名前くらいは、僕でも知ってますよ。美術部員は女子が多いですし。」  あー、ですね。雄彦はモテるから。女子の噂話にはきっと頻繁に登場してるだろう。  「僕が見かけるときは、たいてい二人一緒ですけど、仲が良いんですね。」  僕は曖昧に微笑む。仲が良いっていうのはよく言われることだ。  『いっつも一緒で、飽きねぇ?』  『ほんと仲良いのな、お前ら。』  深い意味のないそんな言葉が、小さな棘のように心にひっかかかる。  何も悪いことなんてしてないはずなのに。なんとなく後ろめたい気分になる。  「組み合わせというか、相性ってありますからねぇ。絵を描く上でも何でも。一個一個は良くても並べるとしっくりこなかったりして。」  立て掛けられた描きかけのキャンバスを見ながら、先生が言う。ありふれた静物画。玉ねぎの横に眼鏡と絵の具のチューブ。適当にあるものを並べただけのようにも見えるけど。  「引き立てあったり、かみ合わなかったり。意外と難しいんですよ。…そういう意味では君たちはとても絵になります。」  にこやかにおっしゃる。―――これって、褒められるのだろうか。  やっぱり変わり者だよね。美術教師とかって。  「そういうの、仲よきことは美しき哉。っていうんでしょ、先生。」  雄彦は適当な茶々を入れて、ボリューム重視の茶色い色味のおかずからデッカイから揚げを頬張る。そして、僕のお弁当のごはんの上にも、から揚げを一つひょいと載せた。ごく自然な仕草で。  いつもお裾分けありがとう。おばさんのから揚げ、美味しいよね。  「そうそう、それですね。動物でも人間でも、仲の良い姿は美しいですね。」  先生は真面目に頷いて、そんな僕らのやりとりをにこにこと見てる。  なんとなくかみ合っているようないないような不思議な会話だけど、妙に和やかで微笑ってしまう。  春まだ浅い三月の柔らかい日差しの中、僕らはそんな長閑なお昼休みを過ごしていた。    「じゃあ、失礼します。お茶ご馳走さまでした!」  元気よく頭を下げる雄彦に、僕も慌てて頭を下げた。  「はい。またいつでもどうぞ。」  先生は、ひらひらと手を振った。  僕らは教室に向かう渡り廊下を並んで歩く。もうすぐチャイムが鳴るころだ。  「けっこう面白い人だな、桜井さんて。人の良い変わり者って感じでさ。」  「そうだね。また行きたい。」  「へぇ、珍しいな、人見知りの成ちゃんが。―――妬けるんだけど。」  「は?」  「でもさー、やっぱ難しいよな、お昼休みにお城でお花見ランチってのは。いいアイデアだと思ったんだけど。」  まだ言ってる。  「やけに拘ってない? それにまだ早いだろ、桜には。」  「だって、帰りに行こうって言ってもお前嫌がるし。」  「当たり前だろ。カップルばっかじゃないか。男同士の二人連れなんていないよ。」  「――恥ずかしい?」  真顔で訊く。  まっすぐこちらを見る彼の目は、白目の部分がはっきりしていて、少し怖いくらいで。僕は黙ってじぶんの爪先に視線を落として歩く。  「桜、好きだって言ってただろう。この学校の周り、桜並木が多くて嬉しいって。去年入学式でさ。」  いつもの笑顔に戻って、雄彦は僕の顔を覗き込む。  「桜の嫌いな日本人なんていないし。…わざわざお城に行かなくても道沿いの桜で十分だし、登下校で見れるじゃないか。」  「それとこれとは、また意味が違うというか…。ま、いいや。」  雄彦は、諦めたように肩を落とす。――どうしてこう素直じゃないんだろう、僕は。  雄彦は俯いたままの僕の髪をくしゃくしゃと掴んでいう。  「いつか、行こうな。」  「…うん。」  「在学中に行くのが恥ずかしかったらさ、卒業してもっとおっさんになってからにしよう。弁当もってさ。…いや、酒の方がいいか。花見の宴会? それなら恥ずかしくないだろ。そんな人いっぱいいるしさ。お城の公園の満開の桜、見に行こうな。二人で。」  「おっさんって…、いったい何年後なの?それ」  「んー、十年後くらい?」  二十八はおっさんなのか?とも思うけど。  ―――本当に、そんな日がくるといいな。  「…約束だよ。」  思わず、零れてしまった言葉。  「うん、約束しよ。じゃあ、卒業して十年後の四月一日な。覚えやすいし。よし、その日こそ念願のお城デートだ。忘れるなよ?」  「うん。」  「雨天延期なしな。」  そう言って、雄彦が笑う。  帰りにラーメンを食べに行こう。図書館で一緒に勉強しよう。日曜日に映画を見に行こう。  そんな日常の約束を、幾度となく繰り返してきた僕たちなのに。  そのときの僕は、他愛ないそんな遥か未来の約束が、何故かとても、嬉しかったんだ。  
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