さくら、さくら。

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   「コーヒー、紅茶、日本茶、えっとあとは、コーラかカルピスソーダ。何がいい?」  冷蔵庫のドリンクホルダーを思いうかべながらそう言った僕に、  「あったかいお茶。」  渋めのオーダーが返ってきた。  「了解。」     勝手にヒーターを点けてコートを脱いでいる雄彦をおいて、僕は一階のダイニングに降りた。  学校からは僕の家の方が近いし、僕の両親は共働きで夜まで帰ってこない。だから、部活のない日は彼が途中下車して僕の家に寄ることが多かった。  お茶を淹れて二階の自分の部屋に戻ると、雄彦はホットカーペットの上ですっかりくつろいでいる。  僕は彼の前に、湯呑の載ったお盆を置いた。  「ありがとう、成。」  彼はどんな小さなことでも、いつもちゃんと、自然にありがとうと口にする。育ちが良いってきっとこういうことを言うんだろうな。と思う。    「どういたしまして。」  いつものことなのに、なんか可愛くて、微笑ってしまう。  間違っても亭主関白にはなりそうもないよね。そんなことを思いながら、僕は学生服の上だけ脱いで、部屋着にしてるパーカーを羽織った。  その様子を見ていた雄彦が訊いてくる。  「なぁ、成、痩せた?」  「え、そんなことないと思うけど…。」  ほんとは少し痩せた。ほんの1、2㎏だから、見た目にはそんなに変わんないと思うけど。  「いーや、痩せたよ。ほら。」  ベッドに凭れるようにして座っていた雄彦が、その隣に腰を降ろした僕をいきなり抱きしめる。  「もともと華奢だけど、前よりなんか骨を感じる。」  感触で確かめないで欲しい。  「ばか! いきなり何すんだよ!」  一瞬硬直してしまったけど、慌てて彼の腕から抜け出そうともがく。でも、がっちりと回された腕はびくともしなくて。  「どーせ、鶏ガラだし。…巨乳じゃないし」  「は?」  ぼそりを言った僕に、雄彦が怪訝な顔をする。  「巨乳のグラビアアイドルがお前の好みだって、剣道部の奴らが言ってた。黒髪ストレートロングの。」  「…聞かれたから、答えただけだよ。二択だったし。なんで部室内の猥談をバラすかな、あいつらは。」    げんなりした顏で溜め息を吐く。  雄彦は同性愛者ではないと思う。多分僕も。  僕とこういうことになっていなければ、多分性的な嗜好はストレートだ。どんな女の子がタイプかと訊かれて巨乳ちゃんを選ぶ程度には。  お互いの気持ちが、友情を超えてしまったことに気付いたのは、キスをした後だった。  いつものように、僕の部屋で宿題をしておしゃべりをして。二人きりの部屋の中では、ごく自然に二人の距離は近くなってゆき、少しでも近くに居たくて、くっついていたくなって、気が付いたら、唇が重なっていた。  そのとき、驚きと同時に、僕はすとんと納得した。  彼に対するこの気持ちがなんなのか、どう呼べば良いのか分からずに、ずっともどかしかった。  これが『恋』だとすれば、納得がゆく。そう思った。  この独占欲も、切なさも、彼に触れたい、触れられたいと思う気持ちも。これが恋なら。  そして、その触れるだけの口づけのあと、彼は僕に好きだと言ったのだ。  そうして『恋人同士』になって、もう一年以上が経つ。  雄彦と僕はもうとっくに清らかな関係ではない。お互い童貞で、男同士のセックスに関してほとんど知識もないから、初心者の僕らで分かる範囲のアレコレ止まりで、――身体を繋げるところまで至ってはいないけれど。  自宅だとやっぱりなんとなく落ち着かないっていうか、準備?とかもよく分からないし、そういうところを使うということに抵抗もある。  僕の方に負担が大きい行為みたいだから、雄彦は無理強いしないし、僕の方もなかなか勇気が出ないでいた。  それでも、こうして抱き合ったり、キスしたり、お互いの身体を触ったり口づけたりは何度もしているのに、いつまでたっても慣れなくて、こうして抱きしめられるだけでも、いちいち心構えが必要なのだ。  回数を重ねようが、恥ずかしいものは恥ずかしい。  話していても、がっちりと僕を捕えた腕はびくともしなくて、僕は赤くなってしまった顔を隠せなくて、――きっと変な顏をしてるよね。  雄彦は、そんな僕の様子に、しょうがないなっていうふうに、ちょっと困ったうような表情で微笑む。  あ、この表情(かお)好き。  一瞬見惚れてしまった僕の唇に、彼の唇が重なる。  キスは好きだ。  この行為は、男と女でも、男同士でも、きっと変わらない。  触れるだけのキスも、確かめ合うようなキスも、少しエロモードに入った時のキスも、全部好き。ふざけるように、啄むキスも。  雄彦とするキスは、全部好き。すごく幸せで泣きたくなる。  そのまま彼に身体を預け、肩に凭れた僕の額の辺りで雄彦が囁く。  「なぁ、成は大学どこ受けるんだ?」  「まだ決めてない。雄彦は?」  「一応K大の医学部。」  関西にある国立最難関の一つ。同じ大学に進もうだなんて夢にも思えないから、いっそ気が楽かも。  「でも、別に国立の医学部ならどこでもいいっちゃいいんだ。私立は授業料が高過ぎてうちの経済力じゃ無理だけど。だから、成の受ける大学と一番近い国立にする。一緒の大学なら言うことないな。」  僕はその言葉に驚いて顔を上げた。  「そういうのって、主体性がないって言うか…。――そんな決め方でいいわけ?」  「あるだろ、主体性。将来の夢と恋愛と、両立できるベストな方法だと思うけど?」  雄彦の夢は医者になること。  小学校の頃に『将来の夢』っていうタイトルで作文を書かされたときに、いろいろと子供なりに真剣に考えて決めたらしい。  生真面目な雄彦らしい決め方だよね。そこからまったくブレずに、今に至ってるところも。  僕なんてそんなの何書いたかも覚えてないのに。  僕は黙って、彼に胸に身体を預けて目を閉じた。  僕を包む雄彦の腕が、柔らかくなる。僕は、こうして、――何も考えず、寄り添ったまま過ごせればそれでいいのにな。って思う。将来なんてどうでもいい。ずっとこうして居られたらそれでいい。  そんな叶うはずのない、夢とも言えない、バカみたいな我儘を口に出しはしないけど。    二人が恋人で居られるのは、この部屋の中だけ。このほんのひと時だけだから――。  今は直接肌に触れてくる彼の掌の熱を、ただ感じていたかった。      雄彦が帰ったあとの、ひとりの部屋で考える。  将来の夢と恋愛の両立。雄彦が事もなげに言った言葉。  彼は頭も良いし努力も惜しまない。彼は将来、患者の信頼に応えられる立派な医師になるだろう。  そのとき僕は、彼の恋人でいられるのだろうか。    友達と恋人の境界線はひどく曖昧で、僕らは知らないうちにそれを超えてしまった。  それが正解だったのかどうか、今でも解らない。間違っていたのだとしても、もう元には戻れない。  彼と肌を合わせて触れ合ったあと、一人になるといつも後悔が押し寄せてくる。  どうして、友だちのままで踏み止まらなかったんだろう。  なんでも分かり合える親友なら、彼に彼女が出来て少し寂しく思うことはあっても、友だちとしてずっと側にいられたのに。  お互いに普通に恋をして、いつか結婚して、子どもが出来て、それぞれに新しい家族が出来ても、親友というポジションは揺らがない。  友だちなら、身体じゃなく心でずっと繋がっていられた。友だちのままなら、きっと、年をとっても変わらぬ友情で結ばれていたはずなのに――。  僕はひと時の『恋』と引き換えに、永遠の友情を失くしてしまったのかもしれない。  三年生になって、僕は私立文系クラス、雄彦は国公立理系クラスになって、クラスも離れ、選択授業も一つも重ならなかった。  それでも、登下校と図書館での勉強は一緒だった。  夏休みは毎日二人で図書館に通った。人に教えるのは再確認になるから。と僕が分からないところを、彼は丁寧に教えてくれた。  ただ並んで勉強しているだけでも、幸せだった。触れ合わず、言葉もなく、ただ側にいるだけの時間。それでも僕にとってそれは大切な蜜月のような時間だった。    新学期が始まって、僕は彼に少し距離をおこうと提案した。  雄彦は不満そうだったけれど、浪人してまた一年この生活が長引くのは嫌だし、あと半年死ぬ気で勉強して、今年で終わらせよう。と言ったら納得してくれた。  いざそうなってみると、もともと意志の強い雄彦は、より勉強に集中できているようで模試の順位もどんどん上がっていった。  理数系が苦手な僕は最初から公立を諦めて私立に的を絞り、K大と同じ市内にあるD大を受験すると彼に伝えた。それに合わせて雄彦は、K大を第一志望にして勉強漬けの毎日を過ごしている。  志望大学に受かれば、春からは二人とも家を出ることになる。K大は寮もあるみたいだけど、一緒に住めたらいいな。と雄彦が笑う。  そんなふうに、春からの新生活を夢見ながら、僕らは高校生活最後の年は穏やかに過ぎていった。    「成瀬、漢文の補習とってただろ?。次D-5教室だそ。」  「あ、うん。」  ぼーっとしていた僕は、慌てて教科書を取り出す。  「大丈夫? なんか顔色悪いけど。…ちゃんと寝てる?」  関口が、心配そうに僕の顔を覗き込む。三年生になってクラスは離れたが、関口も私立文系コースで選択授業はほぼ同じ。必然的にこいつと行動を共にすることが多くなった。関口は気を使わなくていい数少ない貴重な友人で、みんながぴりぴりしだすこの時期、能天気なこいつと一緒にいるのは気が楽だった。  「今頃、十分な睡眠時間とってる奴の方が珍しいだろ。」  「俺、八時間は寝てるけど。」  胸を張って言うな。  「冗談だろ。この追い込みの時期に。」  「今だからじゃん。もう十二月だぜ。今さらじたばたしたって仕方ないもん。それに俺成瀬ほどレベル高いとこ受けないし。ちゃんと自分の頭の程度に合わせて受験するから。」  「悪かったね。じたばたしてて。」  別に勉強するために起きている訳ではなく、眠れないから勉強してるだけだけど。  「やーい、ガリ勉。」  むっとした僕に、追い打ちをかける。ほんとイイ性格。  「なぁ、この短期補習が始まったときから思ってたんだけど、成瀬ってD大一本で行くって言ってたよな。落ちたら浪人するって。」  「うん。」  「あそこって入試に漢文なかったと思うんだけど。」  とっさに言い訳が思いつかない。黙り込んでしまった僕に、関口の方が慌てる。  「もしかして、――知らなったってことは、無い、よな…? うーん、でも成瀬って意外に抜けてるとこあるし。今心の中で、『しまった!! なんて無駄なことしてたんだぁっっ!!』って叫んでる?」  「叫んでないよ。――もう一つ、受けることにしたんだ。」  「なんだ。でもその方がいいよ。一個くらいは滑り止め受けておいた方がさ。」  「滑り止めじゃなくて、そっちが本命だけど。――内緒だから、誰にも言うなよ?」  関口はこう見えて口は固い。  「どこ受けるの?」  「…W大。」  「え、W大って、東京の?」  東京以外にW大はないだろ。と心の中で突っ込んでおく。  ここは関西の片田舎にある進学校。通うにはしんどいけど、京都や大阪に近い地域にあるこの高校の学生は、そっち方面に進学する生徒が多い。東京方面の大学を受験する生徒もいなくはないけど、かなり少ないと思う。  「なんでまた、いきなりそんな遠いとこ。」  「いきなり、ってわけでもないんだけど。」  「それって、竹岡は、」  「知らないよ。」  被せ気味に言ったあとそのまま黙り込んだ僕に、同じく暫く無言だった関口が口を開く。  「えーっと、…よく分からんのだけど、確か成瀬も竹岡も本命一本で行くって言ってたよな。二人とも京都の大学でさ。それが、成瀬だけこっそり東京の大学受けるなんて、」  僕の方を伺う様にちらっと見て、続ける。  「やっぱり、その理由って竹岡なの?」  言いにくそうにしている関口に対して、僕は思ったより冷静な声が出せた。  「やっぱりって、どういう意味?」  今度は関口が黙り込む。  もう補習が始まる頃だ。教室にはもう誰もいない。選択補習だから出席はとらないし、途中からでも入れるけど。  「…ケンカでもしたとか。」  「普通、友だちとケンカしたくらいで志望校まで変えないよ。」  「違ってたら……、ごめん。おまえらって、ただの友達じゃないんだろ?」  思ったよりショックじゃなかった。なんとなく彼は気付いているような気がしていた。もう、ずっと前から。  「もしかして、――噂にでもなってた?」  「いや、俺が勝手になんとなくそうかなって、思ってただけ。」  「さすが関口。」  イヤミでなく、素直にそう思う。  最初から、雄彦はこそこそしたくないと言っていた。僕がみんなに知られたくない。って言ったから、黙っていてくれただけ。  雄彦はもともとそういうの人に吹聴したり、人前でいちゃいちゃしたりするタイプじゃないし、いつも一緒にいても、仲が良い親友同士だと思われているだけで、今まで変なふうに言われることはなかった。  バレンタインの雄彦の発言の時も、本気で雄彦の恋人が僕だなんて思っていた奴はいなかったはずだ。きっと関口以外は。  「でも、ケンカしたとか、嫌いになったとか、何かあったようには見えないけど…。」  「別に何も問題はないよ、今のところ。雄彦は春からも一緒だと思ってるだろうし、言うつもりもない。卒業と同時に、僕が雄彦の前からいなくなる。それだけだ。」  「――なんでそんな手の込んだことするんだ? 別れたいんだったら、そう言えばいいじゃないか。わざわざそんな遠くに行かなくても。」  それには答えず、反対に聞いてみる。  「関口は、――気持ち悪くない? 男同士なんて。」  「偏見は持ってないつもりだけど…。他に身近にいないから、よくわかんないっていうのが、正直なところだな。――でも、ほら、こういうのって思春期にはよくあることだっていうし。知らないだけで、そんなに特別なことじゃないのかもよ?」  関口なりにフォローしようと、考えながら答えてくれてるのは、よく分かった。  「そうだね。若気の至り。ってやつだよ、きっと。俺も雄彦も、もともと男が恋愛対象なわけじゃないから。…卒業っていうのはいい機会だし。遠く離れてしまえば…、そのうちきっと忘れられる。」  そう、こんな関係きっと長くは続かない。  だから、僕が雄彦の重荷にならないうちに、気持ちが冷めて嫌われないうちに。僕らの恋が、枯れて萎んでしまわないうちに。花吹雪になって散ってしまえばいい。  ひと気のない教室は、すぐに冷えてくる。  僕は出していた教科書を鞄に放り込んで、コートに手を伸ばす。今日はもう、遅れてまで補習に出る気にはなれなかった。  帰り支度を始めた僕を黙って見ていた坂下が、不意に口を開く。  「要するに、そこまでしなけりゃ忘れられないくらい好き。ってこと?」  「―――そうだよ。」  僕は、そのまま教室を後にした。            
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