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◇◇◇
バレンタインの当日は薄く曇っていた。
目の前に差し出されたのはバーシーズのチョコだった。いつもと同じ。
帰り道に梨穂子に声をかけられた。久しぶりでちょっとびっくりした。でもよかった、『幼馴染』は続いていた。涙が出そうになった。
「鈴原には?」
「これから待ち合わせ、でもその前に」
「そう、でも」
嬉しいけどもらうわけにはいかない。彼氏以外にチョコをあげたら駄目だと思う。だから予定通り断ろうと思った。でも言葉が出なかった。よく考えるとその一言は拒絶の言葉だったから。
『もらえない』。口のなかがカラカラに乾いて、その言葉がでない。俺はこれまで梨穂子に何かを伝えたことがない。それで関係が変化するのが怖かったから。
俺は梨穂子に一方的に『幼馴染』をもらっていた。それでよくて、十分だった。本当に。でもここで拒絶したら、もう梨穂子のギリギリから転げ落ちてしまう。そんな恐怖。それは、嫌だ。どうしたら。好きだ。でも。
俺は何も言わずにそっとチョコを押し返した。その瞬間、口から逃げた水分はいつの間にか目から零れ落ちた。
「智司?」
「ありがとう。気持ちだけもらうから」
それが精一杯だった。
菜穂子が少し驚いた顔で俺を見ている。
ごめん。俺は苦しすぎて、逃げた。そんなつもりはなかったのに。結局これじゃ『幼馴染』も終わってしまったじゃないか。何ていう馬鹿なんだ。俺は全部を失ってしまったんだ。畜生。それなら。一層のこと、せめて、好きだと言えばよかった。
でもきっと、それはものすごく迷惑なことだろう。だからこれでいい。
走る足は泥のように重かった。逃げて逃げて、逃げた先は小さい頃に遊んだ公園だった。
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