Phantasm

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『夢泥棒の話』  僕らが小さい頃には、父親である博士の部屋にたくさん絵本があって。  僕らはそれを読むのが大好きだった。  ココロを持つロボットの話や線路を歩いていく少年の話。見ているだけで心躍るそんな絵本達に僕らは思いを馳せ、そんな世界に恋焦がれ。色彩豊かで温かい世界をずっと夢見て、二人生きてきた。  今回のお話は、その中でも僕らが――特にゼロが気に入っている話についてだ。  それは夢を盗む怪盗、夢泥棒の話。深夜子どもたちが寝静まる頃になるとその泥棒は現れる。悪夢に苦しむ子どもたちを救い出し安らかに眠れるよう新しい夢をくれる。そんなミステリアスで心優しい盗人の話を、僕らはずっと忘れられないでいる。  心優しいゼロは、僕よりもその話が好きだった。そして今回僕らがとある少年に出会った時、再びその話を思い出して。ゼロと僕は一つの夢を見つけることになる。  それについてはまたいつか、追々伝えていくとして。  僕らがいつも求めていたのは、鮮やかで優しくて、僕らが昔知らなかった温かな世界だ。  そんな夢の世界を見せてくれた彼に、僕らは今も感謝している。 『夢の世界の話』  白い部屋の中には柔らかな日差しが入り込み、温かな風が吹き抜ける。薄いカーテンの向こうには青い空が広がっている。たなびく白い雲に目を細めながら、目の前に横たわる少年を眺めていた。  僕とゼロは彼の眠るベッド脇に腰掛けながら、彼が目を覚ますのをじっと待っている。 「……静かに、寝てるね」  隣に座るゼロが、穏やかに笑いながら言った。 「まるで病気だってのが嘘みたいだ」  そうだね。僕も呟いて、眠る彼を見つめる。白い肌に線の細い顔つき。確かに健康的は言い難いが、それでも綺麗な顔だ。病弱には見えない。  それでも、今僕らの目の前にいる彼は、確実に病魔に蝕まれている。そうして、その命もそれほど長くはないという。  旅先で出会った彼とは、かれこれ一か月近くの付き合いになる。この街までやってくる時に出会い、そうしてこの街で再会した時には、彼はもう床に臥せっていた。僕らよりも少し幼いくらいの、まだまだ先の長いはずだった人生。それが、直に潰えようとしている。 僕らはそれが、少しやるせなかった。 「……O2、ボクね、ずっと考えてることがあるんだ」  ゼロがそう呟きながら僕の方を見た。その顔はいつにもまして真剣な物で。僕も「何?」と聞き返す。  ゼロが小さく頷く。 「彼のために何かできないかって。何かしてあげられないのかなって、ずっと考えてて……」  それは、ゼロらしい悩み事だった。優しいゼロのことだから、ここ最近ずっとそのことばかり考えていたのだろう。だけど、それは。 「僕もそう思っていたよ」  僕だって一緒だ。  ゼロの表情が明るくなる。彼が目を覚ましていないことを確認すると、僕らは足早に病室を後にした。    *  彼は、夢の話をよくしてくれる。  積乱雲の流れる空を見たいと言った。それは土石流のように、道の果て、地平線をなぞる。黒雲は風に流され、広い空へとゆっくりゆっくり広がっていく。その景色は圧巻で、それを想像しては破顔する彼の顔からは、少しも病魔の色を見てとれない。  果てまで広がる空の先に何があるのか。そんな場所に行ってみたい。  彼はそうやって世界を夢見ている。 「そんなに綺麗なばっかじゃないよ?」  苦笑気味に僕がそう言うと、彼は口を尖らせて怒った素振りを見せた。隣のゼロが笑う。僕もつられて笑った。 「いつか、君の夢見た世界に行ければいいね」  そう答えると、目の前の彼が笑って見せた。  それはきっと、ネバーランドのようなものなのだろうと僕は思う。子どもたちの夢見るネバーランドは、いつだって恋焦がれながら遠のいていく。やがては夢の世界も終わりを告げるし、叶えたかった願いが叶わぬまま、忘れてしまうことの方が多い。  そんな話をしてくれる彼も、自分の身体のことは良く分かっていて、だからこそ夢ばかり見ていて。  積乱雲の立ち上る夏空は、どこまでも雄大で輝きに満ちている。それは彼にとっては、届かない物の象徴なのだろう。窓から眺めることしかできないような、そんな。  あんな風になりたい。強く逞しく。  そう彼は、願い続ける。  外に出られない彼は、白い部屋の中で僕らにたくさんの話をしてくれる。いつだって彼の話の中心にある物は夢で、僕らは物語のようなその話に思いを馳せる。ファンタジックで現実味のない夢の話。積乱雲の話も、いつか見た夢だと言っていた気がする。 「こっちの世界では、生きていられないからね」  彼はそういって苦笑する。白い顔はカーテンの向こうの世界を夢見て、ぽつぽつと言葉を残す。 「夢の中でなら、僕は生きていられるんだよ」  元気な姿で走り回っている。あるいは、よく食べて、よく遊んで、よく寝て。そんな当たり前の生活を当たり前のように続けている。僕もゼロも、そんな彼を想像して「素敵だね」と返した。  そうなれたらよかったと、彼は言った。 「夢はね、いつか終わっちゃうんだ。僕の生きている時間ももうすぐ終わる。だから、少しでも多く夢を覚えておく。鮮やかな記憶を、僕の中に残して行く」  そうして見た鮮やかな世界を、いつか誰かに伝えていけたらいいんだけど―― 「――O2? ねぇ、O2ってば」 「ん……ぁ、あぁ、ごめん。どしたの、ゼロ」 「どうしたも何も、さ」  ちゃんと探してよね。そう言ってゼロは目の前に開かれた本を指さした。どうやら読み物の途中でうとうとしていたらしい。短く目を擦ると、僕はゼロにごめんと言った。 「なかなか見つからないもんだね」 「うん……ボク達の探し方が悪いのかな」  それもあるかも知れない。僕はそれだけを告げると、席を立って歩き出した。  ここは図書館だ。僕らの住む街では一番大きい。絵本から専門書まで幅広く扱っていて、探し物をするには多すぎるくらい。僕らはその中からある物についての本を探している。それは不思議な生き物で、僕らの住む街にいるのかどうか、僕らは知らない。  背の高い棚を一つ一つ確認しては、背表紙の文字を追っていく。その生き物の名前を探して歩く。そうして、それらしい本を見つけた時、思わず安堵に息を漏らした。がしかし、だ。 (……どうやって、取ろうかな)  最上段に置かれたその本を見上げながら、僕は暫し途方に暮れた。辺りを見回して足場になる物を探したが、それらしい物は見当たらない。  ゼロを呼ぶしかないだろうか。そう考えていた僕の耳に、次の瞬間聞きなれた声が響いた。 「何だ、珍しいのがいるな」  試しに伸ばしかけた腕を止めて声のした方を向けば、そこに見知った人の姿を見つけた。思わず相好を崩す。 「やぁ、お兄さん。お久しぶりだね」 「それはこっちの台詞だって。今日は連れいないのか?」  快活に笑う彼に僕は肩を竦めて見せる。説明が面倒だとは言えず話を流そうとした瞬間、背中に不意な衝撃を受けて足に力を込めた。すぐにその原因には察しがついた。 「お兄さん、お久しぶりです」 「よ。やっぱり一緒にいたんだな、お前ら」  僕の背中にべったりもたれかかりながら、ゼロがにへらと笑う。今の突進には何も言わないことにして、お兄さんの方を向き直った。 「ついでだから、お願いしてもいい?」  そうして、僕らは目的の本を手に入れた。 「蛍を探してる?」  何だよそれと聞き返されて、僕らはすかさず手元の本を指し示す。お兄さんはそれを受け取り、納得したように頷くと「何でまた」と怪訝な調子を続けた。  僕らは一度目配せしあってから、事の経緯を彼に説明した。友人のために何かしたいこと。そのために蛍を探そうとしていたこと。探そうとした理由は、彼の望んでいる物に近いと思ったからだ。彼の求めた夢幻に。  僕らの話を一通り聞き終えると、お兄さんは少しばかり口元を緩めて見せた。楽しいものを見つけたような表情だと僕は思った。そうしてその見識は、どうやら間違っていなかったらしい。 「俺も手伝っていいかな」  その提案は少しばかり予想外で、思わず僕らは顔を見合わせる。何をするのかと尋ねたら、彼は僕らにとある提案を投げかけた。僕らはそれを聞いて、とても胸を躍らせた。とても魅力的な申し出だ。 「いいよ、そっちのことはお兄さんにお任せする。僕らは僕らなりに、できることをしてくるから」 「あぁ、頑張れよ」  そうと決まれば、やることはたくさんありそうだな。そう言うお兄さんの目はどこか輝きを含んでいて、傍目に見ている僕らも何とはなしに嬉しくなる。相変わらず、子どもみたいな笑い方をする人だ。  初めて出会った時と変わらぬ、希望に満ちた光を宿した笑顔。その目に、僕らも背中を押されるのだ。  お兄さんは僕らの方を一瞥し、そうして僕とゼロの頭を荒っぽく撫でたかと思うと、ニィっと笑って見せた。 「お前らが、誰かのためにやろうとしてることだからな」  俺も出来る限り力を貸すよ。そう言い残して彼は去っていった。  後には、苦笑気味に顔を見合わせる僕らが残された。 『灯火の話』  優しい光が世界を包み、静けさの中に魔法が広がる。そこはきっと、彼が夢見た場所だろうと、僕らは二人して笑みを零した。 「綺麗だ」  ゼロが木々の隙間を見上げながら呟く。僕も頷きながら、池の周りを舞う光に魅入っていた。どこか懐かしさを覚える光だ。淡い緑色の、優しくて、柔らかな光。僕らの故郷を思い出す。あの丘の上から見た、あの日の夜空を思い出す。少し感傷的な気分になった。  蛍が、そこにいる。 「喜んでもらえるといいけど」  僕はそう言いながら手元の瓶を開ける。そっと光を掬い、蓋をゆるくしめる。これでいいかな。そう言ってゼロを窺い見た。  ゼロが無邪気に笑って見せる。 「ボクらができることは何だろうって、ずっと考えてた」  目の前の泉に視線を落としたゼロが、深呼吸をしながら囁いた。 「あの家から抜けだして、ボクとO2はずっと旅をしてきて。そうして色んな人に出会って、色んなものを見て。ボクらが知ってる世界は、きっとあの子が見てきた世界よりもずっと広い。ずっと大きい」  けど、さ。ゼロが物憂げな調子で続ける。 「ボクらの知っていた世界は、同時に汚くもあった」  そう言って僕の方を見つめる。僕は先ほどのゼロと同じように、視線を泉に向けながら、僕ら二人のことを思い返していた。  小さな街の隅っこで、僕らは生まれた。魔女と呼ばれた母親と、黒い噂の絶えない父親。僕らはそんな所で生まれ育ったもんだから、よく周りの子どもたちにいじめられて、大人たちに蔑まれて。僕らの見てきた世界はそれだけの小さな空間で、その中はひどく淀んで見えた。 「あの日、あの時、二人で抜けだした事は」  今でも正しかったと思ってるよ。そう言うと、ゼロが優しく微笑んだ。 「……ボクね、ずっとなりたかったものがあるんだ」  囁くゼロに聞き返す。それは何? 夢みたいなものだとゼロが答えるので、僕はますます分からなくなる。 「O2は覚えてるかな。昔、博士の部屋で見つけた絵本のこと。その中に、悪夢を奪っていく泥棒の話があった」 「……あぁ、そんなものもあったね」  よく覚えてたねと返すと、ゼロが嬉しそうに破顔した。 「ボクね、あの泥棒さんにずっと憧れてた。子どもたちが安らかに眠れるよう、人知れず悪夢を取り除いてあげて、そうして優しい夢だけを残していく。すごいなぁって思って、ずっとそんな人になりたくて」  だけど、ボクらは――。ゼロが言葉を区切る。 「ボクは、彼の病気を治してあげることも、彼の夢を叶えてあげることもできない。そんな力はボクにはなくて、だからボクはその泥棒さんにはなれない。だけど、真似することはできる。彼に優しい嘘を吐くことならできる。それで彼が少しでも幸せな気持ちになれるんだったら、ボクはそれでもいいと思う」  例え、紛いものでもね。ゼロはそう言って話を締めくくった。  僕はずっと、夢泥棒の話を思い出していた。子どもたちの間で密かに語られる伝説のような存在。その絵本の中では、そんな風に描かれていた。彼が見せる夢はお菓子の家の夢だったり、空を飛ぶ夢であったり。子どもが喜びそうな夢を、悪夢と引き換えに残していく。そうして奪った悪夢をどうしているのかは語られていないが、きっと彼は獏か何かなのだろう。心優しき泥棒の姿。ゼロはそんな姿に憧れているという。  ゼロらしいなと、そう思った。 「……帰ろっか」  ゼロが言って、僕も頷いて答えて。そうして僕らは、その泉を後にした。  僕らが故郷に捨てて来た物は、小さい頃の自分と家族、そして絵本。そうして手に入れた物は、新しい場所と鮮やかな色彩、感情、たくさんの思い出と。  二人で過ごす、穏やかな日々だ。  それが正しかったのかは分からない。分からないけど、僕らは確かに今日も、自分達の道を歩んでいる。  ゼロが優しい嘘を吐くというなら、僕もそれに続く。ゼロが人の幸せを願うなら、僕もそれを願う。  二人で頑張れば、きっとその夢も叶うんだって。  僕は信じている。 『夢の国の話』 「ねぇ、どこ行くの?」  急かすような声を上げる彼をなだめながら、僕とゼロは道を行く。車いすがガタガタ揺れるから、彼は落ちないように必死だ。そうして、その目は僕らの渡したアイマスクに隠されている。 「もうすぐ着くからね」  そう言ってまだ行き先を告げはしない。彼は少しだけ不満げにため息をつくと、「分かったよ」と言って押し黙った。僕らは少しだけ足を速める。  病院から彼を連れだすのには、あまり苦労しなかった。最近は少し調子がいいとかで、車いすで庭を回っている姿を見かけていたからだ。一つだけ問題があるとすれば、とうに陽が沈み切っていることくらい、だろうか。 「こんな時間に外に出たの久しぶりだぁ」  高揚気味な声に思わず安堵しつつも、僕らは揃って「これからもっと面白くなるよ」と言った。彼が嬉しそうに口遊む。  僕らは今、お兄さんに告げられた場所まで向かっている。そこに何があるのか僕らはちゃんと知っているけれど、彼がそこに行ったことがあるかは知らない。僕らの住む街の傍にそんな物があったなんて、僕らも初めて知ったくらいだ。  見えてきたその場所は、光を灯し陽気に明るい。早くその景色を見せてあげたい。逸る(はやる)気持ちを抑えきれずに、僕らは駆け出した。 「……着いた。着いたよ」  取っていいよ。僕らの声にアイマスクを外すと、彼は思わず息を飲んだ。 「……うわぁ……っ!」  どこからか陽気な音楽でも聞こえてきそうなほど、その場所は賑わっている。門を抜けた先には風船を持った着ぐるみが何匹も連なっていて、彼と僕らの到着を待ちわびていた。  そこは、遊園地。  子どもたちだけの、夢の国だ。  彼が求めた夢の国。賑やかで、底抜けに明るくて、楽しくて、誰もが幸せで。そんな場所を考えていた時に、お兄さんが僕らに言った。ちょっと前までやっていた遊園地を、使わせてもらえないかと。何でも遊園地を取り仕切っていた人と知り合いだとかで、この話は日の目を見た。一夜だけの貸し切り。  彼のためだけのナイトパーティだ。  車いすに乗りながら、彼が身体を小刻みに揺らす。小さく声が漏れている。僕らを見上げ、その高揚した頬のまま破顔する。 「ど、どこから、行くっ?」  遊園地に来たことがないのだと言う彼は、傍目にも興奮を隠しきれない様子だ。僕らも、それに応えるべきだろう。  僕らは彼の正面に回ると、彼の手を取ってそっと引き揚げた。彼がゆっくりと立ち上がる。  輝きを帯びた目が、僕らを捉える。 「大丈夫、時間はたくさんあるから」  今日だけは、僕らと一緒に夢を見よう。    * 「こんなにも、綺麗だったんだね」  夜の明かりに輝く街を眺め、感慨深げに彼が呟く。僕らは今、高度七十メートルを超す上空から。街の夜景を見下ろしている。そう、観覧車だ。  頬を緩めながら夜景を見つめる彼に、僕らも自然と笑みが零れた。 「君が夢見ていた景色と、どっちが綺麗だった?」  僕の問いに、彼は少し考えてから答える。 「どっちも。同じくらい綺麗だよ」  知らなかった。そう言って彼はゼロの隣に腰を降ろす。交互に僕らの顔を眺めてから、無邪気に笑って見せる。 「今日は、ありがとう。僕のために、わざわざこんな」 「いやいや」  構わないよ。そう言って僕らは言葉を続ける。 「僕らはやりたくてやっただけだから」  観覧車に乗るのも、あるいは彼の夢をかなえるのも。元はと言えば、ゼロがやりたいと言い出した事。僕らがやりたいと思って、勝手にやったことだから。 「それで喜んでくれるなら、僕らも嬉しい」  僕が答える。ゼロが笑う。そうして、彼もはにかむように笑った。 「そういえば、ね」  訪れた静寂を破るように、彼が口を開いた。視線は窓の外へと移り、ぼんやりと世界を見つめている。 「今度、遠くの病院に行くことになったよ」  僕とゼロは言葉を失った。 「……遠くの街の大きな病院。そこで手術するんだって。ここでは治療できないけど、そこなら望みがあるからって、母さんが言うんだ。だから……突然、なんだけど」  さよなら、だ。彼が小声で呟いた。  風がゴンドラを揺らし、観覧車が緩やかに揺れた。波紋を投げかけるような穏やかな揺れだ。僕は頬杖をつきながら夜景を眺め、おぼろげにその景色を呪っていく。  ほら、やっぱりこれは夢でしかないんだ。 「もう、こっちに帰ってくることはないの?」  悲痛な声音でゼロが尋ねた。頷く彼の顔には笑みが溢れている。強がって笑って。そうやって彼は、どれだけ世界を呪っただろう。どれだけ逃げたいと願っただろう。  僕には想像もつかない。 「――……は、しないから」  忘れたりしない。そう言えば、少しでも楽になるのかな。そう願って僕は言葉を紡ぐ。 「手紙も書く。電話もする。今までのことや、君のこと――そして今日のこと。全部大切な思い出にして、忘れたりしない。君も、覚えててくれるかな」  僕らのこと。そう続けると、彼はくしゃくしゃな笑顔で頷いた。  夢の時間は、いつかは終わる。彼の夢見た綺麗な世界も、僕らが創ったこの幻想も。全て平等に終わりを告げて、現実世界に戻っていく。  どれだけそれに抗ったとしても、勝てる日は来ない。  彼は俯いたまま顔を上げなかった。啜り泣く声の中、僕は同じように外を見ていた。観覧車が下まで着けば、もう夢の時間は終わりだ。  そうして、僕らの別れがやってくる。 「……最後に一つ、魔法をかけようか」  闇の解け込むような声で、ゼロが囁いた。彼が少しだけ顔を上げる。 「ボクが昔読んだ本に、書いてあった言葉だ」  そう言って、ゼロが彼に耳打ちした。彼はそれを聞いて、止められなかった涙をぐっと堪えた。ゼロを見やり、大きく頷く。  僕は再び夢泥棒の話を思い出していた。きっと、ゼロが伝えた言葉は――なんて想像して、すぐに止めた。  次第に地表へと向かう観覧車の中、ゼロが持ってきていた小瓶を開けた。  中から飛び出した緑の光はゆっくりと宙を広がり、狭いスペースの中を仄かに照らす。  彼の手に光が灯った時、彼の頬を再び一筋の雫が伝った。 『それからの話』 「ここも、寂しくなったもんだな」  開け放たれた窓から入る風に、白のカーテンがふわりと舞った。僕とゼロは主のいなくなったベッドに腰掛けながらぼんやりと外を眺めている。窓際でお兄さんが苦笑した。 「そんなにしょげるなよ。ちゃんと、約束したんだろ?」  また会おうって。その反問に、ゼロが大きく頷く。 「また、会えるといいなぁ」  誰に言うでもないように、ポツポツと。呟くゼロはどこか虚ろな調子で、僕はそっと彼の手を握った。 「きっと会えるよ」  青空にポッカリ浮かぶ白雲を眺めながら、僕も言う。そんな根拠のない願いさえ、きっと叶うと信じるしかなくて。  薄らと微笑みながら、お兄さんが僕らの頭をそっと撫でた。    *  後日、僕らが聞いた話だけれど。  彼はその後、言っていた通りに新しい病院に移った。そこはとても大きな場所で、最新鋭の設備が揃っているから、きっと彼の病気も治るだろうと言われていた。  彼からは術前いくつか手紙が来て、その後も何度か手紙が来ていた。僕らもそれに返事をしたし、何回かやり取りをしていた。だけど、いつ頃からか手紙は途絶えてしまって。だから、彼がその後どうなったのか、元気なのかどうか、僕達は知らない。  きっとこれから先、灰色の積乱雲が空を覆う季節になると、いつでも思い出すだろう。ふわふわした記憶の中、だけど確かにそこにいた。  もうずっと出会うことのない、彼のこと。  僕らは彼に夢を貰った。生きていく理由になる物を貰った。彼には返しきれないほどの恩を感じているし、できるならもう一度会いたいと、何度も願っている。  空へと向かって逞しく伸びる雲を眺めながら、僕とゼロは大きく息を吸った。 (……君は、目指していた場所まで行けたのかな)  届いたのかな。もう届かなくなってしまった疑問を胸に抱きながら、僕らはまた前を向く。歩き出す。  白くはためくカーテンを眺めながら、僕はぼんやりと羽のようだと考えていた。その羽がいつか、彼の元に届いて。そうして彼を、どこか遠く望んだ場所まで連れていってくれるなら。それはきっと、幸せなことなんだろうと思った。いつまでも、追いかけていくのだろうから。  夢がいつか覚めても。僕らはまた、夢を追う。
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