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成田空港行きの機内にて
シートベルト着用を促すアナウンスが響いた。
乾いた空気の機内で、乗客がそれぞれ地上へ降り立つ準備を始める。ゆっくりと飛行機が高度を下げていく感覚を感じながら、僕は息を吐いた。
窓から見える久しぶりの東京。懐かしい。帰ってきたのだ。いいや、帰ってきてしまった。
僕は手に持っていた便せんを見る。
日本へ着く間に読んでおこうと思った手紙は未だに封すら切っていない。その勇気が出ない。この手紙に、何が書いてあるのかなんとなく想像はつくのだが、それを受け入れられるかは別問題だ。
結局勇気が出ないまま日本に帰ってきてしまった。
僕は便せんをぎゅっと握りしめる。ぐしゃぐしゃになってしまうが、気にしなかった。静かに息を吐いて、手紙を開けようとして――
「手紙。開けないんですか?」
声をかけられた。
僕は驚いて、振り返る。隣の座席に座っていた女性が、柔らかな微笑みでこちらを見ていた。年は僕と同じくらい。素直に綺麗な人だと思った。
「あー、えっと」
僕は答えに迷っていると、女性は眉を下げ申し訳なさそうに「急にごめんなさい」と謝る。
「でも、何時間もそうしているから……。気になっちゃって」
「あー、ですよね」
苦笑いをして、僕は手紙に目を落とす。この際誰かに喋ってしまうのも悪くないかもしれない。それも旅の道中に出会った見ず知らずの女性。話してしまったら案外、今僕の胸につっかえているものを取り払えるかもしれない。そう思って、僕は意を決して口を開いた。
「実は、これ恋人からの手紙なんです」
もちろん、嘘偽りなしだ。
「あら、素敵」
彼女は本当にそう思っているかのように、綺麗に微笑んだ。
「僕の誕生日に、サプライズしてくれようとしてくれてたみたいで」
「ということは、してもらえなかったのね」
「ええ」
頷いて、僕は自嘲気味に笑う。笑う以外にどういう表情をとればいいのか分からなかった。
「その前日、死んでしまったんです。事故で」
こんな事実がなければ、この手紙はもっと幸せの象徴になっていたはずなのに。
「そう……」
彼女が目を伏せて、小さく小さく悲しそうに微笑む。
「辛いわね」
同情だったのかもしれないが、彼女からは優しさがにじみ出ているような気がして、気を許してしまった。
「一緒に暮らしてたんです。だから、遺品整理のときに見つかって……それから開けられてません」
きっとこの手紙の中には、明るい未来が書かれているに決まっている。
誕生日おめでとう。出会ってくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。好きだよ。まだまだこの先もよろしくね。
そんなようなことが書かれているのだ。
僕も望んだ、恋人との未来。でも、どれだけ願ってもふたりで見ることが出来なくなってしまった未来だ。
そんな現実を、僕は未だに受け入れられずにいる。
「本当は恋人の家族にも、言わなければならないことや見せたいものもあるんです。でも、恋人が死んだという事実から僕は逃げたんです」
「それで今まで外国に?」
「ええ。ここで死んでしまってもいいと思って、ボランティア医師団に参加したんです。それでシリアに」
「じゃあ、あなたお医者さんなの?」
彼女は目を見開いて、驚いている様子だった。僕が医師に見えないということだろうか。
「はい」
「凄いですね」
「いやいや、僕の恋人の方が凄いですよ。僕なんて、現地に行ったところでまったく役にも立たなかったし」
「……じゃあ、恋人さんもお医者さんなんですか?」
「あ、いや。カメラマンでした」
「へえ」
彼女は関心したように、ほうっと息を吐く。
「僕も真似して、シリアで色々撮影してみたんですけどね」
そう言って僕は鞄からデジカメを取り出し、隣の彼女に差し出した。彼女はそれを躊躇することなく受け取り、中身を確認していく。紛争地帯で撮った写真なんだから少し嫌がるかと思ったのだが、彼女はあまり気にしていないようだった。一体なにものなのだ。彼女は。
「……へえ」
写真を眺める彼女が感嘆の声をあげる。笑顔で僕にデジカメの液晶を指差した。
「この写真いいですね」
そう言った写真は、シリアの子供たちの写真だった。一様に笑顔で映る子供たちは朗らかで戦時中のものだと思えない。確かにこれは僕の中でもお気に入りの一枚だ。
「でも、恋人だったらもっとうまく撮ったんだろうな……」
「それはわからないですよ」
「……なんでそう思うんです? 一応プロですよ、僕の恋人は」
「だってほら、この写真の子供たちはみんなカメラに目を向けて、笑ってる。これって、カメラに、じゃなくてあなたに笑いかけてるってことじゃないですか」
「……」
「この写真は確かにあなたしか撮れない一枚ですよ」
そう言って朗らかに笑う彼女。僕は釣られるように笑顔になった。
「でも」それでも、僕は彼女の善意を否定してしまう。「やっぱり恋人の方がうまく撮ってしまうと思います」
目を閉じれば思い出すのだ。鮮明に、美しく、そこだけは僕の人生にきらめている。
愛しい人の、笑顔を。
「あいつは、人を笑顔にさせる天才でした」
僕はもう一度、便せんに目を落とす。大切にしていたつもりだったが、年月が経っているからか、便せんは角がよれよれだ。
「本当に」
そんな僕に、彼女は目を細めた。
「本当に、愛していたんですね。恋人さんのこと」
「……、好きでした。大好きだったし、愛してました。最後の最後に、家族じゃないからという理由で看取れなかったことも、他人として葬儀に出たことも、今でも後悔しています」
「……」
「でも、だからと言って恋人の家族に言えなかった。だって、僕たちの恋愛は世間では許されるものじゃなかったから」
その言葉の後に、彼女がふっと息飲むのが分かった。どうやら僕の恋人が何者だったか気づいたらしい。
僕は黙ってうつむいたまま、自分の足先を見つめる。彼女がどんな反応するのか知るのが怖かった。どうしてそんな気持ちになるのか分からなかったが、顔を見上げることが出来ない。
「……」
「……」
しばしの沈黙のあと、そっと彼女の手が僕の視界に伸びてくるのが見えた。僕は驚いて、思わず顔を上げる。彼女は僕の手にあった手紙をそっと抜き取った。
そして、先ほどと変わらぬ笑顔で、
「よかったら、私が読みましょうか」
と言った。
「え?」
思ってもいない言葉に、僕の思考は一時停止する。
なんて? と首を傾げた。
「余計なお世話かもしれませんが」彼女は眉を下げて、少しだけ申し訳なさそうに続けた。「もし、一歩前に出る手助けになるのなら、私が読み聞かせますよ」
彼女に続けてこうも言った。
「私とあなたは、旅の途中にたまたま出会った他人です。あと腐れも出ないし、少しだけ利用するには都合がいいと思いますよ」
「……」
僕は少しだけ、迷うふりをしてから、小さく頷く。
あぁ、彼女はなんていい人なんだろう、と思った。
「お願いします」
僕は出来るだけ、深く頭を下げた。
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