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ある晴れた秋の日のお昼前、歯医者から帰宅した吾郎さんは郵便受けを開けた。
ーー思ったより長いことかかったし腹減ったなあ。お昼は何にしよか。冷やご飯が一膳分ほど残っとったから、ネギと卵で焼き飯にでもしよかいな。
そんなことを考えつつ、毎日のように入れられている地元のコンビニチェーンや不動産屋のチラシを取り出そうとしたとき、折りたたまれた白い紙がはらりと落ちた。
「何や、手紙かいな」
吾郎さんはよっこいしょ、とかがんで紙を拾った。花びらのような地紋の入った和紙の便箋で、顔の前まで持ち上げるとふわりとお香のような香りがした。
ーーこんな奥ゆかしいことをするのは、もしかしたら藍子さんやろうか。
吾郎さんは急いで手洗いうがいを済ませると、眼鏡をかけて茶の間に正座し、便箋を広げた。
『吾郎さんへ 今日はお留守でしたので、お手紙を書きました。今、お寺さんの紅葉がとてもきれいです。明日、ご一緒しませんか。九時半にお誘いに参ります。 藍子』
その短い手紙を吾郎さんは何度も何度も読み返した。
「やっぱり藍子さんからや。お寺かァ、あの人はリュウの散歩で毎日行っとるからな」
吾郎さんは手紙をたたんで茶箪笥の上に置くと、ウキウキとお昼ご飯の支度を始めた。慣れた手つきでネギを刻み、溶き卵と冷やご飯をしゃもじでぐちゃぐちゃと混ぜた。
奥さんが早くに亡くなり、吾郎さんはもう十年ほども一人暮らしをしている。八十近いお爺さんのやもめ暮らしということで、離れて暮らす息子一家が何かと心配してくるが、今の所元気で家事もこなす吾郎さんは何にも不自由はしていない。
藍子さんというのは、吾郎さんの家から徒歩五分ほどのところに住んでいる、やはり数年前に夫に先立たれて一人暮らしをしている同世代の女性だ。
近所の年寄りたちは、町内会のレクリエーションだの老人センターだのでしょっちゅう顔を合わせるのだが、皆吾郎さんと藍子さんが独り身だということを知っているので、何かと二人をくっつけようとしてくる。
「吾郎さん、藍子さんのことどう思っとるのや」とか「藍ちゃん、もっとこっち来て座りいな。ほれ吾郎さんの隣が空いとるで」などと、二人は暇を持て余した爺さん婆さん連中の格好のおもちゃになっている。
吾郎さんはそんな時、「何を言うとるんやッ」などと腹を立てたふりをするのだが、藍子さんはいつも怒るでもなくニコニコしている。
ーーまあ、藍子さんはもう七十といくつかになると思うが、近所の婆さんらの中では一番の別嬪やし、まあまあ色気も残っとるわなァ。
吾郎さんはにやけながらフライパンでネギとご飯を手早く炒め、中華だしの素で味をつけると仕上げに醤油をチュッと回しかけて火を止めた。茶碗によそってから皿にポンとひっくり返して盛れば、焼き飯の完成である。
ーー今はコロナコロナで大騒ぎして、老人会のカラオケやらいろんな寄り合いも中止ばっかりやが、まあ、わしは藍子さんとは毎日のように顔を合わせとるもんな。
藍子さんはリュウという名の茶色い雑種犬を飼っており、毎日午前中に散歩のため吾郎さんの家の前を通るのだ。藍子さんが通り過ぎるのが窓越しに見えると、吾郎さんは郵便を取りに出たり箒で家の前を掃いたりと、さりげなく表に出る。リュウは吾郎さんの家から三軒先に行ったところの曲がり角で大抵おしっこかうんこをするので、藍子さんもその間立ち止まっている。
表に出た吾郎さんは藍子さんと目が合うと、「ああ……」などと言いながら会釈する。そうすると藍子さんも軽く頭を下げ、リュウのうんこを取りながら恥ずかしそうに口をすぼめて笑うのだ。
ーー間違いない。
吾郎さんはキリッとした表情で焼き飯を頬張った。
ーーあれはわしに惚れとるな。
お昼ご飯を食べ終わった吾郎さんは明日の予定をつらつらと考えた。
ーー藍子さんとお寺を散歩して、それで帰りにまたこの前を通るやろ。ちゅうことは、うちに上がって行ってもろたらどうやろ。いや、今はコロナコロナやさけ、家に呼んだらあかんやろか。そやけど縁側を開けて、庭に入ってもろて腰掛けて話すのならええんちゃうやろか。リュウはほれ、庭の植木にでもくくっといたらええし、それで二人でジュースでも飲んだらええな。
吾郎さんはウキウキと台所の収納棚を探った。あいにくと果物のジュースは買い置きがなく、息子の嫁が野菜やらビタミン剤やらと一緒に時々送りつけてくる野菜ジュースと、吾郎さんが好んで買っているオロナミンCだけであった。
ーーオロナミンかお茶しかしゃあないな。今度町方に出たら洒落たぶどうジュースかなんかと、ちょっと気のきいた洋菓子でも買うとくかな。それにしてもあの嫁は、年寄りの一人暮らしっちゅうと、ろくなもんを食べんと栄養が偏っとると思い込んどるんや。野菜やら青汁やらしょっちゅう送って来よるけど、わしは料理も得意やし、野菜もちゃあんと食べとるんやで。
吾郎さんは冷凍庫を開けて冷凍野菜のパックを確かめた。
ーー町方に出たら、業務用のスーパーに行くねん。そしたら冷凍の野菜ミックスちゅうのがいろいろ売っとるやろ。キャベツだの白菜だの、生野菜を買うても食べきれんと半分ほども腐らしてしまうさけ、一人暮らしにはこういう冷凍野菜が便利なんじゃ。ワシが一番気に入っとるのは赤や黄色のパプリカに、ピーマンやら何やらが一緒になってる洋風の野菜ミックスや。これは凍ったままフライパンに放り込んで、ベーコンかウインナーと一緒にオリーブ油で炒めて塩を振ったら、それだけで洒落た一品になる。あとは根菜のミックスやな。里芋や、ごぼうや何やが入っとるやつ、これも小さく切って冷凍してある鶏肉と一緒に砂糖と醤油で味付けして煮たら、ごはんに合うええ煮物になるで。……いやいや、そんなこと考えてる場合と違うたな。
吾郎さんは我に帰ると改めて茶の間を見回した。藍子さんには縁側に座ってもらうとしても、そこから部屋の中は丸見えである。
「ちっと片付けるとするか」
吾郎さんは古新聞をまとめたり、ぶら下げた洗濯物をしまったりしてまめまめしく動いた。久しぶりに掃除機をかけると部屋の中がこざっぱりとした。そのまま勢いがついてしまって、トイレ掃除をしたり、流し台やフライパンをボンスターでごしごしこすったりした。
夕方になる頃には、家の中はすっかりきれいになり、吾郎さんはくたびれながらも充実した気分だった。明日の逢瀬を楽しみに、一番小さいサイズの缶ビールをぷしゅっと開ける吾郎さんであった。
翌朝、九時半きっかりに藍子さんがやって来た。
「吾郎さん、おはようございます」
ピンポンチャイムが鳴って、引き戸が少し開くと藍子さんが顔をのぞかせた。花柄のマスクをつけて、薄い水色の上着を着ているのが華やかだった。リュウも藍子さんの足元から鼻先をねじ入れるようにしてクン、と一声鳴いた。
「はいはい、今行きますでな」
吾郎さんはにやける顔を引き締めると、ジャンパーを羽織ってマスクをつけ、いそいそと玄関へ向かった。
外はいい天気で、ぽかぽかとした日差しの中、吾郎さんと藍子さんは並んで歩いた。
「あの手紙、ありがとうな」
吾郎さんが言うと、藍子さんは恥ずかしそうに答えた。
「電話にしようかと思ったんやけど、なんや照れくそうて。驚かせて堪忍ね」
娘のように恥じらう藍子さんの様子を見て、吾郎さんは嬉しくてたまらなかった。
ーー手を繋ぎたい。いきなり手を握るのはやりすぎやろか。いやいや、今はコロナコロナやさけ、手はやめといたほうがええやろうな。
曲がり角に差し掛かり、吾郎さんがドキドキしながら藍子さんを見ると、ちょうど藍子さんも吾郎さんの方を見上げた。目が合って、二人とも思わず立ち止まって見つめあった。
その時、ピスーという情けない鼻息が聞こえ、リュウが腰をかがめてきばり始めた。
吾郎さんと藍子さんは思わずプッと吹き出した。
二人と一匹の上には、澄み切った秋の空がどこまでも広がっていた。
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