第10回 時をかける時行のパルティアンショットと古典『太平記』に見る噂の流し方

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第10回 時をかける時行のパルティアンショットと古典『太平記』に見る噂の流し方

 私、ずっと気になっていました(週間少年ジャンプのアンケートにも書こうかと思ったほどでした)。  『逃げ上手の若君』の主人公・時行くん、諏訪で暮らし始めた今も〝三つ鱗〟の紋(北条氏の家紋)みたいな着物で大丈夫なのでしょうか……と。  でも、余計なお世話でしたね。  「頼重の意図がわからん!」  まさか北条の遺児を真っ先に自分の前に出すはずはないと、目から汗を流しながら退散する小笠原貞宗。  このシリーズの前回の最後に、私はこう記しました。  あ、でも、どう考えても小笠原氏や他の一族が、諏訪氏に対して〝何考えてるんだ、アイツら……〟と思うことの方が自然だというのは認めます。  またしても、諏訪頼重がおそらく神力など使わずとも、貞宗の長所を逆手に取って混乱させるという、〝未来を予測する力〟(〝先読み力〟くらいが適当でしょうか?)が炸裂です。時行の三つ鱗の紋みたいな着物を黙認していたのも、実際は計算のうちだったのかもしれません(もちろん、松井先生も……。アンケートに書かなくてよかったです)。  しかしながら、貞宗が尻尾を巻いて逃げたのは、時行の起死回生の「パルティアンショット」で負けを喫したからです。  今回は、パルティアンショットについてと、この時代の噂の流し方について調べたことを紹介し、考察を加えたいと思います。 ***********************************  「決まりっスね 若の得意技は「押し(ひね)り」だ」と言う弧次郎に対して、にやけた表情で諏訪頼重は「ふふふ 未来ではもっと少年心をくすぐる通称で呼ばれるようだ」として、時行と同じ「後ろ射ち」でローマの大軍を打ち破った中東のパルティアのことが語られます。そして「パルティアンショット」の名称が明かされます。  別名「安息式射法」。「安息」とは中国人がパルティアを呼んだ名称ということです(始祖名アルサケスの転じたアルシャク(Arshak)の音訳)。確かに、「押し捻り」も「安息式射法」も現代の漫画少年の心はくすぐらなそうです。  ※パルティア…Parthia 前248ごろ~後226 西アジア、イラン高原を中心に支配した古代王国〔世界史事典〕  このパルティアンショットには次のような特徴がありました。  ・追手を狙い撃ちすると同時に自らの生命を守る  ・戦場での逃亡あるいは敵に背を見せるという汚名を免れる  ・鎧をつけない短弓の軽装備騎兵が用いた射法であった  ・退路を確保するための防衛的戦法である  ・馬上から狙い撃ちして追手を倒したのちに雨のように矢を射るという奇襲攻撃の一戦法でもあった  ・獲物の頭部、頸部、胸部などの急所を振り返って射撃する狩猟にルーツがあると考えられている  ・騎馬民族のスキタイなどからパルティアが影響を受けた(漢代には中国にも伝播)    まさに、逃げ上手で「逃げ筋」が発達している、まだ子どもで身軽な時行が、諏訪では狩りの鍛錬も行っていたという環境下で〝開発〟した「得意技」であったわけです。  ちなみに、パルティアが「後ろ射ち」の射法を用いたことは長く語り継がれてきましたが、英語の「パルティアンショット」という名称自体は16世紀に登場しているようです。  歴史とはおもしろいものです。  「後ろ射ち」そのものが紀元前から存在した記録が残っていても、ずばりそれを指し示す名称がなくて、ずっと後になって英語でその名称が辞書に掲載されて〝発見〟されるのです。  しかしながら、文化というのは伝播だけでなく、諸条件が整えばそこから離れた土地や時代でも自ずから〝発明〟されることがあるものだそうです。頼重のにやけ顔のセリフはそういう点でも意味深です。  それとはまた別に、私は思うのです。ーー頼重は、こと時行の成長に関しては、神力は一切用いていない、時行を信じて純粋に言葉をかけて見守っているのではないか、と。  子どもの未来の可能性は無限なのです。神力を使うことは、たとえその子どもの人生に関する良い未来を読んだとしても、その可能性を限定してしまうことにつながります。  貞宗の「目が良い」という長所を逆手に取って混乱させる頼重はまた、時行の「逃げ上手」の本質を出会ったその時から見抜いて、プラスの側面からの評価を時行に伝えています。そして、地味ながら解説上手の盛高。  少なくとも『逃げ上手の若君』で描かれる諏訪氏にとって、物事に対するすぐれた洞察力がまた、一族の戦闘力である気がしてなりません。    ***********************************  そんな頼重ですが、貞宗が去ったあとに時行にこう語ります。  「さるお方と打ち合わせて… 北条一族者が潜伏している噂を諏訪(ここ)を含め全国各地に流しています」  「さるお方」とは、古典『太平記』では諏訪盛高に時行を託した、時行の叔父にあたる北条泰家でしょうか。この方のしぶとさ、私は大好きです(このシリーズの初回で簡単に触れています)。  そして、頼重や泰家の例ではないのですが、『太平記』には当時の噂の流し方の具体的なエピソードも語られています。ーー『太平記』のスーパースターの一人、楠木正成がとった策を紹介したいと思います。  足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻して朝敵となり、新田義貞や楠木正成ら官軍と京都で戦います。この戦いですが、勝ったはずの官軍が京都を出てしまい、一度は敗走した尊氏の軍がかわりに京都に入ります。  その翌朝のことでした。正成は、僧たちを二、三人戦場に送ります。彼らは何かを探していました。怪しんだ足利方の武将たちが声をかけます。  「お前たちは何をしているのか」  僧たちは涙を流して答えます。  「昨日の激しい戦いで、新田義貞と脇屋義助ご兄弟、楠木正成殿、北畠顕家殿まで……主だった大将七人が討死されました。そのご供養のために、ご遺体を探しているのです」  「なるほど……勝ち戦なのに官軍が兵を引いたのはそういうわけだったのか」  それを聞いた尊氏は大軍を京都から出して、敗走したと思われる官軍を各方面から追わせます。分散された足利方の兵たちに官軍は奇襲をかけ、尊氏は九州に落ちていくことになります。  正成が送り込んだ僧たちの話を聞いた時、尊氏の部下の武将たちは、彼らに先んじて義貞や正成の遺体を探して首を晒そうとします。しかし、なかなか見つからず(当たり前ですが……)、〝これじゃね?〟みたいな感じでそれらしい首を「新田義貞」「楠木正成」などと名札を付けて済ませます。  これはにた(くび)なり。まさしげにもかけるそら事かな。  「これはまた本人によく似た首を見つけたもんだ。それっぽく書いてあるけど嘘っパチだしね。」と、誰かが首の脇にこのような書付をする始末。  引用した古文の「にた」は「似た」と「新田」、「まさしげ」は「正しげ」と「正成」をかけているのですね。  ひとつの噂を流すにも、このような〝仕掛け〟が必要でした。それを「全国各地」に行う労力とはいかほどか、と思います。頼重と「さるお方」とは、それをこなすだけの頭脳や技能を持った人員などを、どう手配していたのでしょうか。  諏訪氏はその出自から、出雲と大和に、そして出雲と大和が抱える集団によって全国に、情報と人的なネットワークを持っていたとする人もいます。  ただ、このことに関しては今後『逃げ上手の若君』で描かれるかもしれませんし、また、諏訪氏の持つ大きな謎(よくわかっていない点も多い……)に迫っていくことになりますので、今回はここまでにしたいと思います。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、および相馬隆氏の研究論文を参照しています。〕
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