第12回 ドアラみたいな耳の市河助房と当時の「盗人」事情

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第12回 ドアラみたいな耳の市河助房と当時の「盗人」事情

 小笠原貞宗の傍らにいつも〝ドアラ〟がいるなって思っていました。ーー市河助房(いちかわすけふさ)。  ※ドアラ…中日ドラゴンズのマスコットキャラクター。コアラっぽい。  貞宗が超人的な視力の持ち主だったので、もしかしたら市河は〝聴力〟かなと思っていたらやはり……の『逃げ上手の若君』の展開でした。読者の期待を裏切らない松井優征先生、さすがです。 ***********************************  さて、市河氏とはどんな一族なのでしょうか。  南北朝期には北朝に属し、1337年(延元2∥建武4)市河親宗は越前金ヶ崎の新田義貞軍を攻撃、また市河氏と境を接する越後魚沼の新田一族とは志久見川岸で激戦を重ね、41年(興国2∥暦応4)市河倫房は越後新田氏の本拠地赤沢の館を焼き払った。〔世界大百科事典 第2版〕  うわっ、新田びいきの私にはショッキングな事実が判明! しかしながら一方で、長野県立歴史館の「市河文書」の説明では、市河氏をこう説明していました。  市河氏は、甲斐国(山梨県)の出といわれる。鎌倉時代中期には信濃国に進出し、地元の中野氏と婚姻関係を結び、同氏の所領である高井郡志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)を自らのものとしていった。南北朝時代から室町時代には、村上氏や高梨氏など北信の国人が守護や幕府に対して反抗を繰り返すのに対し、市河氏は一貫して北朝方・幕府方・守護方として活動した。戦国時代には、越後に近接するにもかかわらず、武田方に属すなど、時には孤高の立場をとりながら、独自の生き残り策をとってきた。武田氏の滅亡後は上杉方に属し、上杉氏の転封により会津へ、さらに米沢に移り米沢藩士として明治維新を迎えた。1890年、市河家は陸軍屯田兵として北海道に移住した。〔長野県立歴史館ホームページ〕  市河氏もまた、生き残りをかけて奮闘した一族のひとつなんだなというのがわかりました。  「市河文書」は平安時代末から戦国時代に至る約400年間の市河氏の動向を記した信濃国を代表する武家文書である。現存している唯一の史料とされる木曽義仲下文が含まれ、全国的に見ても貴重な武家文書として高く評価され、重要文化財に指定されている。〔長野県立歴史館ホームページ〕  文書類をしっかりと残しているのも立派ですね。なお、助房は頼重、貞宗同様に、実在の人物でした。 ***********************************  続いて、今回の『逃げ上手の若君』では風間玄蕃を通じて、当時の〝盗人〟を垣間見ました。  玄蕃は第11話での回想シーンで、師匠(父?)から、主君のために身につけた「武士に無用な卑劣な技」によって逆に「長年尽くした主君から盗みを疑われ追放された」という話を聞き、異能の面と技、そして名を引き継いでいます。  このシリーズの10回目では、噂ひとつ流すにも、特別な能力に長けた者が必要だったということに触れました。玄蕃の師匠みたいな事情の〝盗人〟はもちろんいたと思います。  また、やはりこのシリーズの9回目で取り上げた『今昔物語集』のエピソードでは、源頼信の手に入れた名馬を狙ったプロの盗人が登場しています。読者の皆さんも、古文の授業で説話を読んだ際には、いろいろなタイプの盗人が出てくるのに気づいているのではないでしょうか。女性がお頭の窃盗団の話もあるくらいです。  『逃げ上手の若君』の舞台は、『今昔物語集』の時代よりもっと後の、鎌倉幕府という大きな支配力が崩壊した直後ですので、治安は相当に悪かったと思われます。ほぼ同時代に成立している『徒然草』には、正月の内裏で行われる御修法の導師が「武者を集むること、いつとかや盗人にあひにけるにより」と記してあります。  筆者の兼好は、大事な仏事に武士たちを集めて警護させるなどというのは「ことことしく」〔=おおげさで〕、「兵を用ゐむこと、おだやかならぬことなり」(理由をつけてエスカレートしていったようでもあります)と非難しているのですが、当事者としてはやむをえないような現状だったのではないかと推測されます。  ※正月の内裏で行われる御修法の導師…一年間の様々な吉凶を皇居にて高僧が見たという加持祈祷。  そうかと思えば、同じく『徒然草』にはこうとも記されています。  誠にかなしからむ親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべきことなり。  ※かなし…いとおしい。かわいい。  兼好のこの言葉から思い起こされた『太平記』のエピソードがあります。南北朝の動乱も混迷を極め、都も否応なく戦乱に巻き込まれた時期のものです。  ある役人の男が戦乱によって、収入も途絶え、家財も失い、頼るべき親戚も逃げ失せてしまいます。妻と幼い息子と娘とともに、拾った栗や柿を食べて野宿を重ね、丹波の井原の思出川(おもいでがわ)という所にたどり着きました。そこで男は物乞いに出るのですが、とんでもない目に遭います。ーーある邸の門から中へ呼びかけた際に、出てきた武士たちから拷問を受けたのです。  ぼろぼろにされきったところで解放され、何とか他の家で施された果物などを持って戻ると、妻も子どもたちも姿が見えません。男が拷問を受けて死んでしまったであろうという噂を聞いた三人は、そのまま川に入ってすでに亡くなっていたのです。手をつないだ三人の遺体を見つけた男は、冷たくなった妻子を抱きかかえ、男もまた淵に飛び込んだのでした。  物乞いをしていただけの男が、なぜ拷問されなければならなかったのか。門から出てきた武士たちは男にこう言います。  「用心の最中、人の疲れ乞ひするは、夜討・強盗の案内見る者か」  ※疲れ乞ひ…弱々しくやさしい声で乞い求めること。  ※案内見る物…邸内の様子をうかがうこと。  「物騒だから俺らみたいのがパトロールしてるのがわかってて、みじめったらしい声で物乞いすんじゃねえ。俺らの警戒を解いて屋敷の下見しようって魂胆か、この盗っ人めがっ!」と、こんな感じなのです。ーーどう見ても、男はただの没落役人でしょうが……と突っ込みたくなりますが、そうです、だからこそ貧極まって何をするかわからないですし、頼信の馬を盗み出したようなプロの盗人かもしれませんし、盗人は盗人でも玄蕃の師匠のように〝スパイ〟という可能性もありますよね。  様々な事情で、やむにやまれず盗人になる人がいた時代とはまた、玄蕃の師匠が仕えた主君がそうだったように、最後には人を信じることができなくなり、すべてを疑ってかからないといられないような時代だったのです  されば、盗人をいましめ、ひがごとをのみ罪せむよりは、世の人の飢ゑず寒からぬやうに、世をばおこなはまほしきなり。  ※ひがごと(僻)…まちがっていること。  ※世をばおこなはまほしきなり…世の中を治めたいものだ。  先に引用した『徒然草』の同じ段落で兼好はこう主張します。『逃げ上手の若君』の第11話で諏訪頼重が時行に言った「本当に正しい事」とは何か、それを考えずにはいられません。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、今泉忠義訳註『改訂 徒然草』(角川文庫)を参照しています。〕
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