第121‐⑵回 足利一門中の高い家格と突出した才を誇る斯波家長! …過酷な時代と父の力からは逃れがたきも、少年たちはそれぞれの道を歩む

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第121‐⑵回 足利一門中の高い家格と突出した才を誇る斯波家長! …過酷な時代と父の力からは逃れがたきも、少年たちはそれぞれの道を歩む

 第121‐⑴回については、こちらをご覧ください。 第121‐⑴回 結城宗広の「忠臣」と言うには妙なテンションに合点! …過酷な時代と父の力からは逃れがたきも、少年たちはそれぞれの道を歩む https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=122 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「えー「南部師行と申します 通訳を通して喋ります 北国訛(きたぐになま)りが皆さんには聞き取れないためです」」  美女(女性…ですよね?)通訳の「「よろしく」と」に納得できず弧次郎激怒ですが、私は南部さんが〝ハリソン・フォードっぽい人〟なのが気になってしまいました。加えて、南部氏と言うと、現代の岩手・青森・秋田の辺りを治めた江戸時代の大名のイメージが強いです。  また、「北国訛り」と聞いて、何十年も前にTVのお笑い番組か何かの企画で、青森のおばあちゃんと鹿児島のおじいちゃんが会話するのだけれどもまるで通じない、いや、視聴者も二人の言っていることが(字幕なしでは)まるでわからなかったことを思い出しました。  今でもYouTubeで、〝青森方言はフランス語?〟とか、〝津軽弁のおばあちゃんがオレオレ詐欺撃退!〟とか、そんな感じのサムネイルを見かけることがあります。そして、ロシアが近い地域なので、新潟や東北地方には西洋人のような顔立ちの美男・美女がいるといった噂話を友人から聞いたこともあったりします。  だから、南部師行は、言葉も顔も〝ハリソンフォードっぽい人〟なのかもしれないと思ったのですが、南部氏はもともと甲斐国(山梨県)出身の御家人です。奥州において勢力を伸ばしたのは、師行が北畠顕家に従った建武政権下から、室町・戦国時代にかけてであったということです。   南部師行(なんぶもろゆき) ? - 一三三八  南北朝時代の南朝の武将。又次郎と称す。遠江守。父は南部政行。同族の南部長継の養子となってそのあとを継ぎ、甲斐国波木井郷(山梨県南巨摩郡身延町)を本領とした。元弘三年(一三三三)十月、北畠顕家が義良(のりよし)親王を奉じて陸奥国府(宮城県多賀城市)に下向するのに随従し、糠部・岩手・閉伊の各郡を管轄し、糠部郡八戸に根城(ねじょう、青森県八戸市)を築いて拠点とした。建武元年(一三三四)、鹿角郡の闕所地を与えられ、同二年八月、中先代の乱に呼応した北条与党を鎮定した。同年十一月に足利尊氏・直義が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、北畠顕家はそれを討つため義良親王を奉じて西上したが、師行は弟政長とともに陸奥にとどまり、足利方についた津軽の豪族曾我貞光・安東家季らと攻防を展開した。延元元年(北朝建武三、一三三六)北畠顕家は義良親王とともに再び陸奥国府に下向し、翌年戦況悪化のため霊山(福島県伊達郡霊山町)に移ったが、師行もこれに従った。同年八月霊山を発し後醍醐天皇の命で上洛する義良親王・北畠顕家に従って関東に進出し、各地で足利勢を撃破して鎌倉に入った。同三年(北朝暦応元)正月北畠顕家らと鎌倉を出て沿道の足利勢と戦いながら西上し、伊勢・伊賀を経て河内に入り、天王寺などで激戦を展開した。  『逃げ上手の若君』の師行は、通訳に自分のことを「大」と告げて、「小」な時行を見下しているだけあって、確かに強そうです。しかしながら、通訳を介して話をしないとダメというのでは、戦場での意思疎通は大丈夫なのかというのが、個人的にはこれまた気になるところです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  第121話では、斯波家長の視点で足利家の内情が垣間見られました。  「頼む家長! そちだけが頼りだ!」  くりっとした垂れ目が第25話で描かれた幼い頃の父・尊氏そっくりな足利義詮……実は第1話から要所要所で登場していたのは、皆さんお気づきでしたか。後には、第73話で登場した渋川義季の娘・幸子(ゆきこ)を正妻に迎えますが、もう七歳になっていたのですね。  なんだかやたらと家長になついていますが、当の家長は「尊氏様の凡庸な幼子」などとしら~っと発言して、上杉憲顕も思わず「ぞく」です。家長はそう言っているのですが、予期せぬ事態に対してうろたえるのは父・尊氏に似ていると思いました(ただ、そんな点ですらスケール感が違いますね)。  尊氏と比べられたり、古典『太平記』で情けない部分が強調されたりしていたためか、目立たない室町幕府・二代将軍というのが多くの人が抱く義詮のイメージだったようですが、近年の研究では評価が高まっていると聞いたことがあります。  それにしても、『逃げ上手の若君』の家長は、なんでこんなにも生意気……もとい、計算高く強気なのでしょうか。このようなキャラ設定には、以下のような事実が反映されているのかなと考えています。  斯波氏の祖は鎌倉中期の足利泰氏(一二一六~一二七〇)の長男家氏である。家氏の母は名越朝時の女であり、北条氏一門と深く関わっていた。家氏も北条時頼の弟為時の女を娶っていた。家氏は長男であったが、足利家の家督は泰氏の三男頼氏が継承した。これは頼氏の母が北条氏嫡流の姉妹にあたり、身分が高かったためである。ただし、家氏は長子であったことから、足利氏諸流の中でも高い地位にあった。  家氏の嫡流は陸奥国斯波郡(岩手県)、下総国大崎荘(千葉県)、越中国西条郡岡成目(おかなりみょう)などの所領を相伝した。のちに家名となる「斯波」の由来はこの陸奥国斯波郡の所領を保持し、活動の拠点にしたことによる。実のところ、南北朝期に活躍した高経、義将父子は、なお「足利」を称し、足利一族として高い家格を誇っていた。洛中の居所がある「勘解由小路(かでのこうじ)」を称することもあるので、「斯波」という家名が定着するのは義将の子義重の執政期以降のことで、十五世紀になってからと考えられる。〔『室町幕府 全将軍・管領列伝』中の「管領 斯波義将」より〕  ※義将(よしゆき)…斯波高経の四男。  斯波高経の長男である家長は、「足利一族として高い家格」であることに加え、突出した才を足利直義に認められているのだという自負心が抑えきれないのかもしれません。また、家長の父・高経が「足利尊氏と同年齢」であることや、ある時期から「(足利)直義に接近したらしい」ことからは、父である高経には家長以上の自負心があり、父子で思いをひとつにした野心もあったのではないかと想像してしまいます。  これから先の尊氏・直義兄弟をめぐる史実は、すでに少年漫画のストーリーそのものではないかといった展開を見せるのですが、足利一門ではなく家来にすぎない高師直・師泰兄弟の台頭ーー特に、気づいたら尊氏と師直がべったり!?ーーや、佐々木道誉の過激さを増す婆娑羅な振舞について、聡明な家長は中先代の乱の時より予期していたところで121話は終わります(そういえば、上杉憲顕も足利一門ではありませんでしたね。だから、家長のようには「変貌」には気づかなかった?)。  ……果たして、家長の「あの輩から直義様をお守りする」という言葉に裏がないのかも、私は気になってしまうのです。 〔日本史史料研究会・監修、平野明夫・編『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社)、『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕
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