第151回 「極大納言軍」の未来を占ってみた!? 古典『太平記』で桃井直常と高師直を確認! ……いやいや、そんなことより「諏訪の御左口神(ミシャグジ)」が〝気になるの〟

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第151回 「極大納言軍」の未来を占ってみた!? 古典『太平記』で桃井直常と高師直を確認! ……いやいや、そんなことより「諏訪の御左口神(ミシャグジ)」が〝気になるの〟

 「御ボコりたいが位が上ゆえそうもいかない」  『逃げ上手の若君』第151話の北畠顕家のこのセリフ、最初よくわかりませんでした。〝顕家は何を誇りたいんだ?〟とか……大勘違い! 「御」「ぶちのめせぁ!!」のコマを見直してやっとわかりました。顕家はお下品な言葉には「御」を付けるのですね。だからこれは、「公家たちの極大納言軍」(笑)を「ボコりたい」という意味でした。  妹が〝公家の顔、あれは手抜きなの!?〟と言って大ウケしていましたが、私も〝「四条様」の顔はどこかで見覚えがあるぞ〟としばし考えて〝あっ〟と気づきました。  ウエィト版タロット・カードでの顔がショボめの人たちかも……。 da446798-6eac-4f99-9514-b3ef83c8ccbb  キーワードはそれぞれ、「物欲・ためこみ」(上)、「逃避・自己防衛」(左下)、「不幸なことに、あなたは望んでいた結果を達成することはできない。」(右下)。……ショボい顔を選んだだけだでしたが、どういうわけか「極大納言軍」の未来予知ストーリーになりました。(東條真人氏の『タロット大事典』を参考にしました)。  「四条様」はこの人ですね、おそらく。 四条隆資(しじょうたかすけ) 一二九二 - 一三五二  南北朝時代の公卿。正応五年(一二九二)生まれる。左中将隆実の子。父は早世し祖父隆顕のもとで育った。『公卿補任』で「父故入道権大納言隆顕卿」としているのは間違い。後醍醐天皇に重用され、南朝に従った数少ない公卿の一人である。『太平記』では正中の変(正中元年(一三二四))以前から日野俊基らと同志のようにかかれているが、同変では追及されず、変後の嘉暦元年(一三二六)蔵人頭に補せられ、翌年参議に任ぜられ、以後、左兵衛督、検非違使別当、右衛門督を兼任し、元徳二年(一三三〇)権中納言に任ぜられた。元弘元年(一三三一)の元弘の乱では、後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉し、そのまま行方をくらまし、同三年後醍醐天皇の帰京とともに再び現われ、建武政権の雑訴決断所・恩賞方などにも名を連ねて同政権の有力公卿となった。延元元年(北朝建武三、一三三六)南北両朝分裂後、後醍醐天皇に従い吉野に赴き、南朝において従一位権大納言に昇った。  引用の最後の方は今後の展開もあるので割愛しましたが、古典『太平記』では今後、〝いいこと言うじゃん!〟みたいな逸話もあります。最後まで南朝に尽くす忠臣の一人ではあるのですが、『逃げ上手の若君』の「四条様」の「一目でポンコツだとわかる顔」っぷりはインパクトあり過ぎです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「北に敵軍! 東大寺近くの般若坂に布陣しました」  般若坂での桃井直常の活躍は『太平記』に描かれています。日本古典文学全集の現代語訳を引用してみます。  将軍・直義朝臣の両将が討手の将にふさわしい人物を選びなさったときに、師直が、「どうあっても、この大敵を圧し潰すのは、桃井兄弟がいちばんだと思います。そのわけは、鎌倉から後退してから長い道のりをあちらこちらで合戦いたしましたが、国司軍はいつも桃井兄弟に手ひどく攻撃されて、闘志を失ってきた者たちです。彼らの臆病神が目覚めて逃げ出さぬうちに、桃井が馳せ向って、奈良の陣営から追い払うことは思うがままでございます」と申しあげたので、「それでは」と言って、師直を使者に立て、桃井兄弟にこのことを仰せになると、直信・直常は、「差しつかえはありません」と言って、その日のうちにすぐに出立して、奈良へ向われた。  顕家卿はこれを聞いて、般若寺坂に第一陣を構えて、都からの敵に備えた。桃井直常は、兵たちの先頭に立って、「このたび多くの人たちが辞退した討手を、我ら兄弟でなくては勝てまいとして選ばれたことは、一つには武士としての名誉である。この一戦に勝利が得られなければ、今までの度重なる手柄は何の価値もなくなるだろう。心を一つにして勇気を奮って、第一陣をまず攻め破れ」と命令なさったので、曾我左衛門尉をはじめとして、強力な兵七百余騎が命を捨てて敵陣に斬り込んだ。  ※直信・直常…桃井直常・直信兄弟。全集が底本としている天正本では兄弟で活躍している。  『逃げ上手の若君』の桃井は「頑強さ」をアピールしていますが、命知らずの若造が〝暴れてます!〟みたいな印象です。それ対して、高師直はまず普通に顔が怖い。「二年前」に、三浦時明とその軍を一蹴した場面が思い起こされます。  しかしながら、師直の強さと怖さの本質的な部分とは、〝必勝〟〝必要〟から逆算して「分捕切捨(ぶんどりきりすて)」といったシステムを運用する「合理精神」(足利直義が「全金属製帝」を「試作」する師直に驚愕した〝その部分〟と同じだと思います)にあるのではないでしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  最後に、「ミシャグジ」です。ここにきて、諏訪信仰における重大な用語が飛び出しました!  これは、まだ本誌を読んでいない方にとっては書いてしまうと大々的なネタバレになってしまう(これまでになく、それをするのは野暮な気がしました)ため、「ミジャグジ」の語だけ確認しておきたいと思います。  北沢房子氏の『諏訪の神さまが気になるの』には、次のように書かれています。   ミシャグジは、諏訪信仰の最古層にいる土地神、だと言われていますが、はっきり言ってよくわかりません。  ……ガクッ。他にもヒントはないのでしょうか。  ミシャグジは、『古事記』や『日本書紀』に出てくるような人格神とは違って、どうやら精霊のようなものらしい。それでは精霊とは何かを調べてみると、『広辞苑』の精霊の項①にいう「万物の根源をなすという不思議な気」が当てはまるようです。研究者だちも「ものを生み出し、多産や豊穣をもたらす命の源のような霊力だろう」と受け止めてきました。  ちなみに、「御左口神(ミシャグジ)」の漢字表記は、中世の古文書の一般的表記だったとあります。  北沢氏は、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(古部族研究会編)を参考文献の一冊としてあげられていますが、その「あとがき」には「明治四十二年「石神問答」で柳田国男が論究して以来、未解決のまま久しく手をつけられなかったミシャグジの問題を、私たちが一歩でも進めることができるならば望外のよろこびです。」とあります。ーーこの本の発行年は2017年とあるものの、柳田以来百年以上過ぎたから解明できたとかいうことではないようです。    「歴史学の一番弱いところは、記録や古文書がないことについて論じられないこと。史料のないことをどう解釈するかが大事です」  「今、目に見えていることだけでなく、祭の中にある根本が何かを知ることが大事です。」  上記は、北沢氏が引用した長野県立歴史館館長・笹本正治氏と八剱神社の宮司・宮坂清氏の言葉です。氏はまた、ミシャグジの神事は絶え、わずかに残されている記録類が、その肝心な部分を書き記したかもわからないと述べています。  そうした時に、「根本」の部分から「論じられないこと」「史料のないこと」を推測して、ミシャグジの正体を想像(創造)する自由は、我々に与えられていると信じたいです。   ーーそういったことは、漫画家など創作に関わる仕事をされている方たちの超得意分野であり、松井先生が『逃げ上手の若君』で現代によみがえらせるミシャグジがどういう「解釈」に基づくものとなるのか、私は楽しみでなりません。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、北沢房子『諏訪の神さまが気になるのー古文書でひもとく諏訪信仰のはるかな旅ー』(信濃毎日新聞社)、古部族研究会編『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(人間社文庫)を参照しています。〕
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