第23回 頼重の時行に対するただならぬ愛情やいかに……そもそも北条氏と諏訪氏との関係とは?

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第23回 頼重の時行に対するただならぬ愛情やいかに……そもそも北条氏と諏訪氏との関係とは?

 『逃げ上手の若君』にはなかなか現れないな……と思ったら、この第23話で頼重の息子である時継(ときつぐ)が登場しました。娘の雫は、時々見せるダークな(?)雰囲気と目元で頼重似だとわかりますが、時継はどうなのでしょうか。気になるところです。  史実では、時継は大祝職を息子・頼嗣(よりつぐ)に譲ってから、時行と父・頼重に従って挙兵し、父と運命をともにします(この件についてはくり返しになりますが、すでにご存じの方も多いとは思いながらも、〝その時〟まで伏せておきたいと思います)。 ***********************************  「…よく ご無事で」  目に涙を浮かべて時行を抱き寄せる頼重のシーン……何度見てしまったかわかりません。でも、すぐにいつもの〝インチキ〟頼重に戻り、時行も吹雪もぷにぷにほっぺへの〝年齢肌〟攻撃(第4話参照)にウンザリ顔です。  『逃げ上手の若君』は、史実や古典物語を大胆に演出した創作作品ですので、頼重が時行に示した〝感動的〟な愛情は、ストーリーを盛り上げるためのものだと思いますよね(現実主義的な物言いですみません……)。  ここで、そもそもの大前提に立ち戻ってみたいと思うのです。  ーー北条氏と諏訪氏の関係って、一体どうなっていたのだろうか……。  諏訪社大祝(おおほうり)家の諏訪氏は(じん)党と呼ばれる信濃武士団の中核であると同時に北条得宗家の有力な御内人(みうちびと)でもあり、正慶二・元弘三年(一三三三)五月鎌倉幕府滅亡に際し北条高時の遺児時行をかくまった。〔『日本中世史事典』「諏訪頼重」の項より〕  「得宗(とくそう)」とは、「鎌倉幕府の執権となった北条氏の嫡統の当主。鎌倉後期、幕府の実質上の最高権力者」〔広辞苑〕とあります。  時行が吹雪に「鎌倉幕府執権・北条高時の遺児 北条時行」(「執権」には注として「総理大臣的なもの」と付いています)と名乗り、食べていたおにぎりを吹雪がしこたま噴き出してしまったのも無理はないわけです。  では、諏訪氏がその「御内人」であったとは、どういうことなのでしょうか。  「御内」とは「得宗」を指し、「御内人」とは「幕府の執権北条氏の得宗家(惣領家)の家臣」〔日本史事典〕のことをいいます。対して、一般の御家人(ごけにん)を「外様(とざま)」といいました。  ※惣領(そうりょう)…家名を継ぐべき子。家督。嫡子。(上記「得宗」の説明中にある「嫡統の当主」もほぼ同意。)  ※御家人…鎌倉時代、将軍家直属の家臣の敬称。  さらに御内人の中には、「内管領(うちかんれい・ないかんれい)」という「北条氏得宗家の家政機関である公文所(くもんじょ)の長官」〔日本中世史事典〕の役職に就く者もありました。  ※家政…一家をまとめ、おさめること。  ※公文所…政務一般をつかさどった役所。のち、政所の設置に伴い、文書に関する事務だけをつかさどった。  『日本中世史事典』には次のように記されています(「内管領」の正式名称は「執事」)。  執事は、御内人でありながら、幕府最高議決機関「寄合(よりあい)」のメンバーとなり、自身または一門を幕府侍所(さむらいどころ)所司(しょし)とするのが通例であった、(たいら)・長崎・諏訪・尾藤(びとう)・工藤らの有力御内人や得宗家の連枝が就任したが、鎌倉末期には長崎氏の世襲職に近い形となった。  ※寄合…鎌倉後期、北条嫡流(得宗)家が少数の主だった一族や評定衆などを集めて行った会議。  ※侍所…鎌倉幕府における御家人統轄の中枢機関。別当は執権北条氏が務める。  ※所司…鎌倉幕府の侍所・小侍所の次官。別当を補佐した。  ※連枝(れんし)…兄弟。特に貴人にいう。  このシリーズの第13回「気になる…主従の絆を古典『太平記』北条高時の最期の場面に探る」では、時行の父・高時の最期について紹介しましたが、長崎円喜(高綱)と諏訪左衛門入道が高時の傍に控え、なかなか覚悟が定まらない高時を促すかのように自刃します。ーー諏訪氏が北条氏にとって特別な存在であったことが、あらためてわかるエピソードではないでしょうか。  また一方で、「(内管領が)鎌倉末期には長崎氏の世襲職に近い形となった」とある部分なのですが、「高時期の長崎高綱・高資父子は主人である得宗を傀儡化するほどの権勢を振るった」とも、『日本中世史事典』の「内管領」の項には記されていました。  『逃げ上手の若君』の第1話、高時が両脇を家臣に抱えられているコマで、「代々幕府を支配してきた北条氏の本家もすっかり衰えた」「形の上では今も幕府の総帥だが…実権は側近たちに握られている」とある通りなのです。  とはいえ「諏訪左衛門入道」は、諏訪盛高(このシリーズの第1回「古典『太平記』で描かれる時行の鎌倉脱出」でも紹介しましたし、『逃げ上手の若君』でも登場しています)の父ではないかとされる人ですが、長崎円喜に次ぐ御内人ナンバー2のポジションだったとされています。  ーー諏訪氏って、北条氏の仲良しファミリーなんじゃん!  とっても卑近な物言いで恐縮ですが、そんな感想を抱くのです。  そして、ファミリーはファミリーでも、〝パパ、お金ちょうだい〟とか〝いうこと聞かないとぐれてやる〟とかいうファミリーではなかったのが、諏訪氏なのだと思います。  だからこそ、高時の弟・泰家は盛高に時行を預け、さらに頼重が、時行を大将に挙兵するまでに至ったというわけです。  ここまでで示したような事実だけからしても、高時の遺児である時行は、頼重にとっても我が子同然の存在であっておかしくはないかな……と想像されるのです。 ***********************************  いや、ちゃんとわかってましたよ。「頼重が時行に示した〝感動的〟な愛情は、ストーリーを盛り上げるためのもの」ではないって……(え、後出しだって?)。  あらゆる可能性を考えて先々まで見通すのが得意であるのと同時に、周囲から見たらなぜそんな何の得にもならない(むしろ危険極まりない)ことを命がけでするのかっていうのも、いずれもおそらく諏訪氏の本性なのです。  さまざまな局面での諏訪の動きはわかりにくいところがある……といった記述を本で見たこともありますが、世間的な常識や思惑とはかなり外れたところに、諏訪の一族の行動規範があるからだと私は推測しています。  上記は、このシリーズの第1回の最後に私が記したものです。  敗れた者たち、滅びた者たちは、その思いを語ることはできません。例えば、北条仲時以下432人は、京都の六波羅探題を捨てて東国での再起をはかるもかなわず、近江の番場というところで自害して果てています。戦局は混乱を極めていたため、皆死んでしまったため、正確な記録も残っていないそうです。  諏訪の一族にはおそらく、多大の恩のあった北条氏の滅亡に際して叫ばれた、声なき声が聞こえたのだと思います。  北条氏と諏訪氏との関係についてはもっともっと調べたいこと、書きたいこともあるのですが、またの機会に譲りたいと思います。 〔阿部猛・佐藤和彦編集『日本中世史事典』(朝倉書店)を参照しています。〕  
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