第3回 古典『太平記』から考察する「逃げる」ことの意義

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第3回 古典『太平記』から考察する「逃げる」ことの意義

 松井優征先生はなぜ、北条時行を主人公に新作『逃げ上手の若君』を描いたのか……?  いずれインタビューなどで明らかにされることではあると思いますが、長いこと「逃げ上手」を評価できる世ではなかったことが、この問いの前提にはあります。  よくよく『太平記』の時行の鎌倉脱出と五大院宗繁の裏切りの場面を読み返してみると、見落としていた点があることに気づきます。 ***********************************  「悲しいかな、義をもつぱらにしてたちまちに死する人は、永く修羅闘諍(しゅらとうじょう)の奴(やっこ)となりて、苦を多劫(たごう)の間に受けん事を。痛ましいかな、恥を忍んで苟(いやしく)も生ける者は、立ち所に衰窮貪飢(すいきゅうどんき)の身となつて、笑ひを万人の前に遺す事を。」  北条氏とその一族、そして彼らに仕えてそれを支えて来た者たちの運命とは、義に殉じて死ねば修羅道に堕ちて永遠に罪人となり、恥を忍んで生きれば困窮してなおかつ人々には嘲笑されるものだというのです。  その中で起きたのが、五大院宗繁と甥の邦時の出来事だったとして、物語が続きます。宗繁は、この後者の選択をした者だったわけです(詳しくは、本シリーズで前回記した「古典『太平記』で描かれる五大院宗繁の裏切り」をご覧ください)。  ところが、『太平記』にはたくさんの系統の本が存在し(古典文学にはよくあることです)、その中には「一度(ひとたび)は聞いて痛ましく、一度は聞いて悪(にく)ましく、いづれもともに哀れにて、袖をほす間(ひま)もなかりけり」と評している本もあります。  人々はこの話を聞いて、最初は邦時のことを痛ましく思い、次に宗繁を憎らしく思い、最終的には邦時も宗繁もどちらもあわれに思って、涙が止まらない……というのです。  宗繁を絶対悪としない評価には驚きますね。  しかし、北条に連なった者たちには、忠義に殉じて死して果てしなく苦しむか、恥さらしと指さされて貧困の中で生きるかの選択しかなかったというのであれば、宗繁に同情する気持ちがあってもおかしくないと考えることはできます。  だからこそ、諏訪盛高や頼重、北条泰家の行動が〝それしかない〟という当時の常識を打ち破った、まさしく命がけの選択であったことがわかります。  諏訪盛高は北条泰時に時行を託された時に、「泪(なみだ)を押へて」「ともかくも仰(おお)せに随(したが)ふべく候(そうろう)」と答えたと語られています。このシリーズの初回「古典『太平記』で描かれる時行の鎌倉脱出」は、初心者でもとっつきやすいようにかなり省略や意訳をしましたが、この「泪」の解釈はしがたいですし、一方で、くだくだ説明するのも野暮な気がしました。  彼らの選択の根底にあったのはおそらく、生命の尊厳と武士としての忠義と誇り(あるいは意地)です。「逃げる」ことの価値を松井先生が、そして混迷する現代が、歴史や古典文学に見出した一筋の光明だと私はとらえています。  時行は、北条の血と諏訪の行動倫理(少しずつ触れていきたいと思いますが、諏訪一族は先祖が相当過酷なことを強いられた過去を持ちます)を受け継いだ、まさに乱世を生きるサラブレッドなのです。 ***********************************  『太平記』は、時行が盛高とともに信濃に落ち下ったとした直後に、未来のことを語ります。  「後の建武元年の春の比(ころ)、しばらく関東を劫略(ごうりゃく)して天下の大軍を起し、中先代の大将に相模次郎といふはこれなり。」  ※劫略…おどしてかすめ取る。劫奪。  ※相模次郎…北条時行のこと。  輪廻転生の決定的な因業から逃れられない宿命のようなものを前提に描く『太平記』の中では異色の、鎌倉幕府が崩壊する真っ只中のシーンに織り込まれた、未来の現実をそのまま挿入させる不思議な部分です。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕    
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