第31回 ひっかかるのは麻呂(まろ)だけじゃない! 後醍醐天皇を〝背負って〟立ち上がった一族、旗で敵を欺く!

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第31回 ひっかかるのは麻呂(まろ)だけじゃない! 後醍醐天皇を〝背負って〟立ち上がった一族、旗で敵を欺く!

 『逃げ上手の若君』イチオシのモブキャラ「保科党の門番」さん、生きててよかった!ーーと思いつつ、「サクサクサク」って一体何をしているのでしょうか、彼は……。  しかしながら、戦場で他の人とは違う動きをしている人がいたら、不気味すぎて近づけないですよね。門番さんは、得体の知れない恐ろしさを武器にしている〝逃げ上手〟さんということにしておきたいと思います。  正統派の〝逃げ上手〟は保科弥三郎とその子孫ですね。このシリーズの第26回でも保科氏については触れました。 https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=26  一方で、諏訪一族であったと思われる私の先祖ですが、大祝の庶家として諏訪の本家を支えていたようです。しかし、諏訪氏が武田氏に滅ぼされた後に武田の配下に入り、武田氏の滅亡後は、諏訪を捨ててまでご先祖様方は生き延びたのであろうと見ています。ーー敗者の歴史は黙され、秘され、いつか消えてしまう運命なのかもしれません。  しかし、どういうわけか私は〝自分が何者であるのか〟に気づくことができました。理屈ではない〝血〟のなせる業なのかもしれません。そして、保科氏のように表舞台の歴史には残らないとしても、私は私のご先祖様方の〝逃げ上手〟に、ただただ感謝の念を抱くのです。 ***********************************  さて、『逃げ上手の若君』第31話は、時行のパルティアンショットが実戦で炸裂したのもさることながら、吹雪の活躍も見逃せません。  「こ 国司様! 奴が逃げ去る川向うに!」  「大量の旗の影! あんなところに味方はいません!」  「きいやああああ 麻呂を狙う別動隊じゃあ!」  「落ち着いて」と市河は「偽装  かつて吹雪は征蟻党編でも、たいまつやハリボテを使って敵を欺いています(そして、それというのは『太平記』のヒーローの一人・楠木正成がとった策でもありました)が、今回の「旗」による作戦も『太平記』の重要な局面で登場しています。  時は、鎌倉幕府滅亡直前のことです。幕府(時行の父・高時)によって隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出に成功し、伯耆国(ほうきのくに)名和(なわ)の港に着きます。  ※伯耆国…今の鳥取県の西部。  後醍醐天皇と行動をともにしていた千種忠顕(ちくさただあき)は、頼りになる武士を探し、道行く人から名和長年(なわながとし)と一族のことを教えられます。  すぐにも忠顕は使者となって長年を訪ね、帝の力になってほしいと伝えます(長年は一族と酒宴の最中だっということですが、泥酔状態ではなかったのか、あるいは、最初は〝はあ?〟とか思ったかもしれませんが、事実だとわかったら一気に酔いも醒めてしまったのでしょう……)。  長年はすぐに返事ができずにいましたが、弟の長重(ながしげ)に「ただ一筋に思ひ定め給ふより他の事あるべしとも存せず」と諫められ、帝をお迎えすると心を決めます。  長年の一声で、主だった一族三十人が立ち上がり、手に取った武具を移動しながら身に着けて、後醍醐天皇のもとへ駆けつけました。なにしろ急なことだったので輿(こし)の用意もなく、長年は帝を背負って船上山(せんじょうさん)の館までお連れしたのでした。  ※船上山…鳥取県西部、東伯郡西端琴浦町にある大山(だいせん)火山群中の山。標高616メートル。1333年(元弘3)、名和長年が隠岐(おき)から脱出した後醍醐天皇を奉じて山上の智積寺を行在所(あんざいしょ=天皇行幸の際の仮のすまい)とし、奮戦した所。せんじょうせん。〔広辞苑〕  実のところ、隠岐を脱出した帝には追手も迫っていました。ここで、名和七郎という「武略の謀事(はかりごと)ある者」が登場します。  白布をあまた取り寄せて、松葉を()いてふすべつつ、近国の武士の家々の紋を書いて、ここかしこの木の末に打つ立てたり。この(はた)ども山風に飛揚して、山中に大勢の充満したる様にぞ見えたりける。  ※あまた…数多く。たくさん。  ※ふすべつつ(燻べつつ)…いぶしてはまたいぶして。次々にいぶして。  ※ここかしこ…ここやあそこ。  果たして、追手は三千騎で押し寄せて来ました。船上山がいくら大山(だいせん)に連なる険しい山々のひとつであるとはいえ、堀も塀もなく、逆茂木(さかもぎ)垣楯(かいだて)なども急ごしらえだったために、敵は山上の後醍醐天皇のもとへ迫り来ます。  ※逆茂木…敵の侵入を防ぐために、茨(いばら)の枝をたばねて結った柵(さく)。  ※垣楯…楯を並べて垣のようにしたもの。  突如、寄せ手の兵たちは足を止めました。  はるかに見上げる城中には、陽の光を浴びて輝く諸家の旗が四、五百本はひるがえっていたのです。  ーーさては、はやくも近国の軍勢が集まったのだな!  不安に思った彼らは、うかつに進撃することを控えました。そして、城中の名和一族は、兵の数が少ないことを悟られないように、時々矢を放ちながら時間を稼ぎます。  まもなく、後醍醐天皇が隠岐を出て船上山で戦っているという噂は広まり、諸国の兵が集結、討幕の機運は高まったのです。 ***********************************  名和七郎は大山の切り立った地形を、吹雪は「川中島の朝霧」を利用して、敵を欺くことに成功しました。  前回は「即興(あどりぶ)のチーム」が活躍し、今回は「吹雪の策」に麻呂(まろ)が思うツボでした。数やパワーだけで戦の勝敗が決するものではないというところで、松井先生の痛快なストーリーと『太平記』のエピソードとの親和性は高いということがあらためてわかりました。松井先生が、なぜ南北朝時代、なぜ北条時行(アーンド諏訪頼重)なのかというのは、私の周囲でも何度も聞くところですが、その答えのひとつはこれだと思いました。  そして、私個人としては、「初めてだ こんなに気持ちのいい負け戦は」と言う弥三郎のさっぱりとした表情にもまた、松井先生が時行に託した思いを強く感じるのです。    〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕
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