第50回 京にはびこる魑魅魍魎(ちみもうりょう)……深いテーマを秘め、佐々木道誉もシルエット登場で役者は揃いつつある!?

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第50回 京にはびこる魑魅魍魎(ちみもうりょう)……深いテーマを秘め、佐々木道誉もシルエット登場で役者は揃いつつある!?

 最近、玄蕃が妙にキラキラだなと思っていたら、やっぱりやらかしてくれました『逃げ上手の若君』第50話。ーーツインテールのカワイイ女の子が登場しましたね。  「あたしは魅摩(みま) 佐々木道誉の娘と言えば京で知らない奴はいないよ」  ダメです、この娘。カワイイけど、決して関わっちゃいけない人でした……! 信濃の田舎狐なんて、手下の女の子たちの段階で〝カモ認定〟されていたわけです。  佐々木道誉(どうよ)と言えば、約30年前の大河ドラマ『太平記』では、陣内孝則さんが演じられて、私くらいの世代だとそのイメージが強すぎて拭い去れないくらいです(ぜひ検索してみてください)。〝あ、これが魅摩ちゃんのお父さんなのね〟って言って、そのまま通用する衣装のド派手さ、リアリストっぷりです。  そうした佐々木道誉の名前は、代表的な「婆娑羅(ばさら)大名」であるということで、これまで何度も『逃げ上手の若君』に登場している高師直(こうのもろなお)らとともに、ご存じの方が多いのではないでしょうか。  お父さんはまだシルエット登場だけなので、今回は道誉以外の別の話題を用意しているのですが、孤次郎のセリフと「佐々木道誉」の名前を聞いた後の反応は気になりませんでしたか。  「おいてめえ その金で満足しろよ 賭場が荒れれば刃傷沙汰は全国共通だろ」「取り巻きは女ばかり 武力の保証のない小娘が欲張るんじゃねーよ」  弧次郎にしたら、穏便にことは済ませたいけれども、場合によっては……という覚悟で、自分の刀を「トン」と叩いて見せたわけです(もちろん、女ばっかりだし、それで引っ込むことを見越してのポーズでもあったわけなのでしょうが……)。しかしながら、魅摩の「取り巻き」の女たちは余裕の表情で、動じる気配もないのは、魅摩の父である「佐々木道誉」がバックについているからなのです。  後のことになりますが、道誉の息子とその郎党たちが京で暴力沙汰を起こして返り討ちにあった時、道誉はすぐにも報復して、京を火の海にしたというエピソードが『太平記』で語られています。ーー道誉のその類の評判は「諏訪まで聞こえた」という設定があっての、孤次郎がそれ以上手が出せなかったという話の流れになっているのを感じました。  松井先生が、佐々木道誉をどんなキャラで描くのか、今から楽しみですね。  そして、京都編に入った際に私は、漫画などの創作作品を〝史実と違う〟と言って、それだけで非難するのはおかしな話だといったことを言わせてもらったのですが、松井先生の『逃げ上手の若君』では、十分な記録が残っていない(要するに、記録に残すべきような主要な存在とはされてはいなかった)子どもや女性たちを架空のキャラクターとして登場させて、生き生きと活躍させているのが痛快です。  また、創作作品では、個別的な時代が持つテーマや問題が描かれること以上に、私たち読者が、時空を超えて登場人物たちと共通するテーマや課題をそこに重ね合わせるのが面白いのだと思います。  玄蕃がせっかく頼重からせしめた大金を双六ですってしまいながらも、決して諏訪ではできない「全裸双六」のような体験をしていることなど、私はとても面白く感じています。  玄蕃がさまざまな「欲」をまとい、それを刺激されているのなんかは、描かれ方が現代的過ぎるのではないかと皆さんはお思いになるかもしれません。しかしながら、それがそうでもないというのを、何気なく第50話で差しはさまれた京の町の一場面から垣間見ることができます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    「どうか仏様 この世の全てのビワから種を消滅させて下さいませぇ!!」  清水寺でトンデモなお願いをしている老婆を見て驚く孤次郎と時行。雫の「信濃も粒ぞろいだと思うけど」にクスッとさせられますが、この話は夢窓疎石(むそうそせき)という禅僧と足利直義の問答を収録した『夢中問答』という書物に見られます。当時は有名なエピソードだったようです(古典文学を読んでいると、同時代の書物にあちこち登場するフレーズ(流行語)があったりします)。  この老婆(本文では「老尼」)、若い頃からずっと清水寺でこれを祈っていたそうです。ーーもっと他にすることあったんじゃないの!?  それよりも読者の皆さんは、〝足利直義って、尊氏の弟で、鎌倉で関東庇番を統括しているアイツ!?〟ということに興味がわいたかも知れませんね。ーーそうです、あの直義です。夢窓疎石は直義に対して、〝神仏には「無上道」をお願いするんです〟とキッパリ。「世間の福寿をたもち、災厄をまぬがれんため」とか「名利のため」だとかも、枇杷の種をなくしてという老婆の願いと変わらないそうです。  ※無上道(むじょうどう)…この上もなくすぐれたさとり。完全な究極のさとり。またその智慧。仏道。  なぜなら、死がいつ訪れるかわからない中で、私たちはいつまで生きながらえて、枇杷を食べたり、威張って安穏に暮らしたりといったことができるのですか、と逆に問うのです。  そういう意味では、諏訪の「変人」たちは、なにゆえに「変人」なのでしょう。どうも、清水寺の「老婆」のように、「欲」ゆえの「変人」ではなさそうです。    「()いんだよねぇ 誇り高く純朴な田舎侍を… 京の汚泥でグチョグチョに汚す悦び」  おバカな玄蕃を見捨てることなく、「(みんな)金を」と時行が言って、弧次郎たちもすぐに金を出したのを見て、魅摩は一瞬何が起きたかわからないという表情をしています。予想外の展開だったのでしょう。  鎌倉幕府が滅びた原因はわからないとされているそうですが、第50話の最後に付されていた「解説上手の若君」では、執筆者の本郷先生が「僕は鎌倉幕府が倒れたのは、急速に膨張する経済活動について行けなかったためだと考えています」(「当時の経済について」)と述べられています。興味深い指摘だと思いました。  思い出してみてください。  第37話、捕らえられた護良親王は、足利尊氏の中に潜む化け物たちが「全部よこせ 全部」と声を上げているのを見ました。  一方、北条泰家や諏訪頼重は、いったい何のために戦うのでしょうか。そして、敵である尊氏の恐ろしさの核心はどこにあるのか……?  ひるがえって、現代を生きる私たちにもし何らかの〝生きにくさ〟があるとしたら、それは「欲」から生じてはいないでしょうか。私たちの「欲」を刺激する巨大なシステムに気づいていながらも逃れられない(もはや気づかずに取り込まれている人も多い?)のではと思うことがあります。ーー時行の生きた時代は、スケールは違っても、現代に似ているのかもしれません。  足利直義が、夢窓疎石から神仏に祈ることや「欲」の恐ろしさについて学んでいたとしたら、それは兄・尊氏を止めるためといった、今後の作品の展開につながるのかな……などと、勝手な妄想してしまいました。  恩義ある北条の再興のために時行をかくまう不思議な「神」の諏訪頼重と、そのもとに結束する諏訪神党、「郎党のために即座に身を切る潔さ」を持つ時行、そして「迷わず従い金を出す」弧次郎たちを、創作作品でありながら、私は心から応援してしまいます。  たとえスケールは違ってしまったとしても、私たちが真に求めるもの、夢窓疎石の語を借りれば「無上道」は、もしかしたら、時行たちの時代から大きく変わるものではないのかもしれません。 〔無窓国師『夢中問答』(岩波文庫)を参照しています。〕 
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