第51話 佐々木道誉の娘・魅摩と諏訪頼重の娘・雫の〝ブッ飛び〟対決……純情なギャルにもやり手の田舎巫女にも神仏宿る!?

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第51話 佐々木道誉の娘・魅摩と諏訪頼重の娘・雫の〝ブッ飛び〟対決……純情なギャルにもやり手の田舎巫女にも神仏宿る!?

 え ちょ……雫のこの技って、触手で暴走するカエデを止めた渚を思いだす~~~!と、まだ『暗殺教室』を読んでいらっしゃらない方がいたら、ぜひ手に取ってほしいと思えてならない、大興奮の『逃げ上手の若君』第51話でした。  「周囲の注目が雫の口元に集まる間に 他の駒も握り込んで進めてる イカサマを併用する事まで全部計算に入れてたんだ」  「おっそろしいやり手だぜ 逃若党(うち)の執事様は」  雫の目的は、魅摩を心理的に動揺させて、神力を削ぐだけではなかったという驚きの頭脳戦! しかも、解説名人の盛高殿がいないので、かわりに孤次郎が私たちに雫の魂胆を説明してくれてありがたいことです。  「やばい 心が乱される! 運が逃げていく!」  先読み能力を駆使した頭脳戦はもちろんなのですが、やっぱりその方法からして雫は、諏訪の精霊とかではなく、頼重の血を引く娘だよなあ……という思いを新たにしています。時行VS貞宗の犬追物編の時、頼重はあの手この手で貞宗を挑発したり、翻弄したりしたのが思い起こされたからです。 第7回 敵ながらあっぱれの小笠原貞宗と諏訪における鹿の重要性 https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=7 第9回 正統派武士・小笠原貞宗VS頭脳派神官・諏訪頼重、時行の成長を促す https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=9  「こんなブッ飛んだ奴… 京でも見た事ない!!」  権威を軽んじ、常識を逸脱する派手な言動で鳴らした婆娑羅大名・佐々木道誉の娘という設定の魅摩をしてこう言わしめる、諏訪頼重の娘という設定の雫ーー清水寺で、枇杷の種をなくしてほしいと一途に祈る老婆の変人ぶりに驚く時行や孤次郎を前にして、「信濃も粒ぞろいだと思うけど」(第50話)と、顔色ひとつ変えずに言っているのに、先週の段階では気づかなかったややブラックな視点を感じてしまいました(笑)。  あの父にしてこの娘あり? 父・頼重に至っては、作品の第一話・初登場から、「ブッ飛ん」でいましたからね……。  (ちなみに、ご先祖様が描かれ方だと、激しくクレームを言うご子孫の方々もあるようですが、諏訪一族の子孫が頼重のブッ飛びぶりにクレームを言っているとは思えません。なぜかと言うと、諏訪の血を引く私も妹も、頼重のイケメン顔の時よりも、インチキ顔の方がかっこいいといつも話しているからです(話を作ってはいませんよ。本気でそう思っていて、先の表紙のきりっとした表情で笛を吹いているのも、〝笛吹いてるからこんなウソの顔になってる〟と言って、二人で首をかしげています))。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「…へえ あんたも使んだ」「たまにいるんだよね 帝ですら如意にできない賽の目の運を… 少し上乗せ出来る奴」  ※如意(にょい)…物事が自分の意のままになること。  ※賽(さい)…さいころ。  「帝ですら如意にできない賽の目」というのは、かつて絶大な権力を握って世を支配した白河天皇(法皇)が、「意の如くならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つのみ」(=天下三不如意)とした有名な逸話によるものでしょう。  ※山法師…比叡山延暦寺の僧。特に、その僧兵をいう。  それなのに、「田舎巫女」とはいえ、謎多き諏訪大社の「明神様」の娘・雫以上の神力を、京という都会の、今で言えば〝ギャル〟(この言葉、もし死語だったらすみません…)の魅摩が持っているとは、どういうことなんだろうと思います。ーーしかし、さすが松井先生、鮮やかな〝解答〟でした。  「この通り誰も神仏を敬わない世だ あんた等みたく神仏の中身も彷徨うわな」「なんならあたしン中来る? 役に立つなら居させてやるよ」  魅摩は、見た目は派手ですが、雫の大胆な行動に対して赤面して心を揺さぶられてしまうような、意外にも純情な女の子でした。そして、言葉遣いはやや荒っぽいですが、「彷徨う」神様や仏様の気持ちに寄り添える優しいところがあります。  「この力で父上の… そして尊氏様の覇業を援ける!」というのも、父や尊氏の本心や本性は別として魅摩自身は、父親たちが「誰も神仏を敬わない」で荒廃する世を立て直すのだと信じているのだと私は推測します。  賭け事で得たお金も、父や父の〝ボス〟である尊氏(実際の歴史でも、道誉は裏切りやいい加減な振る舞いがありながらも、尊氏の大事な時を何度も支えています)の「覇業」のために役立てようと、純粋に思っているのではないでしょうか。  中世の日本では、「素直」で「正直」な人間に神仏は宿るとされていました。この時代よりも少し前の高僧であった一遍の生涯を描いた『一遍聖絵』には、善光寺の仏様が〝今は(善光寺は留守にして)一遍と一緒にいる〟と、善光寺に参詣しようとした入道に夢で告げているエピソードがあります。  乱世において神仏が居場所を失い、「素直」で「正直」な人間のもとに身を寄せたということもあったのかもしれないーーそれを魅摩という女の子を登場させて展開させる松井先生、ただただ尊敬するしかありません。  私は、魅摩は見た目よりもずっと心の清い女の子なのではないかと思います。一方で、玄蕃の身ぐるみ剥いだり、悪いことをしているじゃないかという疑問は生じますよね。  おそらくなのですが、前回も触れましたが、玄蕃は多くの欲をまとって、それを刺激されてのこのこと魅摩のところにやって来たわけです。神仏も「欲」には厳しいところがあります。だから、魅摩の一途な思いの方に味方しているのではないでしょうか。  そういう意味では、雫はどうなのかとなりますが、魅摩はもちろん、時行も翻弄しているかような印象です。  しかしながら、これは父の頼重にもずっと感じていることなのですが、彼女には自分の個人的な感情を抑えて芝居をすることができるほどの強い意志の力で、成し遂げようとしている何かがあるのではないでしょうか。  「いのちに変えても兄さまを護るの」  これが、雫の本心ではないかというのが私の結論です。「主君」だから「男として好き」だからというのもおそらく超越して、雫の中にはただその思いだけが凝縮し、魅摩の思いの純度にまさった。ーーだからこそ、イカサマしようが何しようが、最後に神仏は雫に微笑んだ気がしてなりません。 〔聖戒編・大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波文庫)を参照しています。〕  
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