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第52回 佐々木道誉は尊氏の本性を知っている? 「婆娑羅」の時代の破格の貴公子・北畠顕家もシルエット登場!
〝尊氏、ゲロ吐いてましたね〟〝ゲロではなくて神力なのでは…〟
南北朝界隈の知人との会話においても、諏訪の血を引く私の〝尊氏憎し〟の思いが炸裂してしまった『逃げ上手の若君』第52話ですが、京の場面が切り替わるとともに様々な人物が登場して、時行が諏訪でかくまわれていた間の世の動きなどがわかる展開になっていたのを感じました。
そして、雫や亜也子にギリギリ締め付けられたり、突っ込みを入れられたりした時の魅摩の危険な体勢や表情に〝弥子(やこ)がいる~!〟と興奮してしまいました(もしまだ松井先生の『魔人探偵脳嚙ネウロ』を手に取ったことのない方は、ぜひ読んでみてくださいね)。
さて、そんな中で南北朝時代のひとつの象徴である「婆娑羅」という語が魅摩の父・佐々木道誉の名前とともに紹介されていました。
ばさら 〖婆娑羅〗
〔名詞〕 様子やふるまいの、法式を外れた在り方。具体的には、過度のぜいたく、異風の言動、不整な調度・衣髪などをさす。特に南北朝期、一部の武家に一つの美的理想として主張する動きが見られたが、世人は批判的に見ており、式目・家法によって制禁された。〔角川古語大辞典〕
用例としては次のようなものが取り上げられていました。
「近日婆佐羅と号して専ら過差を好み、綾羅錦繡、精好の銀劔、風流の服飾、目を驚かさざるは無し。頗る物狂と謂ふ可き歟。富者は弥よ之に誇り、貧者は及ばざるを恥づ」 〔建武式目〕
「武家の輩ら…そゞろなるばさらに耽て、身には五色を糚(かざ)り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干(そくばく)の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば」 〔太平記・二四〕
作品中の説明の、京に入った武士たちが「イキり始めた」という表現がとても的確だと思いました。
私は、南北朝時代の文書を読む勉強会に参加しているのですが、京の警備をつかさどる「武者所」の勤務の時には、大口袴などのキメキメの装束を着てきたり、馬に無駄な飾りをつけたりするのはダメ!という規則が記されているのを見ました。
学生服の裏をラメにして竜や虎の刺繍を入れたり、無意味にイカつい改造自転車で登校してきたりするのは校則違反だという感じだなと思いました(歳がバレますね…)。
『逃げ上手の若君』で、その存在感を高めつつある足利家執事・高師直や、魅摩の父とされる佐々木道誉らは、歴史上「婆娑羅大名」などと称されます。「そんな婆娑羅の仕掛け人があたしの父上」と、魅摩は嬉しそうに時行に語っていますが、ファッション、スピリットの両面において、佐々木道誉がそのリーダーであるのは間違いないでしょう。
一四世紀の内乱期社会では、旧来の権威、社会的通年がくつがえされ、価値感は激しく揺れ動いた。そのような社会のなかで「人目をひきつつ、自己の新たな価値感を追求しようとする人々が表れ、バサラの思潮が醸成されていった。価値感の激変する時代であったからこそ、佐々木道誉のように、確固たる信念にもとづき、自らの美意識を貫徹しようとする行為が人々の注目を集めた。旧体制を否定する思惟や行動もバサラの営為であった。それは、新しい感性の創出であった。バサラの世界は、豊かな経済力と洗練された感性、それに、反骨の精神で支えられていたのである。〔『日本中世史事典』の「バサラ」の項目による〕 ※「価値感」は原文ママ
作品中で、足利尊氏の弟・直義や高師直は、尊氏が〝普通〟ではないことにうっすら感づいているようです。
護良親王は、尊氏が〝魔物〟であることに気づき、父帝から遠ざけ、排除しようとして、逆に尊氏に捕らえられてしまいました。
佐々木道誉はどうでしょうか。信濃から命からがら京に戻ったと思しき国司の清原をどうすべきか、尊氏と目と目で会話しているような怪しげな雰囲気を漂わせています。ーーどうも、尊氏が〝普通ではない〟とわかっていて、あえてそば近く仕えているような気がしてなりません。もしかしたら、それを面白がってすらいるのかもしれません。
上記の引用にも「佐々木道誉のように、確固たる信念にもとづき、自らの美意識を貫徹しようとする行為」とありますが、好奇心と野心のおもむくまま、得体の知れない物事も丸ごと吞み込んでしまう……まさに究極の「婆娑羅」スタイルではないでしょうか。
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今回はもう一人、まだシルエットだけですが、『太平記』や南北朝時代といった時の重要人物である北畠顕家が登場しました。
北畠顕家(きたばたけあきいえ)
1318ー38
南北朝時代の公卿・武将。文保二年(一三一八)北畠親房の長子として生まれる。元徳二年(一三三〇)十三歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した。その春後醍醐天皇の北山行幸に供奉して、花宴に陵王の舞姿を披露したことが『増鏡』にみえる。建武新政とともに、元弘三年(一三三三)八月五日十六歳で従三位に叙され陸奥守となり、義良親王を奉じ父親房とともに、特命を帯びて、十月京を発ち陸奥に下った。任国では、親房の補佐をうけて、宮城郡多賀(宮城県多賀城市)を国府とし鎌倉幕府の職制を模した政務機構を新たに設け、さらに北条氏から没収した郡地頭職を改編して郡ごとの機構整備にまで着手し、奥羽住人の掌握にほぼ成功した。建武元年(一三三四)十二月勲功賞として従二位に叙せらる。〔国史大辞典〕
私が持っている『ビジュアル日本の名将100傑』という本の中では、古代から近代まで100人の名将たちのランキングがされているのですが、なんと顕家は12位で、尊氏や楠木正成よりも上位にランクインされています(日本史や戦いに詳しい人からすると、この本のランキングの基準がよくわからんということですが、私としては本の性格上、一種のエンタメとして受け止めています)。
ただ、顕家がすごいのは事実で、のちに後醍醐天皇から離反した尊氏を三度も破っているのです。そして、この本の南北朝時代の名将たちが皆〝ザ・オッサン〟みたいな風貌で描かれているのに、顕家だけとっても若くてイケメンに描かれています!
南北朝界隈の友人女性に言わせれば〝顕家はピチピチ〟だそうです。確かに、南北朝時代を楽しむ会でも女性人気の高い武将です。美少年だったというのが通説です。違うと言う方もいますが、21歳で悲劇の戦死を遂げているところで、世間的には〝美少年〟確定でしょう(笑)。大河ドラマ『太平記』では、国民的美少女コンテストで芸能界入りした後藤久美子が顕家を演じています。
「常識は変わったっつったでしょ 今じゃ公家まで武家と張り合う時代なのよ」
古典『太平記』を読むと、後醍醐天皇の周囲には数多くの個性的な公家が集まっているのがわかります。
公家は、家々が決めた役割を代々引き継ぐことが大事でしたが、破格の能力を持つ者たち、先祖代々の能力を伝統的な役割の中に閉じ込めることなく使ってみたいと望んだ者たちが、変化する時代の価値に合わせてそれを存分に使うことを、帝はよしとしたのではないかと私は推測しています。
まさに時代が「婆娑羅」を求めたとも言えるでしょう。
「ええ~ なにその真面目女殺すぞ 一周廻って逆に婆娑羅」
多くの者が流行を追い求め、それが当たり前になってしまえば、婆娑羅も婆娑羅でなくなるのかもしれません。そう考えた時に、「確固たる信念にもとづき、自らの美意識を貫徹しようとする行為」こそが、揺らぐことなき「婆娑羅」だとは言えないでしょうか。
〔阿部猛・佐藤和彦編集『日本中世史事典』(朝倉書店)、歴史魂編集部編集『ビジュアル日本の名将100傑』(アスキー・メディアワークス)を参照しています。〕
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