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第59回 北条時行、諏訪の兵を従えて起つ! 挙兵の場面を古典『太平記』に見る
久しぶりの頼重の〝ヘン顔〟登場で、時行が諏訪に戻って来たということを実感した私です(笑)。
その他、新田義貞の頭の上に控えめな「?」があったり……緊迫した展開の中にも笑いありの『逃げ上手の若君』第59話ですが、義貞の鎌倉行軍については、古典『太平記』の本文を確認する形で、かつてこのシリーズでも紹介しました。
再度、その部分をこちらに引用したいと思います。
【思いがけない加勢の出現】
旗上げの夕方に、利根川の方角から二千騎あまりの兵が走り来った。敵かと思って見ると、越後国の里見、鳥山、田中、大井田、羽川といった新田の一族であった。
【一人の山伏が触れ回ったことを知らされる義貞】
義貞はおおいに喜んだが、「前々から旗揚げを考えてはいたが、わけあってこの日となったので告げる間もなかったのに、どうして知ったのですか」と(疑問を)口にした。大井田経隆は「知らずに出兵などできません。去る五日にお使いと称して山伏が一人、越後の国中を一日のうちに告げ回ったため、(知ることができました。それゆえに、)昼夜兼行でこちらに参りました」という旨を答えた。大井田はさらに、上野国の外へ出陣されるつもりであれば、翌日には到着する遠隔地にいる者たちをしばらく待つようにと義貞に告げた。後続の越後の軍勢や甲斐・信濃の源氏である武田・小笠原・村上などの諸氏は、五千騎で小幡庄まで追い付いた。
【千寿王との合流でますますふくれあがる軍勢】
「これは八幡大菩薩〔=源氏の氏神〕の加護によるものだ」という思いでわずかの時間も惜しんだ義貞は、九日のうちに武蔵国に入った。記五左衛門が足利高氏の嫡男である千寿王をお連れして、二百騎余りで駆け付けた後は、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵の兵が招集もかけないのに駆け付け、その日のうちに二十万騎となった。
(第48回 足利学校での「忍」養成や時行が泰家と京都へ…は大胆な演出ながら、天狗が新田義貞を勢いづけたのはホントだった!?
https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=49)
「足利の子に出来た事は… 北条の子にも出来る事だと思うのです」
時行の言に時継も盛高も「はっ」息を吞み、さらに言葉を続ける時行の対して、頼重はまるで〝父〟の眼差しですね。
実際はどうだったのでしょうか。若干のネタバレをご容赦願いつつ、古典『太平記』を紐解いてみます。
まず、「北条の子」の前に、〝北条のオッサン〟の奮闘が語られます。ーー命懸けで乱を起こした西園寺公宗と別れを告げて、新たな戦いに身を投じた北条泰家です。
かの余類、東国・北国に逃げ下つて、なほ素懐を達せんことを謀る。これによつて、名越太郎時兼には野尻・井口・長沢・倉光与力する間、越中・能登・加賀の勢馳せ付きて、六千余騎になりにけり。
※かの余類…例の北条の残党。泰家のこと。
※素懐…以前からの望み。かねてからの願い。
『逃げ上手の若君』第1話で、「おのれ… なぜ裏切った」と言った次の瞬間に尊氏に射殺されている名越高家のことを、皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。「名越」は、北条の有力な一族です。
泰家は、かつて北陸で勢力を持っていた一族の子である時兼と連動して、その方面で北条に味方するする者たちや、新政権に不満を持つ者たちで六千騎を集めたのです。
この後、場面が切り変わり、諏訪にいる時行の名が登場します。
相模次郎時行には、諏方三河守・三浦介入道・同じき若狭五郎判官・那和左近大夫・清久山城守・芦名入道・塩谷民部大夫・工藤・長崎・安保入道を始めとして、宗徒の物ども五十余人与してければ、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢ども馳せ加はつて五万余騎とぞ聞こえける。相模次郎時行その勢を合はせて、信濃国より起つて、鎌倉へぞ責め入りける。
※※宗徒(むねと)…多くの人々の中で中心となる者。おもだった者。
「諏方三河守」が頼重を指します。
『逃げ上手の若君』だと、ボケボケ未来予知の神力の持ち主というキャラ設定のインパクトが強すぎでしたが、時行を大将に五万騎を率いたとは、やはりそれなりに力を持った〝武士〟だったのだと、妙な感慨があります。
新田義貞の「二十万騎」にはとても及びませんが、『太平記』は数字を盛ることで有名なので、義貞しかり時行しかり、具体的な実際の戦力はよくわかりません。しかしながら、「続々と味方が集まり」「鎌倉に着く頃には数万騎に膨れ上がった」義貞の鎌倉入りを、自分の名声を使って真似できるという時行の読みは、〝大当たり!〟という展開です。
そして、私が参考にした古典文学全集の注には、赤字で次のことが記されていました。
北条時行の挙兵は建武二年七月初旬のこと。挙兵後七月十四日、時行は信濃国守護小笠原貞宗と信濃国埴科郡船山郷青沼(長野県埴市)で戦っている。
「建武二年」は西暦1335年です。読者の皆様はもうお気づきだと思いますが、『逃げ上手の若君』の各話のタイトルの数字は、作品で描かれる事件の起きた年代を示しています。
第1話「滅亡1333」から二年が経ったのがわかります。そして、その二年の間に時行が出会った諏訪神党の保科と四宮は、作品の中でもこの信濃の初戦でのキーパーソンになっていくはずです。
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第59話の冒頭で、足利尊氏は「我が勘が外れるとは…」と、時行を逃がしたことへの違和感を覚えています。
時行が、「取るに足らぬ」というのは、まったくもって尊氏の言う通りなのでしょう。旧政権のトップの一族の遺児とは言え、何もかも失い、一人の子どもに過ぎない時行は、圧倒的な「弱者」です。
「弱者は檻に囚われるべからず 卑怯や臆病と言われようが自信をもって逃げるべし!」
これは、楠木正成が時行に伝えたメッセージですが、「取るに足らぬ」「弱者」だからこそ、常識的な思考や言動を逸脱し、無心・無欲で敵に向かっていくことができる……「強者」にとっては、相手の目的も意図がわからないという不透明さ、不気味さを抱えた存在であるとも、言えるのではないでしょうか。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕
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