第7回 敵ながらあっぱれの小笠原貞宗と諏訪における鹿の重要性

1/1
前へ
/175ページ
次へ

第7回 敵ながらあっぱれの小笠原貞宗と諏訪における鹿の重要性

 諏訪頼重のもとに、綸旨を携え、信濃国守護として挨拶に訪れた小笠原貞宗。  貞宗の飛び出た目玉が頼重の鼻先にくっつき、極限まで接近した2人の緊迫した場面……。  そこへ、古典『太平記』では時行を託されて鎌倉を脱出した諏訪盛高が登場(このシリーズの初回で紹介)。貞宗の態度に異を唱えるのですが、背後で〝しくった……〟という感じでお互いの触れた部位を押さえる貞宗と頼重(ソーシャルディスタンスが叫ばれる現代でなくとも、「ヌチュ…」は完全にアウトな距離感ですね)。  ーー敵同士のはずなのに、何だかおかしな関係の2人に笑いを禁じえない『逃げ上手の若君』です。 ***********************************  「あの糞目玉! 只の巫女に弓を引くとかありえねえ 若はどう思います!?」  憤慨する弧次郎に対して、時行も厳しい表情で答えます。  「武士として恥ずべき行い 目玉一杯に性格の悪さが詰まった男だ」  時行くん、倫理道徳観もさることながら、表現力もなかなかのものです。そしてこのあと、頼重も「なんと素直で寛容なお方だ」と感心する、次のセリフが続きます。  「…ただ」「弓だけは…本当に美しかった」    小笠原貞宗を『日本中世史事典』で確認してみると、このような説明がされていました。  弓馬の名手であったことから、後醍醐天皇の師として「修身論」を献じたとされるなど、後世、小笠原流武家礼法の中興の祖に擬せられた。  なぬ、「小笠原流」? 現代でも耳慣れた響きです。  弓術、馬術、武家礼式の代表的流派の一つ。弓馬術は源頼朝の臣、小笠原長清によって創始され、孫の貞宗が大成、武家時代の弓馬術の故実はすべてこれに従った。武家礼法は足利義満の指南をつとめた小笠原長秀が定めたもので、室町・江戸時代にはその道の大宗とされ、明治以降学校教育に採用され、女性の礼式としても普及した(『ブリタニカ国際大百科事典』)。  ※大宗(たいそう)…本家。  時行がうっとりするのも道理だったわけです。 ***********************************  さて、貞宗の話題のみで終わらせず、諏訪大社に関して新たに調べたことなども取り上げておきたいと思います。    貞宗が、巫女の栄の耳を射抜いて示威行為をとった際に、このように述べています。  「おおそうだ 急ぎ来たので手土産も無く せめて諏訪明神に鹿を一頭献上しましょう」  『諏訪市史』にはこのようにあります。  諏訪神社上社の年中行事は、古来から饗膳を供えるものが多い。いずれも鹿・鳥・猪・魚などを狩猟し、御贄にかけている。その魚・肉は神人相嘗(しんじんあいなめ)(共食)に用いられた。『旧記』に「鹿なくては御神事すべからず候」とある。  このシリーズの5エピソード目で紹介した「御頭祭(酉の祭)」が「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」と称されていた時の記録には、御贄である獣と魚がてんこ盛りだったほかに、「鹿七五頭」(!)とあるそうです。  貞宗は「耳の裂けた鹿」についても述べていましたが、生贄の鹿の中には耳の裂けた鹿がいて、諏訪大社七不思議のひとつでもあるようです。ただ、これについては出典が明確ではないので、この程度にしておきます。  ***********************************  諏訪一族の末裔として、登場と同時に小笠原氏と小笠原貞宗にムカムカしてしまいましたが、時行同様、認めないわけにはいきません。現代までしっかりと、武家としての一族のあり方がひとつの形として、その名とともに引き継がれているのですから……。  ただ、諏訪氏と小笠原氏の得意分野や価値観は、かなり違っていたのではないかという気がしています。  私の家系は、形よりもとにかく〝実〟を取ります。形式へのこだわりがとても薄いのは、ずっと気になっていました(一方で、思想的にはかなり保守的なところがあります)。それには、どういう理由があるのか……『逃げ上手の若君』の展開とともに、思索を深めていきたいとも考えています。 〔阿部猛・佐藤和彦編集『日本中世史事典』(朝倉書店)、諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』を参照しています。〕
/175ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加