第75回 いよいよ対決! 女影原(おなかげはら)の戦い…御内人の中でもなぜ諏訪氏はここにまで至れたのかを想像(妄想?)してみる

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第75回 いよいよ対決! 女影原(おなかげはら)の戦い…御内人の中でもなぜ諏訪氏はここにまで至れたのかを想像(妄想?)してみる

 「やるね諏訪頼重 けど渋川殿から逃げきれる?」  前回、弧次郎の暴発を攻撃の機とみて望月の軍に突撃させた頼重でしたが、望月を使った理由があったのですね。  「なるほど 対応自在のあの将を使って渋川殿の力を測ったのか」「そして力押しの渡河は厳しいとみて即座に退却」と、斯波孫二郎は敵方を分析する『逃げ上手の若君』第75話冒頭。  一騎打ちに応じない時行や送り込まれた兵に対して、一方的に理不尽な怒りを燃えたぎらせる渋川義季の刀に「ガキイン」と何かがぶち当たります。ーー〝ええ、何!?〟って、読者の私もびっくりしながらページをめくると、その正体は「影の薄い」諏訪時継!   「おのれ次は死角からの闇討ちか! 武士の風上にも置けぬ!」とますます怒りをつのらせてしまった義季の声を背中に受けながら、「正面からいっだだけなんだけど」と、例のごとく涙を流しながら走り去ります。何度もページを見直して笑ってしまいました。  これまでこのシリーズで何度も書いてますが、諏訪氏は「武士」でもあるけれども、オフィシャルな立ち位置は「神官」なんですよ、渋川サン……時行との一騎打ちを挑発ととらえていきり立つこともないし、渋川流自己強化の実態も把握し、頼重は逃若党も含めてすべての部下たちの強みを把握して、パワーに頼らない「智謀」の戦をするのです。  ※智謀…ちえのあるはかりごと。巧みなはかりごと。(古典『太平記』では、楠木正成が好んで使っていた語です!)  諏訪一族の末裔たる私としては、諏訪氏と諏訪神党が武士という枠にとらわれず戦う姿(もちろん時継もです!)をかっこよく松井先生が描いてくださっていることを、とても嬉しく思っています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  さて、作品中では時行軍が久米川から兵を引き、女影原で陣を敷きなおしていますが、鈴木由美氏の『中先代の乱』で状況を確認してみたいと思います。  武蔵久米川で渋川義季と合戦してから、武蔵女影原で合戦という流れであると、鎌倉への進軍経路を逆走している形になる。金勝本『太平記』の記述が誤りである可能性もあるが、久米川で敗れた渋川義季が、軍勢を立て直すために渋川氏の名字の地上野渋川荘(群馬県渋川市)を目指したものの、背後を襲われることを恐れた時行軍の追撃に遭って女影原で再び合戦となった、という可能性も考えられる。ここでは金勝院本『太平記』に従っておく。  確かに、『中先代の乱』の時行軍の進路の地図を見ても、わずかに北上しているのがわかります。現代の地図で確認したところ、久米川(現東京都東村山市)から女影原(現埼玉県日高市)は北西の方角に20キロメートルくらいの距離でした。  一部の物語によれば、久米川では義季が負け、軍の立て直しができなかったにもかかわらず、女影原で戦わざるを得なかったという戦の流れだったということです。  私がこのシリーズでメインのテキストとしている、日本古典文学全集の『太平記』は天正本を底本としていますが、それだと義季は「敵の勢の強大にして、しかも東国の兵ども過半は内通の由を聞き給ひしかば」として、かなり弱気な出陣の様子が語られています。これには理由があるようですが、ネタバレになるところがあるので、別の機会にお話しできればと思います。  私が考えたことでひとつだけ言えるのは、久米川から女影原の逆走を語る本が少ないという事実や天正本での義季の弱気というのと、『逃げ上手の若君』で義季と関東庇番たちが自信満々に登場しているのとは、案外矛盾していないのではないかということです。ーーそこが、歴史と文学(創作)の難しくも面白いところではないかと思っています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  また、弧次郎の出生の秘密ーー祢津頼直の妹が、弧次郎のせいで亡くなってしまったというのは、どういうことなのかが明かされました。その際、「鎌倉幕府の御内人(みうちびと)」という用語が出され、「北条氏の直属の家臣。絶大な権力を誇った。」という解説も付されていました。  「御内人」についてはこのシリーズでも何度が触れましたが、あらためて、野口実氏編著の『図説 鎌倉北条氏』を確認すると、次のような説明がされています。  北条氏と主従関係を結んだ人びと(被官)のうち、得宗家の被官を「得宗被官」と呼んでいる(史料上は「御内人」とみえる)。  得宗被官のうち、鎌倉幕府の滅亡まで活動した有力被官として、平(長崎)・諏訪・尾藤・工藤・安東(平姓・藤姓)・南条の各氏があげられる。  ※得宗(とくそう)…(北条義時の法号を得宗といったのによる)鎌倉幕府の執権となった北条氏の嫡流の当主。鎌倉後期、幕府の実質上の最高権力者。    「長崎」と「工藤」は、信濃で時行が挙兵した最初に、『太平記』では諏訪頼重らとともにその名が記されています。『逃げ上手の若君』では、三浦八郎などを集めた「鎌倉党」(鎌倉から信濃に逃げて来たところ保護され、鍛錬をしていた人たち)に属しているのではないかと推測します。  ただ、「長崎」については微妙(?)な印象を私は抱いてしまいます。単行本派の方々は「長崎」の名に覚えがあるのではないでしょうか。第6巻の北条泰家の能力紹介ページの①の泰家のデコに注目です。  「この長崎親子は眼の上のたんこぶ 追い落とすにはどうすればいいか」  おそらく、第49話の「幕府の中枢ではドロドロの権力抗争を演じ」のコマのジジイとオッチャンが長崎親子ーー長崎高綱(法名・円喜)・高資父子ーーなのではないかと推測されます。第一話でも、「実権は側近達に握られてる」という説明のなされたコマで、レロレロな時行の父・北条高時の脇をこの二人が支えています。  作品内で頼直の妹を死に追いやった「北条様に近い御内人」とは、まさに彼らのような者たちが、想定されているのではないでしょうか。  一方で、これも何度かこのシリーズでは書いてきましたし、上記の引用にもあるとおり、諏訪氏もまた北条得宗家の御内人です。だからこそ、時行を鎌倉から信濃まで連れ出し、二年の歳月をかけて彼を大将として鎌倉を攻めるまでに至ったのだと考える一方で、あまりにもリスクが大きすぎるとも思う時が多々あります。  北条氏あっての一族繁栄だったのは、長崎氏や他の御内人と同じだと思います。結果的に諸条件が一番整っていたのだとしても、他の御内人たちがなしえなかったことをしているのですから、そこにかけた労力ははかり知れません。ーー諏訪氏と諏訪神党を動かしたものは何だったのか。  「頼重殿 あなたの目的はなんだ 亡国の子を救い出してなんの利益がある」  「全ては北条家への忠義のため!…とインチキ祈祷師が言った所で信じますまいな」  第1話での時行と頼重の会話です。  歴史という学問は証拠に基づく事実しか認めません。しかし文学は、創作作品は、理想を語ることを許されます。  諏訪一族の末裔である私は、時行も疑問に思う部分、「利益」のないことをする人間がいるはずがないという常識を覆したいのだと思うのです。ーーいや、そんな個人や一族がいたっていいじゃないかということを信じたいのです。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、野口実編著『図説 鎌倉北条氏』(戎光祥)を参照しています。〕
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