第77回 敵の旗を使って敵陣に侵入した時行と弧次郎…足利の二引両でこんなことやあんなこと!?…を古典『太平記』に見る

1/1
前へ
/177ページ
次へ

第77回 敵の旗を使って敵陣に侵入した時行と弧次郎…足利の二引両でこんなことやあんなこと!?…を古典『太平記』に見る

 斯波孫二郎の策略を冷静に分析する諏訪頼重。ーー一方で、自身もすでに策をめぐらせていたのが、彼の視線の行く先でわかる『逃げ上手の若君』第77話。  「ゲンバ 敵軍を欺きなんとか渋川に近づけないか?」  「…そういう事なら「目には目を」だ」「頼重の荷物を漁ってたら… そばに足利の旗が捨ててあってな」  「お 大殿 さすがにそれは…」と言っているのは、おそらく鎌倉党の三浦八郎ですね。時行たちが何をしようとしているか、察したのです。  ゲンバの「目には目を」というのは、先に孫二郎が諏訪の旗を自分の兵に持たせて渋川を怒らせたのと同じように、足利の旗でやってやろうじゃないかということを意味しているのでしょう。  もちろん「足利の旗」は、先に逃若党の話し合いを聞いていた頼重が、わざとそこに捨てたに違いありません。  ※目には目を…「目には目を 歯には歯を」。相手の仕打ちに対して、同じ方法で仕返しをすること。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  旗で強行突破というのは、『逃げ上手の若君』第47話で、「新田の兵になりきった」北条泰家も使っていた手でした(彼の場合は、旗以外の要素にかなりインパクトがありますが……)。  北条泰家は輿に乗り 敵方の新田軍の旗を掲げ 血塗れの服を被り 新田の負傷兵のふりをして鎌倉から脱出したという〔コミックス第6巻〕  足利の旗には「二引両(ふたつひきりょう・ふたつびきりょう)」という紋章が入っています。「輪の中に横に二筋の線をひいたもの」〔日本国語大辞典〕になります。  女影原の戦いで、足利一門はすべてこの旗を使っているようですし、第47話の泰家鎌倉脱出のコマでも、この「ふたつひきりょう」の旗が描かれていました。  しかし、合戦については詳しくないので「あれ?」と思ったのですが、『逃げ上手の若君』第48話で、新田義貞は自分の所領である上野国を出た時には、「大中黒(おおなかぐろ)」あるいは「片引両(かたひきりょう)」「一つ引両(ひとつひきりょう)」などと称される「輪の中に横に黒く太い一線を引いた紋」〔日本国語大辞典〕の旗を掲げており、越後から来た一族も同じ紋章の旗でした。これは新田氏の紋章です。  新田氏は足利一門ですし、足利尊氏の命を受けて新田義貞は挙兵していますから、おそらく尊氏の嫡男が名代として義貞の軍に合流した際に変えたのかなと思いました。  ※名代(みょうだい)…代理。また、その人。  同様に、作品の中で、諏訪氏と諏訪神党の軍は信濃においては「諏訪梶の葉(すわかじのは)」紋を使用していましたが、信濃を出てからは北条氏の家紋である「三つ鱗(みつうろこ)」になったなと思っていました。  ちなみに、皆さんすでにお気づきかもしれませんが、岩松経家が持っている異形の太刀(サーフボード?)のマークは、新田の大中黒の中に足利の二引両が配置されたものになっています(南北朝時代ファンの知人が、初登場の段階で気づきました)。岩松氏は、父方が足利の血筋でありながら義絶され、母方の新田の一族を称していたということから、松井先生が工夫されたのだなと思いました。  足利と新田の旗(紋)をめぐっては、こんなことが古典『太平記』には記してあります。  足利と新田はのちに敵味方となり戦うのですが、新田が勝った際に足利方の兵が一万騎ほど降伏します。彼らは、足利の二引両の中央の二本の線の間を黒く塗りつぶして新田の大中黒の紋に改めます(シンプルなデザインのなせる業!)。ところが、もともとの二引両の線の線の濃さに比べて塗りつぶしたところの墨が明らかに薄いので、傍から見ても誰が寝返り組なのかが明白だったのです。  二ツ筋の中の白みをぬりかくし新田々々(にたにた)しげな笠じるしかな    ※笠じるし(笠標・笠符)…戦陣で味方の目印に兜などにつけた標識。多くは小旗を用いた。  足利の二引両の真ん中を塗りつぶして新田っぽい旗印にしちゃってるねえーーそんな意味の歌が五条の橋(鴨川の五条通に架かる橋)に立てられた高札に書かれていたそうです。  ちなみに「にたにた」とは、現代では声を立てない嫌らしい感じの笑いを表す擬態語ですが、この時代はまだその用例はないようです。ただ、「ねとねと」「にちゃにちゃ」〔日本国語大辞典〕する感覚を表現しているらしく、事の成り行きを皮肉る語である印象を覚えます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  さて、話を「敵の旗を持って敵に化ける事」に戻すと、やはり古典『太平記』の中に、「祢津小次郎」なる人物が、長尾弾正(ながおだんじょう)という者とともに、渋川義季ではなく足利尊氏を狙って敵陣に乗り込むエピソードがあります。  このシリーズの第74回でも触れましたが、弧次郎が戦場でその身代わりとなっている祢津家の次期当主である「小次郎」のことではないかと思います。ただ、もう子どもではない後の話になります。結果はどうなったかは伏せて、どういう形で二人が尊氏の懐近くまで迫ったのかを見てみたいと思います。  二人の物ども(にはか)に二引両の笠璽(かさじるし)を付けかへ、人に見知られじと、長尾は乱れ髪を(かお)(さつ)と振りかけて、祢津小二郎は(おの)(ひたひ)を我と突()きつて血を(おもて)に流しかけ、切つて落としつる敵の首(きつさき)に貫き取付(とつつけ)に付けて、ただ二人将軍の陣へ(まぎ)れ入る。  ※笠璽…前出の笠標・笠符  ※見知られじ…人に素性を見られまい。  ※祢津小二郎…祢津小次郎のこと。  ※鋒…刀あるいは矛(ほこ)の刃先。  ※取付…鞍(くら)の後輪(しずわ)の鞖(しおで)〔=鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右にそれぞれつけた、金物の管を入れた紐〕につけた紐。  ※将軍…足利尊氏のこと。  「二引両」偽装は当然のこと、人相がわからないように髪の毛で顔を隠したり、自分で額を割って顔面血塗れにした上で、尊氏に首実検してもらうための首まで用意して乗り込んだというのです。  いや、北条泰家しかり、祢津小次郎と長尾弾正しかり、物語によれば〝できる〟のですね。  「疑われないコツは 自分自身を疑わず信じる事」  楠木正成から時行が譲り受けた書にそう書いてあったとおりです。  現代でも、周囲の人たちが侵入者を〝関係者だと思った〟というので見過ごしてしまうケースを見ることがあります。彼らも一様に、コソコソ、ビクビクしていないのでしょう。  しかし大事なのはそのあとです。 「自分の正義を信じて歩を進めれば… 偽装などと疑われる事は微塵もござらぬ」  何事もなく渋川のもとにたどりついた時行と弧次郎。孫二郎も言う「足利側(こっち)が正義」に対し、北条・諏訪側の正義も、まだ試されている段階なのです。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕            
/177ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加