第82回 足利への恩義と武士の誇りを胸にーー古典『太平記』では異なる渋川義季の最期について考察してみる

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第82回 足利への恩義と武士の誇りを胸にーー古典『太平記』では異なる渋川義季の最期について考察してみる

 「足利の天下」と「足利の正義」を望み「最速回転の一撃」で決着をつけんとした渋川義季に対して、弧次郎は「若を鎌倉に!」という一念で太刀を振り下ろした『逃げ上手の若君』第82話。  「何故戦うのか動機を強く持て でないとお前が生まれた意味も解らないまま死ぬ事になる」  祢津頼直は、子ども(しかも、頼直は認めたくはなくても甥です…)の弧次郎に対してなんと厳しい言葉をかけるのだと思いました。しかしながら、弧次郎と義季との運命を分けたのが頼重の言う「激情」だとしたら、弧次郎を突き放した頼直のその言葉というのは、無意味な死を恐怖する反動としての意義ある生を弧次郎に渇望させた、大き過ぎるほどの一言であったのだと思い至りました。  動機ということを言えば、岩松経家は「全国の女を(ほしいまま)にする」「そんな夢を見れるのは乱世だけ」「そんな夢を見れる勢力は足利だけだ」と堂々と述べます。ーーこれは足利の持つパワー、特に、尊氏の本性でもないかと思われる「欲」の全肯定を背景とした発言ではないかと思いました。   そういう意味では、義季には岩松のようなえげつない欲は見受けられません。弧次郎に負けてしまう理由はなさそうですが、このことについてはまた最後に考えてみることにして、古典『太平記』で女影原の戦いがどのように描かれているかを紹介してみたいと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  前回のこのシリーズで、義季が女影原で自害を遂げていることをお伝えしました。また、本シリーズの第75回においては、古典『太平記』で義季が戦う前から弱気であったことを紹介しています。以下に、その部分を引用しておきます。  私がこのシリーズでメインのテキストとしている、日本古典文学全集の『太平記』は天正本を底本としていますが、それだと義季は「敵の勢の強大にして、しかも東国の兵ども過半は内通の由を聞き給ひしかば」として、かなり弱気な出陣の様子が語られています。これには理由があるようですが、ネタバレになるところがあるので、別の機会にお話しできればと思います。  私が考えたことでひとつだけ言えるのは、久米川から女影原の逆走を語る本が少ないという事実や天正本での義季の弱気というのと、『逃げ上手の若君』で義季と関東庇番たちが自信満々に登場しているのとは、案外矛盾していないのではないかということです。ーーそこが、歴史と文学(創作)の難しくも面白いところではないかと思っています。  もう少し詳しく、天正本『太平記』を見てみたいと思います。  まず、時行軍の勢力が「五万余騎」であるのに対して、義季軍は「五百余騎」という、あまりの兵力差に唖然です。  義季は「馳せ向かつて闘ふとも利あらじと思はれければ、善悪に付けて、これを最期と思ひ定めて」出立したとあります。そして、戦場では「腹切らんと思ひ定められたる事なれば、自ら敵に相当たることもなく、自害せんとし給ふ」という消極的すぎる態度です。  挙句の果てに、敵の矢を何本も鎧に受けたまま戦況の思わしくないことを報告しに来た部下に対して、「そぞろなる(いくさ)して力をつひやし、匹夫(ひつぷ)の矢先に懸からんより、自ら心安くせんと思ふなり」というダメ押し発言……。  この部下は義季から〝お前は新参者だから鎌倉に戦況を報告し終えたらそのまま姿を消しても構わない〟ということを言われるのですが、彼は義季のその発言に憤慨して〝自分が冥土の先がけとなります!〟と告げるが否や、自害して果てます。それを見て「感涙をながし」た義季もまた自害を遂げ、兵たちも残らず自害するのです。  ※そぞろなる軍…つまらぬ合戦。(「そぞろなり」の意味を厳密に訳出すると、義季にとっては戦う理由も勝てるあてもない合戦という意味か)。  ※匹夫…雑兵。身分のいやしい男。    時行たちの戦いぶりを「火出づる程闘ひける」(放火したわけでなく、闘志に燃えていたということだと思います。少年漫画だと、瞳や全身がゴゴゴゴッと燃えている表現なのだと推測します)と語るのに対して、義季のこの描かれ方は、現代であれば〝チキン〟と言われても仕方ないほどの情けなさを覚えるのですが、この部分は「天正本系諸本の独自記事」だということが、全集の頭注には記されています。  後年、渋川氏より提供された合戦資料基づく増補であったか。文中、義季に対して必ず敬語が使われていることもこれに符合するか。なお、義季の姉は足利直義室に、義季女幸子は足利義詮室になっているが、渋川氏をめぐる政治的環境が記事の増補に関係した可能性がある。  そうです、〝忖度(そんたく)〟は現代の流行語ではありません。古今東西、権威と権力のあるところ、力や金を持つ人々に対する配慮というのは必ず起きるのです。  そしてもうひとつ気づくのが、当時としては、明らかの兵力差のあるところに自死を覚悟して臨むのは恥ではないのだろうということです。また、前政権の生き残りとその残党を奉じて一国の当主とその一族らが挙兵し、それに従った「雲霞(うんか)」のような軍に対して、命がけで戦う方が恥なのかもしれないということです。  ※雲霞…雲と霞(かすみ)。また、多くの人が群がり集まるさまのたとえ。  そう考えた時に、最初に時行軍を迎え撃つ命を受けた渋川・岩松らは、まさか敗北するなど思ってはいなかったのではないのか…ということを、私は想像してしまいました。現在残っている記録類は、あくまで〝勝者〟の歴史に基づいて残っているものがほとんどです。だから、文字で残っているものだけが事実だと言われればそれまでですし、そうでないとしても、何も手掛かりが残されていない物事の真相はわからないとしか言いようがありません。しかしながら、物語に〝忖度〟が働くこともまた、ある意味では真相なのではないでしょうか。  私は、『逃げ上手の若君』で時行たちが久米川で初めて関東庇番衆を目にしたコマの、彼らの自信満々の姿が目に焼き付いています。松井先生は、あのコマだけででも(さらには、庇番衆が誰も自害せず時行たちに敗れている姿を描いたこともですが)、〝忖度〟のフィルターを外して、女影原の戦いでありえた可能性の数々を描いている気がしてなりません。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    さて、最後に、先に保留にしていた問題について考えてみたいと思います。『逃げ上時の若君』の第82話でありえた可能性のひとつ、弧次郎は義季に敗れるというものです。  義季の戦いには〝義〟がありました。その〝義〟を感じることで強さを自分の内から引き出していますが、第81話のエピソードを振り返る限り、本来の彼は優しい人柄です。直義もそれを理解しています。しかし、そこには直義が得意とする「計算」が介在してはいないでしょうか。  「居場所をくれた北条時行様が総大将の戦」「目の前には無双の敵将」「戦う動議が強すぎる!」という弧次郎も、「負けるな弧次郎!」と声を上げる時行も、戦いの場には本来あるまじき〝無邪気さ〟の塊です。武士の、あるいは大人の常識をくつがえした絆こそが、直義・義季主従との違いなのかもしれません。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕    
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