第108回 時行を迎え入れた諏訪一族と神党が問う家族の形…『逃げ上手の若君』の時代の烏帽子親・烏帽子子を調べて考えてみた

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第108回 時行を迎え入れた諏訪一族と神党が問う家族の形…『逃げ上手の若君』の時代の烏帽子親・烏帽子子を調べて考えてみた

 「せめてあと少し神力があれば 僅かでも生きる希望になれるのに」  涙を浮かべる雫ですが、彼女をしてもあとわずかの時間すらかなわないと諦めていたのがわかります。ーーもしかしたら、時行とけんか別れになってしまったことが、頼重の気力をも著しく奪ってしまったのかと私は考え、胸が締め付けられました。  出会いから二年、いつも時行をはぐらかしていた頼重でしたが、最期の時にはさすがにその本性や本心を隠すことなどできなくなっているのもまた、何度読んでも涙があふれます。  『逃げ上手の若君』第108話は、あれこれ調べたことを並べることすら野暮だとも思うところもあるのですが、おそらく作品が最初から内包する現代人が抱える大きなテーマのひとつ、鎌倉時代のことを描きながらも多くの読者の心がなぜか揺さぶられる〝家族〟(〝親子〟)の問題を語ってみたいと思いました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「こんな戦場でなんですが… 親子の契りを結んで下さい」  「さっきは御免なさい」という言葉が、緊迫した状況であるということを考慮したとしても、すんなりと最初に出てくる時行。これが本来の時行であり、常にあらず怒りを露わにしたのは、兄・邦時の敵である五大院宗繁と自分からすべてを奪った足利尊氏だけだったと記憶しています。。  彼らへの怒りは憎しみによるものです。ーー自分にとって何よりも大事な家族や鎌倉への強い思いがゆえの怒りだったと言えるでしょう。そう考えると、一方的に別れを告げた頼重に対する時行の怒りとは、頼重を大事に思うからこそのものだったのではないでしょうか。  また一方で、第106話で泰家がさらりと言ってのけているように、時行が頼重に初めて見せた怒りは、自分の要求を通したいのに突っぱねられたことを不服に思っての、単なる「親子喧嘩」でもあり、頼重に「甘えて」もいるわけです(それを思うと、かつて諏訪頼継が必要以上に時行を敵視したのもわかる気がします。北条の跡継ぎという立場の時行同様、諏訪氏と神党すべてにとっての「神」となった頼継に甘えは許されなくなるのに、時行は気づかずともお祖父上(じじうえ)の頼重に甘えているのが、頼継にはありありと見て取れたのかもしれません。…妬ましくもなりますね)。  作品の構想上の話になりますが、時行の長く美しい髪の「神聖」さが、至るところで強調されているというのをこれまで感じていました。でも、第108話で、時行はその自らの一番大事なものを頼重に手渡し、そして、頼重を「烏帽子親」とした、この瞬間のためだったのだ!と気づきました。  男子の成人式である元服では、公家は冠を、武士は烏帽子を頭に戴いた。『大漢和辞典』によれば、元服の元は首、服は冠を着けることを意味する。頭に冠や烏帽子を加える人のことを加冠(かかん)、元服する者を冠者(かじゃ)といい、烏帽子の場合は加冠の人を「烏帽子親」、冠者のことを「烏帽子子」と称した。ーー中略ーー烏帽子子は、親族につらなる縁者のなかに含まれた。鎌倉幕府『追加法』第七十二条では、訴訟のときに鎌倉奉行人が評定(ひょうじょう)の座から退座すべき親族の最後に、烏帽子子をあげている。〔『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』より「烏帽子」〕  ※奉行人…鎌倉・室町幕府において、行政・裁判等の実務を担当した事務官の総称。公事奉行。〔日本国語大辞典〕  ※評定…鎌倉幕府では、執権北条泰時の時代に、有力御家人と事務練達者とが幕政に参画すべきメンバーとして選任されて、評定衆と称された。以後、執権・連署と15名前後の評定衆とで行う評定が、幕府の最高決裁機関となった。御家人の所領に関する訴訟は、専門の裁判機関である引付での審理を経たのち評定にかけられる定めであり、これを評定沙汰と称した。〔世界大百科事典〕  現代でも身内の証言が刑事事件の裁判における証拠能力が低いと言われますが、身内はどうしても被告人をかばって助けたい思いが働くからです。「評定(ひょうじょう)の座から退座すべき親族」とは、公平・公正が期される評定、つまり裁判の場にいてもらっては困るそうした身内のことを指し、その中に「烏帽子子」が含まれていたということになります。  烏帽子子は「有力者を加冠・烏帽子親にして仮親とし、将来を託した」という利害関係ゆえの身内意識があったというのは確かでしょうが、当時の記録に、烏帽子親を評定衆でなおかつ証人にするのはおかしいであるとか、烏帽子子・烏帽子親を「縁者」と記載しているといった内容が残っているそうです。よって、「烏帽子親・烏帽子子は縁者に含まれ、親族に近い存在であった」〔『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』〕ということです。  『逃げ上手の若君』第46話(「髪1335」)では、「私は頼重殿を父のように思っているが 君が持っている血の絆には到底及ばない」と、自分を敵視する頼継を時行はこう諭しているのですが、実際には「血の絆」だけではない疑似的な家族の絆も無視できない時代だったのだと感じました。  大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が乳母の比企尼のことをとても頼りにして慕っていましたが、比企尼は史実としても頼朝を厚く庇護していたというのは有名です。古典『太平記』でも、諏訪盛高が時行を偽って連れ去った際に最後まで追って来たのは御妻(おさい)という乳母で、盛高の姿が見えなくなったところで絶望して井戸に身を投げています。また、『平家物語』では、木曽義仲と今井兼平、平知盛と伊賀家長といった乳兄弟がともに散った最期が印象的です。 第1回 古典『太平記』で描かれる時行の鎌倉脱出 https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=1  七百年以上前の人々の実際の生活がどのようなものであったのか、ましてやその心のあり様がどのようであったのかを〝正確に〟知ることは難しいことではありますが、『逃げ上手の若君』が描くように、雫や弧次郎や亜也子、後から加わった玄蕃や吹雪といった異なる親、様々な事情を持った子どもたちが集められたり、主従関係や利害関係を前提としながらも、多種多様に展開した「父子(親子)」があったりして、「血の絆」と変わらないような強い絆を育んでいた可能性を想像してみたいと私は思います。  時行は、「時継殿も息があるから救出してくれ!」とも、雫と亜也子に告げていますが、時継は頼重の子であり、雫の兄でもあるわけですよね。細かいことを言うと、第107話で私は〝時継は史実では辻堂で死んでないはずし…頼重と最期をともにするのではないのかな…〟などと、ちょっとだけですが、もやっとしていたのです。ーーこの一言で救われました。  現代の日本で疑似的な家族関係というのは、ある特定の組織・団体や古典的な技芸の世界でしか残っておらず、それらも旧時代的かつ時に暴力の存在する関係として否定され、姿を消していっています。しかしながら一方で、血を分けた家族内での虐待や暴力が深刻な問題ともなっています。『逃げ上手の若君』が描く時行と、彼を迎え入れた諏訪一族や神党の姿に、現代社会に対する鋭い問題提起がなされている気がしてならないのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  最後は本当に蛇足ですが、高師直は吹雪をいつまで手元に置いておけるのかなと思っています。吹雪の食費で高家が立ち行かなくなるか、師直が呆れて吹雪をポイするか……まあ、そんなギャグ展開はないと思いながらも、人様の何倍も食べる吹雪すら懐に抱えた『逃げ上手の若君』の諏訪頼重、一族の「神」というだけでなく「父」としての器も大きいぞ!と、師直に言ってやりたいものです。 〔ことばの中世史研究会『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』(東京堂出版)、『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『平家物語』(小学館)、を参照しています。〕
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