第11回 強そう「諏訪神党三大将」と時行の金銭感覚はまさに父・高時ゆずり?

1/1
前へ
/175ページ
次へ

第11回 強そう「諏訪神党三大将」と時行の金銭感覚はまさに父・高時ゆずり?

 週刊少年ジャンプ連載『逃げ上手の若君』(松井優征先生)新展開。  小笠原貞宗も負けてしばらく出番なしかな……と思いきや、晴れ晴れとした顔で手を振って登場。思わず〝貞宗、かわいい。〟と思ってしまった自分がいます。ここ数週間、誌面での掲載順が上位安定になっているのには、この貞宗も一役買っているような気がします。 ***********************************  さて、その貞宗ですが、満面の笑みを浮かべているわけがあります。後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を、頼重をはじめ諏訪の衆に見せびらかし、またしても示威行動に出たのです。  「綸旨」という用語には「命令書。逆らっちゃダメ。」という注がいつも付いていますが、作品内の説明にもあるとおり、「帝の綸旨に逆らえば「朝敵」となり周囲の勢力が大義名分を得て一斉に諏訪を攻めるだろう」という事態に陥るのです。もちろん、貞宗はそれを狙っているわけです。  しかしながら、鎌倉幕府滅亡後、帝が発した綸旨の数々とそこに記された所領のやり取りに関しての争いが、南北朝時代の動乱の原因の多くを占めていました。しかもこの綸旨、偽物もたくさん出回りましたし、後醍醐天皇の周囲でのさまざまな思惑による内部操作などもあり、頼重が時行に話した「綸旨の発行には酷く時間がかかっている」ので「紛失させれば相当な時間が稼げましょう」というのは事実です。しかし、それ以上に説得力を持つのが、続く頼重のセリフだと私は思います。  「貴方様も郎党たちも道理をわきまえた正しい人間です」「…ですが これからの世は正しいだけでは本当に正しい事をできませぬ」  私はここに、頼重と諏訪氏の本性を見る思いがします。 ***********************************  さてここで、新しい登場人物もたくさんお目見えしましたね。  「諏訪神党三大将」と称する海野幸康(うんのゆきやす)根津頼直(なづよりなお)望月重信(もちづきしげのぶ)の三人、「ビキビキ」って効果音がめちゃくちゃお似合いです。いかつい顔つきで、見るからに強そうです。ーーここで気づくのが、頼重や盛高とは雰囲気が違うな、ということです(諏訪一族の末裔の私やその家族・親戚とも違います)。「武闘派」の匂いがします。  信濃出身の中世武家に滋野氏がある。繁野氏とも書き、諸系図は清和天皇の後裔と伝えるが、繁野貞主の一族が信濃小県(ちいさがた)に土着したのに始まるらしい。のち海(宇)野氏、禰津氏、望月氏(滋野氏三家)以下の諸家に分かれて諸国に広がり繫栄した。〔世界大百科事典 第2版〕  戦国時代のヒーローの一人に真田幸村がいますが、その真田氏は滋野一族であるという情報もちらほら目にしました(ただし、確証はないそうです)。だとしたら、単なるパワー系ではないと思われますが、「武闘派」は間違ってなさそうです。  海野氏、根津(禰津あるいは祢津とも)氏、望月氏はいずれも、この私のシリーズの第4回で紹介した「諏訪神党三十三氏」に属しているようなのですが、三十三氏の中には、惣領と庶子ではなく、婚姻関係による一族も含まれているみたいです。  ※惣領と庶子…中世武家の家財産は分割相続によって男女を選ばず子に配分されたが、そのうちの主要部分を継承した男子を惣領と呼び、他の男子を庶子と呼ぶ。惣領は必ずしも長子から選ばれるのではなく、〈器量〉といってその能力により家を代表し、庶子や女子の相続所領についても関与した。具体的には家の所領に対して課されてくる関東公事をはじめとする幕府や荘園領主のさまざまな課役を庶子・女子に配分また徴収し、家の法である置文(おきぶみ)や処分状にそって庶子・女子の死後の所領のとりもどしや、ときには家の法に背いたとして所領をとりあげることもした。〔世界大百科事典 第2版〕  〝武家〟であるとはいえ、もともと〝神官〟である諏訪氏だけでは、守るべきものも守れない。よって、自ら「諏訪明神」と化し、その信仰のもとに結束する「諏訪神党」が形成されたのだということかもしれません。ーーやはり、武士っぽくないですね、諏訪氏(諏訪氏の本性、ここにも見えたり……)。 ***********************************  頼重としては、〝武力〟はギリギリまで封じておきたい。得意の〝頭脳〟で勝負をかけたいわけで……そこで、風間玄蕃(かざまげんば)が登場となります。  いきなり訳ありな少年ですが、頼重も盛高も素性を知っている感じですね。ーー風間氏も、諏訪神党三十三氏の一氏であるようです。  頼重の策を実行するためには、玄蕃の邪の技が必要。時行は事情を話すのですが、玄蕃は口止め料や報酬としてそれぞれ百貫文を要求します。しかしながら、「か…金⁉」といってグラグラ揺れる時行の口から出た言葉には玄蕃の方が唖然。  「本当にいいのか? 「国」じゃなくて」  時行くん、桁外れの強欲な大人もたくさん見てきたのかもしれませんが、……お父さんの高時の血を受け継いでるなあと、思ってもしまいました。  古典『太平記』では、足利尊氏が京都・六波羅で幕府方の敵となったことを知った北条高時が、その反乱を鎮めるために、弟の泰家に十万騎以上の軍勢を与えます。しかし、それだけの軍勢に対する兵糧が必要にもなりました。そこで高時は、鎌倉の近国の荘園から臨時の徴税を行います。特に、新田義貞の領内である世良田(せらだ)には金持ちが多いというので、こう厳しく命じたのです。  「六万貫を五日の(うち)に沙汰すべし」  この金額は六千貫が妥当ではないかという注も付されていますが、本郷和人先生の『解説上手の若君』によれば「1貫はおよそ5万円」とありますから、六千貫でも約3億円ということになります(六万貫なら30億⁉)。  新田義貞はこの時、後醍醐天皇の綸旨を手に入れ、仮病を使って千早城攻めをやめて本国(現在の群馬県太田市あたり)に戻って、討幕のための兵を集めていたところでした。  『太平記』本文では、高時が送った使者二人の態度がひどかったので、義貞が捕らえて処刑してしまい、事の次第を知った高時が激昂、新田討伐の兵を送ります。そこで、新田の一族は集まり、弟・脇屋義助の励ましもあって義貞は決心し、鎌倉攻めの兵を挙げるという流れになるのですが、高時がサクッと命じた〝五日で六万貫〟が、義貞の反逆の原因の一つとならなかったとは思えません……。  今回は吉と出た、「武家随一のお坊ちゃま」ならではの時行くんの金銭感覚ですが、高時の子なんだなと妙に納得してしまった次第です。  とはいえ、古典『太平記』において北条執権家は、その語り手によって高く評価されています。代々その身を慎み、法にのっとって優れた政治を行った優秀な一族であるというのです。だから、高時だけはよく描かれていませんが、永遠に続くものはないという道理も同時に説かれています。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』を参照しています。〕
/175ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加