第27‐(2)回 古典『太平記』に見る〝首だけ男が大暴れ〟と〝武士のメンツをつぶしたら…〟エピソード(下)

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第27‐(2)回 古典『太平記』に見る〝首だけ男が大暴れ〟と〝武士のメンツをつぶしたら…〟エピソード(下)

 無表情(笑顔?)で強烈なことを言い、時行に「只のやばい人」認定を受けた「最初の門番」さんがすっかり気に入ってしまったのですがーーモブの宿命、おそらく彼が憧れていたであろう「眉間尺(みけんじゃく)」について紹介した先週の私の記事も、まったく反応がありませんでした。でも、南北朝界隈(?)の知人は〝いや、門番さんはきっと何かやってくれる!〟と励ましてくれました。  松井先生は「最初の門番」さんのことが好きなはず……期待しています! 「第27‐(1)回 古典『太平記』に見る〝首だけ男が大暴れ〟と〝武士のメンツをつぶしたら…〟エピソード(上)」 https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=27 ***********************************  さて、「やばい人」つながりで思い出した古典『太平記』のエピソードがあることを、前回は予告して終わりました。誇り(プライド)を傷つけられたら天皇だって容赦しないーー今回紹介したいのは、新田義貞の一族であった堀口貞満(ほりぐちさだみつ)という人物です。  門番さんのセリフの前のコマで吹雪が時行に説明したこのセリフを再度確認したいと思います。  「国司から受けた屈辱の仕打ちがよほど誇りを傷つけたのでしょう ああなると誇りのために武士は喜んで死を選ぶ」  堀口貞満もそうでした。  ーー『逃げ上手の若君』で今描かれている時よりも後のこと、足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り、楠木正成もすでに湊川で敗れ、新田義貞は京都に敗走、天皇は比叡山に移られた時のことでした。  足利尊氏は後醍醐天皇に和睦を持ちかけます(『太平記』のこの場面での尊氏は、起請文まで用意して天皇を京都におびきよせた、露骨に嫌な奴として描かれています)。  ※起請文(きしょうもん)…平安末期から中世にかけて、うそいつわりのないことを、神仏の名にかけて誓う形式の文書。  天皇の京都への還幸は密かに取り行われます。尊氏と戦っている新田義貞にも知らされずに事は動いていたため、心配して天皇方からわざわざそれを知らせてくれた人もありましたが、義貞は〝そんなはずはない〟と捨て置きます。  しかし、堀口貞満には思い当たる点がありました。新田の一族の中でおかしな動きをしていた人たちがあったので、〝もしかして〟と思ったのです。  ※還幸(かんこう)…天皇が行幸(=天皇が外出すること)先から帰ること。  貞満は、義貞の許可を得て天皇のもとへ急ぎ向かいます。  果たして、貞満の嫌な予感は当たりました。後醍醐天皇は新田義貞には何も告げずに比叡山から京都に移ろうとしているところでした。  貞満は今出ようとしている帝のお乗りになっている輿(こし)(ながえ)に取り付き、涙を流して訴えます。  ※轅…牛車などの前方に長く突き出た二本の棒。  ーー主君の義貞がどんな不義をはたらいたというのでしょうか。これまで新田の一族は百三十人、家臣は八千人、帝への忠義を果たして死にました。もし、帝が新田を見捨てて尊氏のもとへ行くというのであれば、義貞と一族五十人の首をすべて刎ねてからになさってください!  正直、帝の乗り物を力づくで止めたというのが不敬すぎてありえないというので、この部分を削除している『太平記』の本もあるそうです。でも、ありえないシチュエーションが書き残されていることの方が、想像を超えた事実であった証ではないかと私は考えます。  このあと新田義貞と嫡男の義顕、義貞の弟の脇屋義助が後醍醐天皇のもとにやって来ます。  後醍醐天皇はさぞ怖い思いをしたことと思います。  堀口貞満の〝不敬〟承知の行動は、自分の命など考えずに出たほぼ反射的なものだったと思いますし、そんな彼の主君である義貞だって、これまでは自分に尽くしたとはいえ、プライド(誇り)を刺激してしまった以上、貞満同様にその行動は読めなかったと思います。そうなると武士の行動は理屈ではないのですから……。  『逃げ上手の若君』に戻ると、四宮左衛門太郎は保科弥三郎のことを「昔からあいつは頭に血が上ると止まらないんだ 郎党達もな」と評していますが、主君と郎党達は似るし、東国の武士は特にそうだったのかなと思う時があります(新田義貞は、現代風なキャラクターで描かれると必ずヤ〇キーな雰囲気です(笑)。ちなみに、古典『太平記』ではこのあと、これでもかっ!と新田一族の活躍と悲劇を語り、おかげで私もまんまと新田びいきなのですが、ここでは記しません)。  しかし、時行はそうではありません。命を軽視する弥三郎に「私は貴方の死に様になんの興味もありません」と、本心を言ってしまいます。頼重も、武士でありながら、その実際のステータスは神官です。  南北朝時代には、「婆娑羅(ばさら)」という、神仏や伝統・権威を否定するあり方が流行したことに、このシリーズの第25回で少し触れました。  確かに、鎌倉幕府の復活に固執したというのであれば、古臭い価値観で生きた人間という見方もできる一方で、武士の「誇り」にはこだわらなかった、利害関係が人々の行動基準であったという時代の価値観にあえて逆らった……そういう意味では、時行も頼重も時代をたくましく生きた「婆娑羅」者であったと言えるかもしれません。 〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕
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