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第47回 北条泰家、初登場! 奇抜なオッちゃんキャラならではのサバイバーぶりを古典『太平記』に見る
『逃げ上手の若君』第47話ーーとうとう、時行の叔父である北条泰家が登場しました!
「さるお方と打ち合わせて… 北条一族らしき者が潜伏している噂を諏訪を含め全国各地に流しています」
「さるお方」とは、古典『太平記』では諏訪盛高に時行を託した、時行の叔父にあたる北条泰家でしょうか。この方のしぶとさ、私は大好きです(このシリーズの初回で簡単に触れています)。
上記は本シリーズ第10回からの引用で、第10話での諏訪頼重のセリフを受けての、私の感想です。そして、補足の部分の「この方のしぶとさ、私は大好きです」として、実際のところ、『逃げ上手の若君』の連載が始まったしょっぱなから、私は本シリーズで泰家のことに触れていました。
北条泰家はというと、偽装自害ののち、負傷して自国に帰る新田方の武将のようなふりをして鎌倉を脱出、名前を変えてまでしぶとく生き抜き、果ては後醍醐天皇暗殺計画まで企てます(機会があればこのお話もできればと思います)。
第1回「古典『太平記』で描かれる時行の鎌倉脱出」
https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=1
第10回「時をかける時行のパルティアンショットと古典『太平記』に見る噂の流し方」
https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=10
第47話で、泰家は頼重にこう言います。
「この二年 東北を巡り北条残党を集めて戦ってきたが… どこも敗けて逃げて来た」
今回は、このあたりのところと、第1回ではあまり詳しく紹介しなかった、古典『太平記』に描かれる泰家の鎌倉脱出についてお話してみたいと思います。
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鈴木由美氏の『中先代の乱』には、以下のようにあります。
建武政権期(鎌倉幕府が滅亡した元弘三年〔正慶二、一三三三〕五月二十二日から、後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた延元元年〔建武三、一三三六〕十二月までとした)には、各地で反乱が多発していた。
これらの反乱には、滅びた鎌倉幕府の執権北条氏と、得宗被官を含めた北条氏の被官・被官の一族が起こしたものが多くあった。
先に第33話で、本間氏と渋谷氏が鎌倉を攻めて、関東庇番に撃退されていましたが、それが建武元年〔一三三四〕三月です。新政に対する一連の反乱の最初とされるのは、それ以前の元弘三〔一三三三〕十二月とされており、陸奥や出羽で起きています。陸奥は北条氏の旧領であったということです。
さらに、反乱は「北は津軽から南は日向まで全国各地で起こって」いて、「一部では連動していた可能性もある」と鈴木氏は指摘しています。
作品には描かれないところで、額に「やるぞ」とテカらせて、いまだ北条への忠義厚き者たちや新政に不満を持つ者たちを求めて、パワフルに歩き回っていたのかもしれませんね。
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さて、その泰家が、時行を信濃に逃がす手筈も整えて、今度は自分が鎌倉を出るとなった場面を、古典『太平記』で見てみたいと思います。
※古典『太平記』では、諏訪盛高(『逃げ上手の若君』では、「解説上手の盛高殿」と時行たちに呼ばれている人物です)が、自害を促しに泰家のもとにやって来るのですが、時行を託されて鎌倉を脱出しています。そのあたりのことについても、本シリーズの第1回をご覧ください。
第1回「古典『太平記』で描かれる時行の鎌倉脱出」
https://estar.jp/novels/25773681/viewer?page=1
「我は思ふ様あつて、奥州の方へ落ちて、再び天下を覆す計を廻らすべし。」
戦いの果てに残った中でも、「二心なき侍ども」二十人ほどにそう告げて、泰家はまず、奥州出身の南部と伊達の二人を道案内として指名します。
以下は、第47話でも描かれていた泰家の鎌倉脱出法になります
伊達・南部二人は㒵をやつし、夫になり、中間二人に物具きせて馬に乗せ中黒の笠符を付けさせ、入道をあをだに乗せて血付きたる帷を上に引き覆ひ、御方の手負いの、本国に帰る真似をして、武蔵までぞ落ちたりける。
※夫…戦にかり集められた人足。雑兵。
※中間…従者。下僕。
※具足…甲冑。
※中黒の笠符…新田氏の家紋。鎌倉を攻め滅ぼした大将は新田義貞であった。
※入道…北条泰家のこと。
※あをだ…(アミイタ(編板)の転)長方形の板を台にし、竹で編んだ縁をつけ、竹でつるした輿(こし)。罪人・戦死者・負傷者などを運ぶのに用いた。あみいた。あんだ。あうた。
※帷…裏地をつけない衣服。
この記述だけでも、間違いなく逃げ出せるようにという、泰家の用意周到な様子が伺えます。さらには、この後に注目です。
「二心なき」というのは、絶対に裏切らないという意味で、この二十人ぐらいの精鋭たちは泰家に命じられていたことがありました。
彼らは泰家たちを見送ったのち、中門の外へ出て行ってそこにいた兵たち三百人に呼び掛けます。
「殿は早御自害あるぞ。志の人は皆御伴申せ」
彼らは館に火をかけ、その中に飛び込んで一斉に腹を切ったので、三百人の兵たちは皆それに続きました。ーー猛火は、屍も残さず何もかも焼いてしまったので、誰もが泰家もそこで自害したと疑いもしなかったのでした。
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古典『太平記』では、かなりかっこよく描かれていますが、作品の語り手は、泰家(盛高もなのですが…)の鎌倉脱出を肯定的にとらえている気がしています。なぜなら、この顛末を語った直後に、鎌倉幕府滅亡時には知る由もない、数年後の彼らの〝反乱〟について先取りして語りを差しはさむからです。ーー語り手は、泰家が「遁るべくんば、再び会稽の恥をすすがばや〔=うまく逃げおおせるならば、この負け戦の恥辱を晴らしたい〕」とした意志を持ち続け、信念を持って一途に行動し続けた意味を、読み手に問うているような気がしてなりません。
「時行の叔父 北条泰家 もうじき嵐を呼ぶ男である」という作品中の解説のとおり、……やってくれます(ヒントは、この記事の中にもしれっと書かれています)。
「叔父上は昔っから生き汚いんだ」
「武士の仮面で飾らない正直な人柄が… 私は大好きだったよ」
嬉しそうに語る時行。
「生き汚い」のと「逃げ上手」とは、根っこの部分が同じであると私は考えます。ーーそこには、生きたいがゆえの智恵や努力があり、「生」を肯定するがゆえの人間の意志や可能性への信頼と挑戦があり、「正直」さがあります(当時の人々は、「正直」は神仏に通じるものとして、高い価値を置いていました)。
時行が年をとったら泰家みたいなオッちゃんになるのは、あまり想像したくはないのですが(笑)。
〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕
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