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第5回 どこまで本当? 諏訪頼重と諏訪大社(下)
松井優征先生『逃げ上手の若君』(週刊少年ジャンプ)で、諏訪の地で狩りに出た時行とその郎党の3人の子供たち。
頼重の娘である雫がこう話しています。
「時行様 諏訪明神は狩りの神様でもあるんです」「よそと違ってガンガン食べるし ガンガン狩るの」
時行は、頼重がケン〇ッキーのバーレル(バケツ)のようなものに(ご丁寧に、「諏訪梶の葉」という諏訪大社の神紋入り!)に肉を大量に入れて持っているのを想像してこう思います。
「…変わった神だ 生き神だったり 狩りを好んだり」
場面変わって確かに、頼重はいろいろな獣の肉とおぼしきものを、雫の言う通り「ガンガン」食べていますが……。
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『神道事典』の「諏訪信仰」の項目を確認すると、
諏訪神社に対する信仰。長野県の諏訪湖をはさんで鎮座する諏訪大社を中心として全国に広まった信仰のこと。風水神、軍神、鍛冶神(かじしん)などの信仰をもつ。
とあり、「狩りの神様」だとは、オフィシャルには発表していません。
しかしながら、諏訪大社には「御射山祭(みさやままつり)」という神事があります。『日本年中行事辞典』には次のように記されています。
長野県諏訪神社の神事。もとは陰暦七月二十六日から三十日に行われたが、現在は月遅れで執行する(八月二十七日)。上下両社の御射山はそれぞれ別の山で、上社のそれは八ヶ岳西麓、中央線富士見駅から四キロのほどの所にある。もと、このあたり一帯は諏訪明神の神野(こうや)と呼ばれた。下社の御射山は古くは霧ヶ峰続きの山上凹地にあり、その後神社に近い裏山四キロほどの所に移され、現在はそこを御射山としている。
この地は、かつての狩猟地だったということです。
解説の最後の方には、「現在の御射山祭は、物さびた祭にすぎないが、かつては諏訪信仰の重要な部分を占める祭事であった」とあり、現在ではオフィシャルではない「狩りの神様」であるという雫の発言は、間違っていないと推測されます。
また、諏訪大社には「御頭祭(おんとうさい)」という上社第一の祭儀が存在し、そこでは特殊な神饌が供えられて大祭が行われるということです。
江戸後期の博物学者である菅江真澄(すがえますみ)の『すわの海』という紀行文には、天明三(1783)年の祭儀のスケッチが残っており、「特殊な神饌」が何かがわかります。ーーそれらは、鹿の首、兎や蛙の串刺し、脳和えです。
これらは「贄(にえ)」つまり「生贄(いけにえ)」です。動物を神への捧げものとしているのです。
実は、生き物を殺生することを厳しく戒めた仏教の興隆とともに、神職は朝夕に供物である胙(ひもろぎ)=肉食をするために「蛇道の業をつくる」といった社会通念が存在し、その立場は厳しかったといいます。ましてや、狩りとその獲物を贄とする祭儀を持つ諏訪氏は、自身でも葛藤を抱えたことでしょう(現代の諏訪大社でも、この「贄」という語を用いることに、どことなくタブー感があるようです)。
※胙…神に供える米・餅・肉など。
しかし、幕府が全国に鷹狩禁止令を発布しながらも、「諏訪社御贄狩」に限っては例外を認め、諏訪の名のもとに全国でも狩りが認められました(諏訪社を勧請すれば狩りが許可されました)。
※狩りは騎射の軍事訓練ともなります。
さらに諏訪氏は、諏訪の大祝(おおほうり)が現人神であるという教義体系を作ります。実は、それを手助けしたのが北条氏で、諏訪の大祝の聖性と特権性を認めたのです。
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獣が神への生贄ならば、現人神である頼重がそれをたいらげてもまあ、問題はないわけですが……。実際のところ、普段からあんなに食べていたのかはわかりません。しかしながら、先に作品中の説明にもあった「諏訪氏は武将と神官と「神」の役割を兼ね備えた…極めて特異な大名」ということの中には、このように他の武家とも、あるいは神官としても、規格外の存在であった諏訪氏という事実が含まれているのです。
北条氏と諏訪氏のつながりの謎も、こうした諏訪氏の独特なポジションから、作品中で紐解かれていくのかもしれません。
それにしても、諏訪大社と諏訪氏には、謎が多いのです。私のこのシリーズも、だんだんと「物語」要素が強まっていくと思います。
〔國學院大學日本文化研究所編『神道事典』(弘文館)、鈴木裳三『日本年中行事辞典』(角川書店)、戸矢学『諏訪の神』(河出書房新社)、および井原今朝男氏の研究論文を参照しています。〕
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