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祖母の葬儀が済んだころ、真夏の日差しの中を訪ねてくる者があった。
田舎なので情報は遅れており、万年青は広島に新型爆弾が落ちたことなどまだなにも知らなかった。
「まあ、あなたは!」
葬儀を終えて寝込む万年青の代わりに出迎えた花緒は驚いて息をのむ。
「源さん」
「……まさかとは思ったが、花緒の家だったのか」
源は驚いていたが、花緒が無事なことを喜んだ。
そして祖母が亡くなったことを聞かされて、せめて仏壇に線香をと手を合わせた。
「済まないが、どうしても万年青さまと二人で話がしたい。突然訪ねて申し訳ないが、お会いできるだろうか」
「万年青ちゃんに話してくるわ。待っていて」
花緒がそういって家の奥に消えると、源は仏壇をみてふと俺の写真が飾られていないことに気が付いた。写真どころか、位牌すらなかった。
「源さん、万年青ちゃんが部屋にきてくださいって。ちょっと具合が悪いの」
「ああ、ありがとう」
花緒に通されて源が部屋に入ると、万年青は布団の上に座椅子を引いて体を起こしていた。
源を不思議そうに見上げると、丁寧に頭を下げる。
「先日は花緒を助けていただいてありがとうございました。花緒の叔父の万年青と申します。近江さま…ですね?花緒からお名前をうかがいました」
万年青のその他人行儀な様子に、源は少しだけ傷ついたような表情をした。
傍に座った源を見つめて、万年青は不思議そうに瞬きをする。
「なにか、俺の顔についていますか」
「いえ……、変なことを申しますが、亡くなった父に似ていらっしゃるので。失礼でしたね」
「父上に?」
源はその言葉に驚いた。
そしてふっと笑って万年青に説明する。
「それは、うれしいことです。あなたはご存じないかもしれませんが、俺の父はあなたの父と同じ方なのですよ」
「…え?」
突然のことに万年青は源を黙って見つめたまま、源が不安になるほど何も言葉を発しなかった。
「兄上、とお呼びしても?」
「…………ええ」
「花緒からもらった風呂敷を空襲が過ぎてからよく見てみると、兄上がご結婚された先の家紋だったのでまさかとおもいました。平次さんが、引き合わせてくれたのだと思えて、急にお尋ねしてしまいました」
「平次をどうしてお前が知っているの?」
弟がいる、とそういえば聞いたことがあったような気がして、万年青は驚くばかりだった。俺の名前が出て背中が泡立つ。
「平次さんとは同じ部隊にいました。俺も弾を腹に受けて、治療のために本土へ戻ってきたのです」
「平次は…!」
万年青の濡れるような瞳が源を射抜いた。
あぐりにあったことのある源は、兄弟のその瞳が怖いほどに似ていると感じた。
「平次がどうなったか、お前は知っているの」
万年青の声は震えていた。
「戦死の知らせが届きました。でも、遺骨だと言って渡されたものの中にはただの丸い石が入っていただけでした。平次は、平次は本当はどうなったのですか」
「…俺たちの部隊は塹壕戦をしていました。平次さんのいた場所は特に戦闘が激しく、撤退する俺たちは誰が死んだのかも把握できないまま戦線を離脱しなければなりませんでした。最後にその姿をみたときには、銃弾でこと切れた仲間たちが折り重なるようにして亡くなっていました。息のある者もいたかもしれませんが……助けることもできませんでした」
兄弟だからだろうか。
源は万年青が気休めを知りたいのではないと、すぐに分かった。
生死について、自分の知っている限りの事実を話す。
「平次の死は誰も確認したわけではないのですね?」
「そうなります。ですが…」
源は言葉を飲み込んだ。
万年青が泣いていたからだ。
両手で口を押えて、嗚咽をこらえながら万年青は泣いていた。
「わかってる…わかってるんです……。平次……」
「…平次さんはいつもあなたの話をしていました」
「ぼくの?」
「はい。あなたともう一度、半夏生を見に行くと」
万年青はまた涙を止められなかった。
もう一度半夏生を。
どれだけそう願っていたか。
源から聞かされたその言葉が、万年青をひどく慰めた。
その約束だけが、万年青のもとに帰ってきたのだった。
「もう行くの」
「はい、突然お邪魔しました。ここはとても立派な酒蔵ですね。今度は客として」
源のその言葉に万年青は顔を曇らせた。
「兄上?」
「いや、いいんです。もう、この蔵は酒を造れないのです。酒蔵は統廃合の対象となって、大倉は営業停止処分をうけたのですよ。せっかく巡り合えたのに、ごめんね」
「営業停止……」
「明日届け出を税務署に出して、それで終わり。何もかもね……」
寂しそうにそういう万年青は、もう憤ることにも疲れていた。
翌日税務署に万年青が向かうと、所長が直立して客人に対応していた。
不思議に思っていると、見知った顔が立派な軍服でソファに座っていて万年青はあっとする。
「源…」
「どうかな、所長。大倉平次殿はお国のために立派に戦った英霊。私は何度も彼に命を救っていただいた。そのご実家が廃業されるなどと知れば、命をとして戦った英霊の魂に泥をぬるようなことだとは思わんか」
「はッ!そ、それは、もう!その通りでございます!」
よく見れば源のほかにも、いかめしく軍服を着こんだ部下のような者たちが後ろに控えていた。
「はなしが分かる方でよかったよ署長。万年青さまは私の兄上でもある。そして大倉は私の戦友の実家だ。けしておろそかにされるようなことがあってはならない」
「はい……ッ」
「では、失礼する。大倉酒造はこれからも酒造りをする。よいな」
「はい!」
足早に出ていった源を万年青は追いかける。
部下たちの運転する車に乗り込もうとしていた源に何とか追いついた万年青は、息を切らせながら礼をいう。
「源…!ありがとう!なにもしてやれなかったのに、ごめんね…」
「いいんです、兄上。それにこれは俺のためです。せめて最後に悪あがきでもしたくなりました」
自らを自嘲する源の言葉の真意を万年青は理解できなかった。
「それと、あぐり姫さまはお元気ですよ。昨日連絡がありました」
「あぐり姉さまが?どうして?」
「ご存じないのですか?広島に新型爆弾が落ちたのですよ」
万年青はその言葉に呆然とする。
田舎に暮らす万年青には、新型爆弾が広島に堕ちたということが一体何を指しているのかがわからなかった。
「あぐりさまたちは焼け出されたものの、お嬢さまと一緒に岡山に避難されたとか。義兄のご親類を頼られているそうですよ」
「どうしてぼくには連絡してくださらないのでしょう」
「……あぐりさまからは口留めされていたのですが」
源は万年青の細い体を、あぐりを、近江の家を思い出しながら見下ろした。
「奥様が、新型爆弾でお亡くなりになったそうです。姉上はそれを兄上に知らせるのは、もっとあとの方がよいとおっしゃって…」
奥様、とは自分の母のことだと万年青はすぐに分かった。
目の前の源の母に、死まで迫った自分の母。
彼女に人生を、生きる意味を、病の体を否定されて生きてきた。
長い長いトンネルの中を歩くように、彼女の価値観の中を万年青は生きてきた。
けれど平一郎が、篠山が、俺が、義姉さんが、秋と夏が、祖母が思い出された。
そして花緒と平太が。
自分を慈しんでくれた人々と、自分が慈しんできた人々。
万年青ははっきりと、母を一人の人間として、自分とは違う価値観の一人の女性だったのだと、初めて心に母の居場所を造ることができた。彼女の中に自分の場所がなかっただけ。愛してはくれなかっただけ。
ただそれだけのことだったのだ。
彼女もまた、人生を生きたのだ。
爆弾で亡くなった祖母を思い出す。
痛かっただろう。
万年青は悲しいと思える自分に、少しだけ安堵していた。
「……彼女はお前に、とてもひどいことをしましたね」
「…奥様はおなくなりになったのですから、すべて終わったことです。俺も、近江の人間として手を合わせるつもりです」
「うん。ぼくもそうするよ。源、ありがとう、教えてくれて」
万年青の表情を源はまぶしいと感じた。
つきものが落ちたように凪いでいるその姿に、源は俺のことを思い出していた。
「お元気で」
「うん、源も。また戦場へ行くの?」
源はおかしそうに笑った。
万年青の質問には答えずに、源は車に乗り込み村を去っていった。
源が去った翌日、村中に玉音放送が流れた。
戦争は終わったのだった。
「ちょっと小さくない?」
「いいよう、これで。半夏生って増えるんだぜどんどん」
「そうなんだ」
「万年青ちゃんは酒造りしかしらないんだからよう」
終戦から2年。
村は相変わらず貧しく、酒蔵を取り巻く状況もそう良くはなかった。
時たま無理をして体調を崩す万年青のために、平太が縁側に半夏生を植えた。
平太から酒造りしか知らない、と評されることがおかしくて万年青はくすくすと笑う。
「なんだよう」
「いいえ。平太さんありがとう」
お茶でも飲みなさいな、と平太に声を掛ける。
平太はせっせと水をためる場所を造るために穴を掘っていた。
傍にいってしゃがむと、大きくなった平太のたくましい腕がもう自分の腕の太さを越していることに気が付く。
「大きくなりましたね…」
「まだそれは早いよう。まだまだ大きくなるんだぜ」
「そうですか。楽しみですね」
「半夏生は平ちゃんが好きだったんだよな」
平太の何気ない言葉に万年青はうなずく。
ちょうど今頃の季節だ。
そう思うと、あの大吟醸の香りや、半夏生畑の土のにおいがよみがえる。
一面の山肌の緑と、白い半夏生の生い茂る開いた場所を、風が撫でてゆく。
思い出したと同時に、半夏生の優しいまばゆい日差しの中を、平太と万年青の体を包むように風が吹き抜けていく。
ああ、と万年青は思った。
長い時間をかけて、ようやく納得できたことだった。
平次は死んだのだ。
もう戻っては来ないのだ。
大倉酒造にはちらほらと蔵人たちが戻ってきていた。皆右手を自分で吹き飛ばして兵役を逃れた稔に驚き、あきれ、怒るが最後には一緒に酒造りができることを喜んだ。
「旦那さま、ちょっとよろしいですか、桶のたがですが…」
蔵人たちはもはや万年青を旦那さまと呼ぶことに違和感を感じていなかった。
「桶の修理ができる人がまだ村にいないので、申し訳ないですがあの桶は今年は使えないのですよ。ああそうそう、琺瑯タンクが届くんですよ、懐かしいでしょう」
大倉の紋の入った羽織が万年青になじむ。
花緒は蔵を手伝いながら、税務署でアルバイトをしていた。
平太はまだまだ学生だったが、これから成長してどちらかが立派に大倉の跡を継ぐまでは、と万年青を踏ん張らせていた。
そして何より。
春の風が吹き抜けるような香りの、あの大吟醸を。
その思いが万年青を突き動かしていた。
「万年青、雛子はどこに行ったのじゃ」
「姉さま…」
「あらあぐりさん、雛ちゃんは遊んでくるって言ってさっき出ていったわよ」
「そうじゃったのか。毎日よく遊ぶことじゃな」
洗濯物を抱えた花緒が声を掛ける。
あぐりは結局、岡山の親類とは馬が合わずに大倉へ飛び込んできていた。
軍がなくなった今、夫が身を立て直すのにはまだ時間がかるらしい。
やったこともない家事をあぐりなりに手伝っていた。
「花緒や。貸してみるのじゃ、私が手伝ってやろう」
あまりにも尊大な言い方に花緒はくすくすと笑いが抑えられなかった。
「ええ、一緒にしましょう」
田植え、収穫、秋洗い
麹、酒母、醪、
上槽、火入れ、皆造
村には蔵が息づいている。
皆の生活そのものが、俺たちの生きた証だった。
田植えのすっかりすんだ田んぼに囲まれた道を、あぐりの娘の雛子が歩いていた。そのへんで拾った木の棒でがりがりと地面に線を引きながら、村の入り口の不帰橋まで来ていた。
「なんでえ、お前さん。万年青が小さくなったのか」
突然見知らぬ男に声を掛けられた雛子はふてぶてしく腕を組んで、半夏生の日差しで逆光になってよく見えない男の顔を見上げた。
「無礼者め。あたしは雛子、人違いじゃ」
雛子がそう言うと、ひどくおかしかった。
たったそれだけで誰の子供かようくわかったからだ。
「ああ、悪い悪い。お雛さまなんだな、お前さんは。あぐりの子だな」
「母上を知っているのか」
「ああ。なんだってこの村にいるんだ」
「母上に聞くがいい。雛が知るものか」
「そうかい、そうかい」
雛子は口は悪いが世話焼きなところがあぐりそっくりで、頼んでもないのに案内を始めた。
「こっちじゃ。ついてくるのじゃ。万年青、と言っていたから万年青とも知り合いなのじゃろう。案内してやる」
「おうおう、ご丁寧だな。ありがとよ」
懐かしい蔵が見える。
門には大倉の家紋を染め抜いた暖簾がかかっている。
万年青は袖を引く雛子に少しばかり困った。
「雛子さん、万年青はちょっと忙しいんですが。ほら、母上ならあちらにいらっしゃいますよ」
「母上は花緒を困らせているのではないか?手伝っているように全然見えぬ」
あぐりの手際の悪さを雛子が酷評する。
辛辣な口ぶりに万年青は血を感じた。
「お前の客だぞ」
「ぼくの?」
「連れてきたが、門のところでぴったり立ち止まりよった」
「はあ」
来い、といきなり言われてもすぐに行けるものではない。万年青は帳面を片付けて、いまいきますからと雛子を納得させた。
ぱたぱたと雛子が外の日差しの中に飛び出していく。
客人を迎えに行っているように見えた。
帳場の中は薄暗いので、たとえ半夏生の季節だとしても十分にまぶしい。
表へ出ると、すこしだけ下がった坂の下に復員兵が一人立っていた。
雛子に腕を引かれて上ってくる。
万年青は息が止まりそうだった。
光になれない目が、幻でも見せているのではないかと思えた。
帽子を目深にかぶったその男は、ぼうっと蔵を見上げながら登ってくる。
坂の上に立つ万年青の存在にふと気が付き、立ち止まって帽子のつばに手を掛けた。
半夏生のさわやかで明るいひざしに照らされた互いを見つめながら、そういえば今は、半夏生の季節だと、俺はふと思いだした。
「なんでえ、万年青。そんな顔して」
ひざしの中を互いに見つめ合っていた。
完
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