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「平次、平一郎!何を考えておるのじゃお前たちは!!!」 結局、大倉の酒が豊治のせいで腐ったなどという醜聞を隠すために、兄が豊治たちにしたことは徹底して家人以外には伏せられたし、腐造も万年青のせいではないという話に納得してくれた人も多かったが、やはりこれも大っぴらに言えることではないので、なんとなく万年青と俺のせいみたいな形に納まってしまった。 自責の念でぎゃんぎゃん泣きわめいた泰輔のおかげで、蔵人連中の誤解も解けたが、噂話を聞きかじった村人からは、お前はまた馬鹿をやったのか、と笑われる羽目になった。 杜氏とはわだかまりを残したまま、また秋に会おうと別れることになった。 今年はほかのどの年とも違う。 たぶん、これが最後になる。 そんな思いが俺の胸にも、兄の胸にも湧き上がっていたにも違いなかった。 電気を引くために田畑を売った。 金剛ロールと呼ばれる縦型精米機を買うために、万年青の実家から紹介してもらった銀行から金を借りた。 蔵のすべての樽を琺瑯に変えた。 息つく暇もなく村と蔵の様子を変えていく俺たち兄弟に、祖母からの雷はことあるごとに落ちてきた。 「この大倉が田畑を増やしたことはありこそすれ、減らすなどいままでありはしなかったぞ!電気が必要かは知らんが、なぜそこまでしてする必要がある!蔵もなんじゃ、あの機械は!」 「うっせーな、いるんだよあれが、ばあさん。今までよそに頼んでいた精米を、あれでするんだよ。6割以上米を削ることができる、夢の機械だぜ」 6割以上の米を削る。 それは吟醸酒を造るにあたって、夢のような数字だった。 昨年のあの酒を仕込んで思い知ったのだ。 水車で米を削っていては、いつまでもたどり着けない。 時代という大きな川の中に飲み込まれてしまう。 「小作たちが汗水たらして作った米を、何だと思っておるのじゃ!そんな罰当たりなこと、松尾さまがお許しになるはずがない!」 「神様の許しなんていりませんよ。大倉のことは俺が決めるんです、ばあさん。じゃあ俺は銀行と電力会社と話があるんで、いきますよ」 「ま、待て、平一郎!まだ話は終わっとらん!」 祖母の静止など兄には関係のないことだった。 同じく村人も、家人も、急速に変化していく村の様子に困惑を隠せない。 「電気ってなあ、危ないんだろう?」 「そうだ、そうだ。なんだってうちがそんな危ないもんに金はらわにゃならん」 「大倉は俺ら小作人を下に見て、勝手なことをしよる」 夏場に草取りを手伝いに行くと、草取り歌に交じってそんな声がわざわざ俺の耳に入る。 「まあ、まあ。そう悪いもんでもねえからよ。それに今兄さん気が立ってるから、電気引いてくるのに邪魔建てでもしてみろ、どうなるか俺だってわかんねえよ」 そう言ってなだめるしかなかった。 ちょうどよく豊治のことがあったものだから、皆顔を見合わせて青ざめ、そのあとは黙っていた。 「こう?」 「ちがうよ万年青ちゃん、こうだよ」 「花緒さんはなんでも知ってますねえ」 じりじりと夏の暑い日差しに照らされながら、縁側のそばの小さな場所に今年は万年青が畑を作った。土の耕し方も、肥料の混ぜ方も何も知らないが、隣で花緒がうれしそうに教える。 花緒も誰も、万年青の病気が移ったりなどしていなかった。 「万年青、花緒、その辺にしとけよ。花緒、万年青はもう休む時間なのを忘れちゃいねえか」 「あ、そうだった!万年青ちゃん、ごめんごめん」 鍬やらを片付けると、手足を洗って花緒は急いで万年青を屋敷の中へ戻らせる。 「平次、まだもうちょっと」 「昼からはしっかり休む約束だろう」 「はいはい」 まだ、と少し駄々をこねる万年青だったが、不安がる俺をみて布団に横になる。 隣で花緒が裁縫道具を持ってきて、万年青の習おうとする。 「こら、花緒」 「あとちょっとだけよ、平ちゃん。お母さまは教えてくれないんだから」 「ここを終わったら休みますよ、平次。気にせず出かけてください」 義姉さんは裁縫が苦手なので、あまり花緒に教えたがらない。もっぱら花緒は万年青から針仕事を習っていた。万年青は万年青で、針仕事の依頼は順調で、細かい刺繍を頼まれることも増えた。欲しそうにしていたので刺繍用の道具を一そろい用意してやると、顔を真っ赤にして喜んでいた。 すべて良い方向へ進んでいるようだった。 今年も田植えは無事に済んだし。 電気を引く算段もついた。 琺瑯のタンクも用意できたし、新しい精米機も買った。 雲が流れていく。 少しも止まることなく、時間が短くなっていく。 凪いで穏やかなはずの日々。 一日一日が過ぎていくのを、いっそ呪ってしまいたい。 そんな思いは誰にも、どこにも向かわせられず、半夏生はただそこに清らかな姿でたたずんでいるだけだった。 毎年二人だけで見にこよう。 その約束を今年も果たす。 半夏生に目を細める万年青を見つめながら、怖いくらいに順調な日々を想う。 今年も半夏生の光を放つかのような白さが、万年青の肌の色となじむ。 湿った風が木々を揺らして、木綿の着物を撫でていく。 「平次?」 「ああ、どうした」 「……兄上さまのことですね?」 濡れるような万年青の瞳が、俺の一番柔らかいところを見つめていた。 そうだとも。 何もかも怖いくらいに順調だった。 まるで兄さんの死を整えているかのように。 これで文句はないだろう、と言わんばかりに。 すべての歯車が兄のわがままを実現しようと動いていた。 「平次、そんな顔をしないで」 万年青が優しく俺を抱きしめる。 自分よりもずっと体格のいい俺を、その小さな胸に抱きしめてくれる。 「万年青がおります。万年青は平次を置いて行ったりしません」 そう言いながら、俺よりも万年青がつうっと、雨上がりの露のような涙を流した。 「なに、ないてんだい」 さらさらと夏の葉のこすれる音がする。木漏れ日が万年青の顔をちらちらと照らす。 半夏生の生い茂る、湿った土のにおいがする。 「ごめんなさい。平次は本当は、兄上さまに置いて行ってほしくないのに、万年青はこんなことしか言えなくて」 俺が何年かかっても、怖くて言葉にできなかったこと。 万年青はそれを言葉にしてくれる。 「いいんだ、万年青。いいんだ」 自分が捨てられた子犬にでもなったような気分で、ずっと兄の病のことをだれにも言わなかった。 俺は兄に捨てられたのだ。 俺だけじゃない。 兄は豊治も、篠山も、俺も、義姉さんも花緒も、この世界のなにもかもを捨てたのだ。 思うままに生きる、ただそのために。 俺は捨てられた。 こんなもんいらねえ、と。 けれど俺は一人ではない。 細い万年青の体を、折れるほど抱きしめながら、そう思った。 「ありがとう、万年青」 秋の実りは例年にも増して豊作でだった。 家族がもう誰もこの地にいないとしらない秋たちから、消息を知らせる手紙が届いた。兄はそれをそのまま篠山に渡し、花緒には何も教えないようきつく申し付けた。 「平次、去年は済まなかったな…」 杜氏はバツの悪いかおをしていたが、俺はそんなことは気にならなかった。 「…今年もよい酒を造ろう」 俺が悪かったとは、思わない。 万年青は穢れなどではないし、そんな迷信があったせいで兄は病を隠して薬漬けになったのだ。 そしておそらくは、もう。 そう思うと、その言葉しか出てこなかった。 「平次……」 その年は蔵人たちに兄から話が合った。曰く、品評会に新しい酒を出品する、というものだった。初めて見る縦型精米機、電灯、ずらりと並ぶ琺瑯タンク。様変わりした蔵を見て、蔵人たちの気持ちが職人のそれになっていくのを肌で感じる。 「俺はてっぺんしか欲しくねえ。お前たちならできると疑ったことはない。だからこの村に電灯を引いたし、精米機を用意した」 まるでその言葉は、松尾さまの言葉かのように蔵にこだましていた。 「俺たちの酒を造るんだ」 兄が造った酒は、それが最後だった。 その年の酒を絞り終えたころ、銀行へ挨拶回りへ行く、と言ったきり、兄は東京で倒れた。 その知らせを貰ってすぐ、俺は万年青を連れて東京の篠山の屋敷へ駆け込んだ。 一瞬、義姉さんと連れていくべきなのか迷った。 けれど兄は確実に篠山のところにいる。 なんといって義姉さんに説明すればいいのか、俺にはわからなかった。薬を打ち続けながら生き永らえたことを、兄は隠してほしいだろうと思ったからだ。 「花緒、だ」 「・・・・兄さん」 新しい酒の名前をどうするのか、思いあぐねているころだった。 兄が迷いなくそう言った。 「俺たちの生きた証は、花緒だ」 囲炉裏の傍で眠る花緒の頭を撫でながら、静かにそう言った。 きっと兄が一番愛していたのは義姉さんで、そして花緒なのだ。 生きたいと願った人生を、彼女たちと束の間生きたのだ。最後の最後まで、俺には半夏生に身を隠す兄が頭からはなれなかった。 誰にも言うな。 言ったらお前を、殺すからな。 「平ちゃん、東京へ行くのね、あたしも…」 「義姉さんはここで待っていてくれ。必ず連れて帰ってくるから」 「でも」 「そんなお腹じゃ、何かあったら大変だよ」 義姉さんはもうずいぶん腹が大きくなっていた。 今年の冬に生まれる予定だ。 そんな身重な人を連れていくわけにはいかなかった。 そのとき、泰輔が電報を持って走り込んできた。 「平次さん!これ!」 「これは…!」 それは大吟醸・花緒が金賞を受賞したことを知らせる電報だった。 大倉酒造・大吟醸『花緒』 その年の品評会を総なめにしたその酒は、確実にこの村に新しい時代を吹き込むものだった。 けれど急がなければ、その酒に命を注いだ兄はこのことを知らずに亡くなるのかもしれなかった。 「義姉さん、ごめん。万年青!」 「はい!」 汽車に飛び乗り、雪の降る中を一路都へ。 この新時代の乗り物を、遅いと感じたのはこの時が初めてだった。 「平次」 「万年青」 俺は人目も気にせずに万年青を膝にのせて抱きしめていた。そうでもしないとどうにかなってしまいそうだったからだ。 今。 今一番悲しいのは。 「兄さんは。もっと生きたいはずなんだ」 「はい」 「やりたいことが、まだまだあるはずなんだ」 「はい」 「あきらめなきゃいけなかった、兄さんは今一番悔しいだろうなあ。悲しいだろうなあ」 生きたい、と。 一度も言わなかった。 言えなかった。 そんな平一郎の人生があっていいのだろうか。 兄が何をしたというのだろうか。 「兄さん」 篠山の屋敷につくと、黙って奥の部屋に通された。 鹿威しの見える美しい庭園の見える部屋に、兄は静かに横たわっていた。 「兄さん…?」 「今寝入ったところだ、平次」 篠山がやってきて、兄のそばに座る。万年青も俺も、やせこけた兄のそばに縋りつくように腰を下ろした。 「平一郎、聞こえるか。平次と万年青が来てくれたぞ」 「兄上さま」 万年青の声は震えていた。 しんしんと降り積もる雪、 往来の音が遠くに聞こえる。 「平次…」 兄が口を開いた。 目は重そうに閉じられたままだ。 「にっ、兄さん!これ、これ見ろ!花緒が、俺たちの酒が金賞を取ったぞ!聞こえるか、目を開けてちゃんと見ろ!」 その言葉に息を吹き返すように兄がゆっくりと目を開いた。輝きを失った瞳は、死相というものが見て取れるようだった。懐にいれてぐしゃぐしゃになったそれを、兄に見せる。 「ばか、読めねえよ」 「うるせえよ、読んでやるよ」 電報の文字を読み上げる。 金賞を受賞したこと。授賞式に出席されたし、ということ。簡素なそれは、兄にとって満足のいくものだっただろうか。 「そうか」 そう言って再び目を閉じた。 「兄さん」 「授賞式には、お前と、杜氏で行け。ああ、花緒もお稲も連れていくといい…腹の子は産まれてるころだろうか」 「義姉さんは、アンタが帰ってくるのを待ってる」 「ははは。無理だなあ。無理だぜ、平次。もう、俺は疲れたんだ。お稲には悪いが、本当につかれたんだ。もう、もういいんだ。俺はよくやったろう、松尾さまも文句はないはずだ」 万年青がすすり泣いていた。 疲れた、の本当の苦しさを知っているのは、万年青だった。 「ちくしょう、痛てえ。篠山、打っておくれよ」 目を閉じたまま、兄は篠山の服を手探りでつかむ。 篠山は大きな手を震わせながらつかむと、そっと布団の中に戻させた。 「平一郎。もうお前に薬は必要ないんだ」 朦朧とする意識の中でそれを聞いていた兄は、なぜか急に納得して、そうかと力が抜けるような声を出して眠り始めた。 「兄さん!」 「平次、寝かせてやってくれ」 「でも!」 「すぐ起きる。痛みで長くは眠れない」 篠山の言っていたことは本当にその通りで、一刻もしないうちに兄はゆるゆるとした眠りから覚めた。そして夢うつつに篠山に言う。 「万年青と、二人にしてくれ」
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