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28
冬の風が少し吹き込んでいる。
万年青は少しだけ空いている縁側のガラス障子を閉めようとしたが、目を閉じたまま起き上がることもできない兄を見てやめた。
枕元に座ると、力のない声で兄がくっくと笑っていた。
「通りの声が聞こえる。このくらいしか楽しみがない」
「……ええ」
熱と痛みとに侵されて、ただ過ぎ去っていくのを待つだけの日々。
万年青には痛いほどよくわかるものだった。
頬に感じる風の変化でさえ、自分を慰めるものだった。
「…兄上さま、うかがっても?」
万年青が控えめに問いかけると、兄は浅い息を繰り返しながらかすかにうなづいた。
長年使い続けた薬のせいで、まぶしくて目が明かない。
暗い屋敷の番頭台、明り取りがあるだけの蔵の中。
大倉の家はそんな兄には過ごしやすかった。
「どうして、こんなことをなさったのですか。平次がどれだけ苦しんで、あなたに生きてほしいと思い続けてきたのか、兄上さまはご存じではないのですか。義姉上さまも、おなかの子も、花緒さんも。みんなあなたに生きてほしいのに」
万年青の声は震えていた。
こらえきれない涙があふれてくる。
「万年青、つまらねえことを言うようになったねお前さん。やさしい平次にほだされすぎだよ」
「つまらない?」
「そうとも。忘れてねえだろう?俺たちは、役立たずなんだぜ」
役立たず
その言葉に雷に打たれたように、万年青の呼吸が止まる。
わかっていた。
忘れたことなど一度もない。
けれど。
俺と結婚してからのなにもかもが、一瞬で万年青の中によみがえる。
「役に立つとか、立たないとか…」
大粒の涙が万年青の濡れた瞳から零れ落ちる。
しずくが兄の横たわる布団にしみをつくる。
「平次は一度も言わなかったんですよ!やさしいからじゃない!あなたが!」
縋りつくように万年青は叫んだ。
初めて万年青は、腹の底から湧き上がるほどの怒りを覚えていた。
「あなたが傷つけてきたから!」
役に立て、という言葉が平一郎の人生を追い詰めてきた。
役に立たなくていい、という言葉が平一郎の生き方を否定していた。
兄はもがき苦しんだはずなのに、どうして幸せにはなれないのだろうか。
その何もかもが、俺をどうしようもなく泣きたい気持ちにさせていた。
兄がうっすらと目を開ける。
まぶしいものをみるかのように、万年青を見上げた。
万年青よりも細くなった手が、泣きじゃくる万年青の頭を撫でた。
「……万年青、ありがとう。お前が平次のところへ来てくれて、本当によかった」
万年青は泣きながら兄の手のひらを握り、自分の頬に押し付けた。
細くなった腕。
さむい、さむい、と言って腕組みをして隠していた。
「平次ともっと一緒にいてあげて。万年青は何にもいらないから。平次と。一度でいいから、平次にッ……。一度だけでいいから。自分を責めるなと言ってあげて」
「万年青」
「平次を愛してると、言ってあげてッ………」
「万年青」
駄々をこねる子供のように万年青は声を上げて泣いた。
別の部屋で篠山と話していた俺にも、そのすすり泣く声が聞こえてくる。
「こんなひどいことを、お前に背負わせて悪かったと言ってあげて!勝手に死んだらだめ!」
俺にそういうのなら、兄はたぶん両手では足りないくらいの人にそう言わなければいけない。
それ以上万年青は何も言えなかった。
棒のように細くなった兄の腕に、こどものようにしがみつきながら泣くしかできなかった。
ひんひんと泣く万年青に、兄は優しい言葉も厳しい言葉もかけなかった。
ただ黙って、泣き止むまでずっと頭を撫でてくれていたらしい。
「布団の下、わかるかい」
落ち着いてきたころに、兄はそういった。
言われて敷布団の下に手を入れると、ブリキでできた弁当箱のようなものが手にふれる。
弁当箱よりも薄いそれは、懐に入れてしまえるほどの大きさだった。
「中を見たら、懐にしまいな。平次にばれないようにね」
恐る恐る中を見ると、そこには兄の使っていた薬と注射器が入っていた。
「なッ…」
「全部新しいものに変えてある。これはお前のものだよ」
「こんなもの、僕は……ッ」
そういうと兄は傷ついたような顔をして、力なくははっと万年青をさげすむように笑った。
「明日死んでもいいから、今だけ健康になりたい」
ポツリと兄の声が薄暗い部屋の中に、半紙へ垂らした墨のように落ちて広がる。
生まれて初めて、この人が漏らした弱音だったのかもしれない。
「お前だって、そう思う日がくる」
俺たちは役立たずだ。
健康に生きたい。
明日死んでいいから。
見せかけのでいい。
動け。
耐えろ。
俺は。
「俺は生きたかったんだよ」
その生きたいの意味を、本当に理解できるのは万年青だけだと、どこかで兄は確信していたのかもしれなかった。いつからそれを準備していたのだろうか。初めて兄と言葉を交わした日のことを、万年青は思い出していた。
涙が頬を伝う。
懐にそれをしまい込むのを見ると、兄は満足そうに微笑んでいた。
「平次を頼むよ」
「………ッ」
「万年青、頼んだからね」
「……はいッ」
万年青はこの日、生涯これを使うまいと心に決めた。
どれほどの気持ちで兄がそれを渇望していたのか、胸が張り裂けそうなほどに理解できた。だからこと、決して兄と同じところには落ちるまいと、俺の顔を思い浮かべながらそう誓ったのだった。
その道のりが険しく遠いものだとは、このときはまだ誰もしらなかった。
万年青と兄が話した内容を知ったのは、ずっとあとのことだった。泣きながら兄の部屋から出てきた万年青と一緒に、3人で部屋に戻る。兄はすうすうと寝息を立てていて、その穏やかな呼吸を聞きながら俺たちは力が抜けるように布団の周りに座り込んだ。
「医者は、もう……、夜は越せないだろうと」
篠山の声が遠くに感じる。
誰も何も言えなかった。
兄は死ぬのだ。
その現実を俺は愕然と受け止めていた。
兄は眠っては痛みで目が覚めて、そのたびに篠山に薬をねだった。
篠山からお前には必要ないんだと言い聞かされて、兄はいつもおとなしくなって目を閉じた。
服にかかる指を取って、布団に戻すそのしぐさが、篠山のちぎれてしまいそうな心に反して、ひどく優しいものだった。
「平次」
兄は何を思っていたのだろうか。
何を考えていたのだろうか。
どうして俺はこの人がそう決めたときに、わかったと言ってしまったのだろうか。
あの日。
帝都のこの人の部屋で、注射器を見つけたとき。
半夏生の中に逃げ込んでいたとき。
俺が周りに話していたら。
この人の我儘と傲慢を止めていたら。
そうしたら。
そうしたら、あの酒は生まれていないのだ。
「俺が死んだら、骨を篠山にやってくれ」
「なんだって」
聞こえてきた言葉に耳を疑う。
「うるさいね。そういう、約束なんだよ。死んだら、俺は篠山の物になる」
篠山のこぶしが震えていた。
篠山が欲しがったのは、物言わぬ骨などではないとなぜ気が付かないのだろうか、平一郎は。いや気付いているのに、律儀に残酷な約束を果たそうとしているのだろうか。
麻薬を注ぎ続けた張本人が、お前から欲しいものが心以外のものであるはずがない。
お前の望みをかなえるためだけに金や薬を用意して、ためらいなく暴力と悪事に手を染める篠山がほしいものが。
お前自身の心と魂を、自分のものにしてしまいたいと願っているのだと、どうしてお前は見ないふりをするんだ。
「いねには花緒と腹の子が……、子供らには大倉が…、篠山には骨が…お前には……」
熱と痛みと体のだるさに浮かされて、兄はうつろになりながら言葉を紡ぐ。
「俺にはなにがあるんだよ」
さっきまでなんとか話していたのに。
薬を求めて指を動かしていたのに。
兄の体が布団に一層沈みこんだように感じた。
「平一郎?どうした」
篠山も異変に気が付き、呼びかける。
やくざ者のくせに、震えるほどやさしい声だった。
いつもその呼びかけに、薬をねだるために意識を浮き上がらせていたはずの兄からは、反応がなかった。
「おい、兄さん!兄さん!」
「兄上さま!」
息は浅かった。
篠山が呼んでくれた医者が置いて行った、枕元の熱さましがむなしいだけだった。
空気を震わすこともできず、最後に溜息のような声が、兄の体から抜け出る。
「もういいんだ………全部できた……」
俺の脳裏には、大吟醸『花緒』が浮かんだ。
万年青が声にならない嗚咽を漏らす。俺の背中に隠れるようにしがみつく。
兄は誰にも詫びたりしなかったし、愛してるとも言わなかった。
最後まで自分のことばっかり考えていて、俺は悲しいのか腹が立つのかわからなかった。
この日がくるのが分かっていたはずなのに。
こんなにも理不尽に感じるのはなぜなのだろうか。
全部できただって?
冗談じゃない。
お前は大吟醸を造っただけだ。
村に電気を引いてやっただけだ。
どの家にも電球を買ってやっただけだ。
琺瑯のタンクを、縦型精米機を、新しい大倉の時代に必要なものを整えただけだ。
たったそれだけだ。
こんなことがお前の全部なのか。
お前はまだそれだけしかしていないじゃないか。
義姉さんはどうなる。
花緒は。
腹の子は。
ばあちゃんは。
大倉の家人たちは。
杜氏たちは。
俺や万年青は。
篠山は。
誰もこんなこと望んでないんかいないんだぞ。
お前がいなけりゃ、何が残ってたって意味がないんだぞ。
義姉さんに子供が、子供には大倉が、篠山には骨が、お前には大吟醸が。
「俺にはなにが残ったってんだよ!!馬鹿野郎!」
大倉の店の電話が鳴る。
この村に一台しかないその電話に、大きな腹を抱えた義姉さんが出る。
「あら平ちゃん。うちの人はどう?」
短い言葉が告げられる。
「なあに、何を言っているの、平ちゃん」
無意識に手のひらで腹を撫でる。
その子の父親についての知らせが、理解できない。
「なにを……言っているの……」
受話器が手から滑り落ちる。
酒造りの季節とは違い、蔵人の歌声は聞こえない。
しんと静まり返った黒々とした柱や板の間が息をひそめている。
俺が死んだら、お前は俺が嫌いになるよ。
いつだったか兄がそう言っていた気がして、義姉さんはその場に立ち尽くした。
受話器からは俺の声がする。
「なにを、言っているんですか、お前さん……」
雪の降る日だった。
鈍い色の空の下、兄はその生涯を閉じた。
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