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学生服を着た花緒がバタバタと木張りの床をきしませていく。 青いスカーフをくるくると結びながら、学生カバンを掴んで革靴を履く。 外はまぶしいくらいに明るくて、空の高いところに雲が浮かんでいる。 「花緒!お前さんを何度も起こしたんだよ」 「花緒さん、お弁当忘れていますよ」 口々に声をかけられて、花緒は慌てて靴を脱いで引き返してくる。 「ごめんごめん、平ちゃん。万年青ちゃん」 「遅くまで起きているからですよ」 「わかってるわかってる」 2度返事をするときは、花緒はきまって何も聞いていない。万年青もそれがよくわかっているので、小さく溜息をつくだけだった。 「お姉たん、いってらっしゃい」 「おはよう、平太。行ってきます!」 万年青の後ろに隠れていた平太を、花緒はぐりぐりと撫でまわして身をひるがえす。誰に似たのか、そそっかしいところがある娘に育ってしまった。 そのまま春の日差しの中にかけていこうとしたとき、今日は免れたと思っていた雷が落ちる。 「花緒!」 「は、はい!」 囲炉裏の上座にすわっていた祖母が、年老いているがはっきりとした声で言いつける。平太に餅を焼いてやると言っていたので、火箸で墨を集めながらぴしゃりとねめつけた。 「両親への挨拶は」 「え~、もう、もう遅れちゃうのよ」 花緒はその場で足踏みをするが、祖母が黙っているとああ、もう! と仏壇の部屋へ駆け込んだ。 素早く線香に火をつけて、お鈴を鳴らし、パンと手を合わせる。 「お父さま、お母さま、おはようございます花緒は今日もげんきですいってきます」 念仏のように早口にそういうと、またバッと部屋をとびだしてくる。 「おばあさまもおはよう!」 「ん」 靴を瞬きする間に履いて、今度こそ日差しの中に飛び出して行った。 革靴が蔵の前の坂道の砂利を踏む音が遠のいていき、大人たちはやれやれと腰を落ち着けるのだった。 「誰に似たんだか」 「お前の学生時代は毎日ああだったくせに、よく言うわい」 「俺あ、野郎だからよ」 「ふん」 「まだ眠いよう」 甘えん坊の平太は万年青にそうせがみ、膝の上にのってぎゅっと抱き着いた。 「平太さんも、お餅を召し上がったらご挨拶しましょうね」 「うん」 「学校の用意はできていますか?」 「昨日の夜にちゃんとしたよう」 「万年青、無理をするなよ。ちゃんとおせいさんに任せろよ」 「わかってますわかってます」 ついつい頑張りすぎてしまうところがあるので、子守のせいには図々しくてもいいから昼には万年青を寝かせておいてくれと言い含めてある。 平太のやつももういい加減高学年になってきたので、そろそろ甘えたを卒業しないといけない。俺はそう思っているのに、祖母は跡取りだと言って甘やかすし、万年青はまだおしめもとれていないような気がしているみたいだった。 「旦那さま、ちょっと」 「ああ、すぐ行く」 「平次、田植えは進んでおるんじゃろうな」 「進んでるよ、ちゃあんとやってるからよ」 「神田の準備だけは遅らせてはいかんぞ。あれは」 何万回と聞いた祖母の大倉神田物語が始まりだして、俺は逃げるように泰輔のもとへ行く。まじめによく働く泰輔は、手代として仕事を任されていた。 とんとんと平太をあやしてやりながら、万年青がまるで初めて聞いたかのような反応で祖母の話に耳を傾けている。それを横目で見やって、よくやるよとため息をついた。 村の畑は早いところはもう、代掻きをして土が平らにならされている。 田植えにかかりきりになる季節がすぐそこに来ていた。 「ああ、平次の旦那」 「よう、春元」 田んぼに水を引く水路では村人たちが集まっていた。 昔は足ふみの木製水車を懸命に踏んで水を入れていた畑だったが、数年前から石油発動機を買ってずいぶん楽になったものだった。バーチカルポンプからけたたましい音が鳴って水が流れていくさまを見物しにやってきている者もいた。 「順調かい」 「おうよ。旦那がやれ発動機だ、脱穀機だ、除草機だって買うもんだから、便利になっちまってこまるよ。昔は平一郎たちと電気を引いてくるってだけでひと悶着だったのになあ」 「平次も偉くなったもんだな。小作料は上がったけど、その分便利なもんを次々村に買い込んでくるもんだし。俺のかかあなんか、夜まで仕事できるし畑仕事も減っちまったから藁細工なんか作り始めて、結構小銭かせいでるんだよ」 「おめえんところの女房は器用だもんなあ」 バババババという機械音を後ろに、朝の一服をしながら口々にそんなことを言う。 水田に流れ込む水は光を反射してきらきらと光っている。 土の湿るにおいがする。 まるで音でも聞こえてきそうなくらいにまぶしい、美しい。 万年青がいつだったかにそう言っていたことを思い出す。 「まあ、今年も頼むよ」 「へい」 大吟醸・花緒のおかげで、村は豊かになった。 小作料を少し値上げしたくらいじゃ発動機も脱穀機も除草機も買えたもんじゃない。 あのとき大吟醸に舵を切った平一郎の判断は怖いくらいに正しかった。 いち早く贅沢品を造っていた大倉酒造は、万年青の実家のつてもあって軍需産業にひいきにされている大店を、客としてたくさん抱えることができていた。 支那事変と呼ばれる大陸での戦争が始まってからすぐ、戦争へと突き進む特需にそのままあやかることができた。 大倉を大きくすること。 この村に新しい風を吹き込むこと。 ただそれだけを目指して、ほかのことは何も考えないようにしてここまで来た。 少しでも手を止めたら、大倉の門構えのそばに兄がまだ立っているかのような気がしていた。 未来を夢見て旅立っていった兄。 自分がいなくなったあとのことを、満足げに瞼を閉じた兄。 ただたった一つだけ。 誰にもどうにもできない歯車が外れてしまったことを、兄はどう思うのだろうか。 「……どうして死んだんだよ、義姉さん」 「花緒さんの家って、お母さんいないの?」 学校の友人が何気なく聞く言葉に、花緒は特に傷ついたりもしなかった。 「そうよ、私が小学生くらいのころだったかなあ。弟が生まれてすぐになくなっちゃったの」 「え、じゃあお父さんと暮らしてるの」 赤い糸を針で手ぬぐいに刺しながら、女子生徒たちはおしゃべりに花を咲かせていた。先生が時折見回りにくるくらいで、皆いろいろな話をしながら手を動かしていた。 「ううん。お父さまも同じころに事故で亡くなったのよ」 「花緒さんのお父さまって、とても立派な人だったのよね。私の父さんがよく話していたわ。村に電気を引いてくれた人だって。大倉の酒蔵に新しいお酒を造ったのも、お父さまなのよね」 少女たちの手はまるで別の生き物のようによく動く。 口と同じくらいに動くそれは、一刺ししてはまた次の生徒へ渡される。 友人の話す言葉を聞きながら、花緒はかすかな記憶に漂う両親の姿を思い出そうとしていた。 義姉さんのおしろいのにおい。 兄さんの米のような甘い匂い。 平太と自分を置いてあっさりこの世を去ってしまった二人。 花緒にはその二人よりも、残された自分たちに何不自由させなかった俺と万年青と祖母のことが、強く心に波を打たせた。 おばあさま、と声を掛けた幼い日がよみがえる。 「泣いているの」 祖母は一人仏壇の前で、背中を丸めていた。 肩に触れると、祖母が震えているのがわかった。 「……わしなどがどうして生きて………。いね……、平一郎。なぜ先に……」 悲しい、ということがまだ花緒にはよくわからなかった。 もういない、という悲しさを理解していたけれど、あっという間に二人ともいなくなったものだから、涙することはできなかった。 そんな花緒を女中たちはかわいそうに、と言って泣いた。 花緒にはただあの祖母が泣いているということが、彼女には大きな衝撃だった。 「平太さん、泣き止んで」 遊びに行っていた万年青の部屋には、弟の平太が寝かされていることが多くなった。 父親と同じように線の細い万年青が、青白い顔で赤ん坊の世話をしている。 冬の間こそ手の空いた女中たちが面倒をみてくれていたが、田植えの時期には皆で払ってしまっていて万年青が面倒を見なくてはいけないことも多かった。 弟の平太が生まれる前、祖母は万年青のことをひどく嫌っていたように思う。 病気で伏せることの多い万年青に対して、祖母はよく怠け者だとか役立たずとか口にしていた。 けれど花緒の父も母もなくなって、平太の世話をしている万年青に祖母は言った。 「平太をこっちへ。お前は食事を先にしな」 「刀自さま…」 俺はこのころにはもう、家で食事をするのが嫌になって留守にすることが多かった。少しでも暇があるのなら得意先を回りたかった。 平太を腕に抱きながら、祖母は小さな声で溜息をもらす。 「万年青。順番だけは間違うな」 4人だけになった食卓に、その声はあまりにもものがなしかった。 想えば祖母が万年青に優しい言葉を掛けたのは、この日が初めてなのかもしれない。 「………はい」 万年青はぼろぼろと泣いていた。 花緒は何も言えなかった。 ただ大人たちが暗い顔をしていて、自分の家はとても変わってしまったのだとそう思った。 命を吹き飛ばしてほしい。 自分と同じ年のころ、万年青がそう願っていたことなど花緒は知りもしないことだった。 あっけなく人が死ぬ。 いつの時代も出産は命がけだった。 だからこそ、死ねない病は兄を恐怖させていたのだった。 そしてそれは、年を経るごとに万年青には痛いほどよくわかるようになっていた。抱きとめる平太が重くなるにつれ、花緒の服が小さくなるにつれ。 守るべきものを持った万年青には、平一郎の恐怖の形がはっきりと見えるかのようだった。 「花緒さんのお父さまは、もうなくなっているからいいわね」 友人のその言葉に、花緒ははっと顔を上げた。 その言葉が、自分を傷つけるために出てきた言葉ではないからだ。 教室の生徒たちの手に握られている手ぬぐい。 赤い糸。 戦地での弾除けになるという千人針をぬっていた。 「私のお父さん、こんど行っちゃうの」 悲しさを比べるほど、むなしいものはない。 「私、働きに出るから、学校にはあまり来れないかも…。ごめんね、あなたも父親をなくしているのに。でも私……、あなたならよかった」 出兵者をがいる家には給金が国から支払われていたが、それはあまり十分ではなかった。 父母を亡くしても、大倉という家のある花緒は、悲しいと口にすることすらはばかられた。 花緒の胸には、幼いころにあそんだ夏と秋の顔が浮かぶ。 暮らしに困ったことのない自分が、彼女たちの前で何を悲しめるというのだろうか。 「お父さん、生きて帰ってきてくれるといいわね」 力強い花緒の言葉に、無神経なことを言って彼女を傷つけたと思っていた少女は目を見開いて驚く。花緒の膝の上で、千人針の手ぬぐいが握り閉められる。 「君死にたもうことなかれ!」 「先生、大倉さんが!」 「花緒さん、出兵されるご家族に失礼じゃないの!」 周囲の生徒が花緒の言葉に動揺する。 時代はもう変わっていて、家族を亡くす悲しさを吐き出せなかった花緒には、これから死にゆくかもしれない人を想い、生きてほしいと口にすることの何が非国民なのかと憤りを感じずにはいられなかった。 父が死に、母が死んだ。 自分たちを残して、勝手に。 二人が死んでも、大倉は続いたし、大きくなった。 村はかわらない稲作の営みを続けている。 まるで。 まるで二人のことなどいらなかったように。 許せなかった。 「生きてこそなのよ!死んだらだめなのよ!」 泰輔に連れ出された俺は、なんとなく話が見えていた。 村の若者は一人、また一人と赤い紙を受け取っている。 「なんだい、話ってのは」 「……招集令状がとどきました」 俺は泰輔にかけるべき言葉がみつからなかった。 「行ってまいります」 握りしめたそのこぶしは震えていた。 平次。 兄が昔、泣きそうな顔で抱きしめてくれたことがあった。 短い人生を選んだ兄の道を、俺が受け入れたときのことだった。 いまでもあの人が何を本当は言おうとしていたのかと思う。 それはこんな気持ちだったのかと、想像するしかできなかった。 「泰輔」 地面を見て、肩を震わせる少年を抱きとめる。 頭を撫でる。 生きているのに。 「泰輔」 いつか兄がしてくれたように、しばらく俺はそうすることしかできなかった。
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