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30
「出兵されるということは大変にめでたいことです。ご家族こそわかれる悲しみを飲み込んで、立派に戦ってきてくださいと、鼓舞しておおくりするのだというのに、それを大倉のお嬢さまが『君死にたもうことなかれ』とは!こんな恥知らずなことはありませんよ」
「はあ」
「だいたい、大倉のお家はどなたも出兵してらっしゃらない。花緒さんはそのことをもっと申し訳なく思うべきです。それに、あなたも徴兵検査では戌種合格だそうではないですか。お国のためにお役にも立てないというのに、恥ずかしくはないのですか」
職員室に花緒の担任の声が響く。
呼び出されたために初めて足を踏み入れた学校で、万年青は不思議な思いで話を聞いていた。傍には目を真っ赤にはらした花緒がうつむいて立っており、よほどきつく教師たちに叱られたのだと見てとれた。
白いちりめんの着流しに大倉の暖簾と同じ濃紺の羽織を身に着けた万年青は、席を勧められもしないことに内心驚いていたが、学校というものに通ったことがなかったのでこんなものかと思っていた。
教員の机が並べられて、書類が整頓されて配架されている。
呼び出し、というものの意味もよく分からない万年青は、一人席に座るちょび髭に丸眼鏡をかけた教員を涼しい顔で見降ろした。
役立たず。
この戦時中においてもその言葉が万年青に投げつけられる。
「確かに、ご家族を差し置いて花緒さんが意見することは、差し出がましいことでした。私どもの教育に至らないところがありました」
万年青はそういって頭を下げた。
出がけに不思議そうに、何をしに学校に来いと言われたのだろうかと言っていたので、とりあえずは謝ればいいんだと説明したので、万年青は言われた通りに謝罪をした。
けれど兄が死んでからというもの、万年青は気の強いところが時折顔をのぞかせるようになっていた。
「確かに大倉の人間は出兵しておりませんが、酒税という形でお国のお役に立っているつもりです。鉄砲がなければ兵隊さんも戦えないでしょうが、その鉄砲は大倉の酒税で賄われているやもしれません。どんな形でも誰もが誰かの役に立っておりますし、そこに優劣などないと思いますが」
教師はひ弱そうな万年青から言い返されるとは思っていなかったらしく、わなわなと噴火前の火山のように震えだした。
「な、何を言っとるんですかね!命を懸けてお国をお守りする兵隊さんがたより、酒を売る大倉のほうが上だとでも!?なんという、非国民な!」
教師の剣幕におされて、花緒が万年青の袖を引く。
「万年青ちゃん、花緒が悪かったの。もういいよ」
万年青はそう言う花緒をじっと見た。濡れるような瞳に見つめられて、花緒はうっと言葉に詰まる。
「花緒さん。万年青は役立たずという言葉が嫌いです。とても、です」
その時万年青の脳裏には、兄の顔が浮かんでいた。そして兄が残した花緒を見つめながら、どうしようもなく悲しかった。いつか、もしいつか花緒が、事故ではなく自分の父親の本当の死の真相を知る日が、もしも来たら。
そんなときがきたら、花緒はどう思うのだろうか。
そう思うと万年青は一歩も引く気持ちにはなれなかった。
「非国民など、とんでもない!今は国民が一丸となって非常時に望んでいるのですから、誰もが兵隊さんと同じくらい日々お勤めに励んでいるではありませんか。先生や大倉とて同じですよ。花緒さんも大倉の娘として、立派にお国のお役に立っております」
「怒られちゃったねぇ」
だんだんと強くなっていく日差しの中、花緒は橋の下の沢で水を汲んできた。木陰に腰を下ろす万年青へしみじみと言いながら、水筒に組んだ清潔な水を差しだす。
「びっくりするぐらい、怒られましたね」
「先生ったら、万年青ちゃんにまで反省文を書きなさい、なんておかしかったわ」
「提出しに登校しなくちゃいけませんね」
冷たく澄んだ水がのどを通る。
冴え冴えとしたものが体の中にいきわたり、火照った体を慰める。
万年青は木漏れ日に突くように差し込む光の中、花緒をまぶしそうに見つめた。
学生服から健康な手足をのぞかせて、花緒が近くの茂みで蝉を見つけている。
こんな道のりを毎日通うことが、普通のことだというのは少し万年青を打ちのめした。役立たずという言葉が胸に波紋のように広がる。
じりじりと胸を焦がすような何かを感じる。その思いの黒さ、熱さにはっとする。
なぜ自分にはその健康な体がないのだろうか。
なぜ選んだわけでもないのに、その責を負わなければならないのだろうか。
誰も役立たずなどではない、と俺がそう言う。
その言葉で支えられなかった兄のことを想えば思うほど、万年青は俺と同じものを信じようとしてくれていた。
けれど。
できないことに出会うたびに、その胸に巣食い始めるどろどろとした思い。
こんなものを平一郎も感じていたのだろうか。
花緒の背中を見つめながら、万年青はなくなった義兄のことを考えた。
「どう?万年青ちゃん」
「ええ、もう少しだけ」
ハンカチで万年青が汗をぬぐうと、花緒は一瞬強いまなざしをした。
「無理はしちゃだめよ。私、人力を呼んでくるわ」
「………花緒さん」
「万年青ちゃん、わたし………」
その先に何と言おうとしたのかは、ついには誰にも分らなかった。
きいきいというものがなしい音を立てて、道にできた木陰の下を郵便局の配達員が通り過ぎていく。
今この村のだれもがそうするように、万年青と花緒ははっとしてその自転車の行く先を見つめた。
「……うちの方だわ」
「まさか」
そういう万年青の声は震えていた。もちろん、花緒も。
「ねえ、あの話ってほんとうかな」
「あの話?」
「うちは、大きな事業をしているから、赤紙は来ないって話。学校でね、みんなが噂してるの」
その声はとても15歳のこどもの出す声には思えなかった。
手放しで安堵するわけでもなければ、やみくもに悲しむわけでもない。
赤紙がこない。
それは村でまことしやかにささやかれる、特権のことだった。
大倉の娘だというだけで、特別大切に扱われてきた。その反面、学校で花緒は大倉の娘だというだけで、苦労も悲しみも語ることすら許されはしなかった。特に友達と呼べる微妙な年ごろの少女たちの間では、互いの生まれによる差異について、見てみぬふりをしつつも、誰もが注目しているのだった。
そうやって、誰とも分かち合えずに傷ついてきた花緒ですら、いまはその特権にすがるような期待を寄せさえしてしまう。
「平ちゃんは、戦争に行ったりしないよね……?」
万年青はそれにこたえることができなかった。
水田のにおいが縁側に漂ってくる。
いつのころからか、この部屋のすぐそばに植えるようになった甜瓜の蔓が、塀に立てかけた葦簀よしずにからみついている。
パチン、パチン、と爪を縁側で切っていると、風呂から上がってきた万年青の気配がする。
「今日は大変な一日だったな」
万年青は黙って俺の左側に座り、少し湿った髪をそのままに肩に頭を預けてきた。
「おい、危ないって」
「泰輔が出征すると聞きました」
ぼうっと縁側の向こうを見つめる。
視線の先にはぽつ、ぽつと家々から黄色の電気の光が漏れている。
数年前までは闇夜が広がり、かろうじてランプの光が漏れるだけだったこの村は、兄の残した吟醸酒のおかげで大きく変わった。
パチン、と最後の爪を切り終えて、くしゃっと屑籠に放り投げる。力が入らない様子の万年青の体をそっと抱き寄せる。行きは人力で出かけさせたが、帰りの際に少しばかり歩いたらしい。力尽きて動けなくなった万年青のために、花緒が人力を呼んでくれと近くの商店から電話をかけてきた。
最初からそうすればよかったのに、と帰ってきた二人に言うと、とてもそんなことを言い出せないくらいにしこたま怒られたらしかった。
郵便局の自転車が訪ねてきていないことを確認すると、ほっとしたように気を緩ませていた。
「………平次もいつか、行ってしまうのですか」
「何をばかを言っているんだ」
どの言葉も今思えば白々しかった。
「俺がいなくなったら、大倉はどうなる。花緒が蔵の管理なんかするもんか。平太だってまだまだ甘えたの鼻たれだぜ。そんな家から戦争に取るなんてひどいことはしねえだろう。そんなことになれば、村には女と老人と病人しかいなくなるぜ」
万年青はじっと俺を見上げた。
鼻と鼻が触れ合うくらいに近づいていた。
年を取ったというのに、万年青の美貌は衰えるどころか、ときどきぞっとするほどのものがある。
「平次。もし赤紙が来たら、万年青を置いていくの」
万年青には俺のばかばかしい慰めは不要のようだった。
おいていかないで、と瞳が、しぐさが、吐息がすべて語りかけてくるようだった。
「もしもそんな日が来たら」
万年青の細い指が俺の頬にそっと当てられる。指先だというのに、いつまでも万年青の肌は米の表面のようにしっとりとしていた。
「俺だって出征するだけさ」
だから。
お前を置いていくことになってしまう。
一日一日、そんな日が今日ではないことをたしかめるような毎日だった。
「許せ、万年青」
万年青の目じりから、朝露のような美しい涙がぽろぽろとこぼれる。
抱きしめながら、そっと涙をぬぐう。
なだめるように唇に触れると、万年青が背中に腕を回してくる。
「平次……」
吐息とともにそう呼ばれると、ぐらぐらと腹のそこから湧き上がる情念というものをはっきりと感じる。出征することになれば、生きて帰ってくる保障はどこにもない。にどとこのうつくしい人の肌に縋りつくこともできない。
「ああ、万年青……ッ」
そう思うと、きつく万年青を抱きしめずにはいられなかった。
その細い体に、今はもういない人を思い出す。
はっとして体を離す。
「平次?」
「今日はよそう。お前も疲れてる」
よっと抱き上げて布団へ転がすと、いつもは年甲斐もなく少年のようにきゃあと喜ぶくせに、万年青は黙り込んだ。
「万年青?」
ごろん、と万年青はあおむけになった。
何かを考えるように、じっと俺を見つめてくる。
その瞳にはまだ涙の膜が張っていた。
「明かりをけして、平次」
言われるがままに明かりの紐を引いて落とす。
万年青の肌は暗闇でのほうが一層よく見える。
白くなまめかしい肌が、夜の幽かな明かりの中では輝くようだった。
ゆっくりと指先が腰まで下りてゆく。
俺を見つめながら、腰ひもが払われる。しゅる、という衣擦れの音に俺ののどはごくりとなった。
万年青から発せられる気配が、いつになく何かを訴えかけてくる。
止めようとしてもあふれてくる涙が、万年青の目じりにたまっていた。
「万年青…」
俺はやっと、万年青も俺と同じことを考えていたのだとわかった。
もしも出征してしまえば、二度と。
「平次」
ゆっくりと万年青は自分で膝を開いた。
「疲れてるなんて、明日赤紙が来たら平次を恨みますよ。万年青は平次が欲しい。万年青の一番近くにきて。今はまだ、平次は万年青中以外のどこにも行かないで」
浴衣が膝から落ちて、俺にしか見せない場所がむき出しになる。
「きて」
ああ、なんて奴だ。
とその時俺は思った。
この後何度も、この日を思い出した。
「あっ」
覚えておこう。
何があっても忘れないように。
この肌を。
熱を。
息遣いを。
快感を。
いつまでも滑らかな内ももに手を這わせながら、足の間に押し入りながら、俺たちは泣きたくなるほどの気持ちで、お互いを抱きしめあった。
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