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万年青は不思議な香りがする。 夏の暑い日差しの中で、西瓜や甜瓜に顔をつっこむようにしてむさぼったことがある。水田の草取りという重労働の合間の休憩で、そのみずみずしい清涼感にいたく心をなぐさめられた。 土のにおいとは違う、あの臓腑に染み渡る香り。 暑さにやられていた体が、地面の底からよみがえってくるような。 うなじに舌を這わせる。 そのたびに万年青がびくびくと震える。 耳朶を甘くかむと、耳で感じやすくなっている万年青はなまめかしく体をよじった。しっとりと汗ばんだ首筋から、一層あの西瓜のような優しい匂いが強くなる。 腰が砕けそうになるほどの清潔な甘い匂いに、思わずため息がでる。首筋にかかるその息にさえ感じて、万年青が熱く俺を食い締めた。 俺はひょっとしたら、とんでもない男と結婚したのかもしれない。 どこのお大臣でも、これほどの官能を味わうことなどありはしないだろう。 「ん、んっ」 はあ、はあ、と快楽を逃がす吐息が万年青から漏れる。夫婦になってそれなりの年月が過ぎった。感じすぎると、いや、やだと喘いでいた初々しさは身を潜め、俺を深くまで受け入れるために、自分から後ろの力を緩めさえする。 無言の催促に後ろから抱きしめていた腕を万年青の性器の下へ滑らせ、前から尻の肉をかき分けるようにつかむ。その少し乱暴なつかみ方にさえ、万年青は感じてぶるぶると震えた。 万年青の赤い舌がちらちらとのぞく。思わず顔をを向かせて吸い付くと、万年青が苦しそうに眉を顰める。寝ながら後ろの俺にずっぷりと犯されているのだ、無理もない。 「ンンっ」 奥へ奥へと誘う万年青のの求めるままに、俺はぐっと腰を勧めた。 待っていたと言わんばかりに開いていた熱い肉壁は、しっとりと俺自身を根元から絞りかげるように波打ちながら食い締めた。 自分の疲れに構わずに抱け、と万年青は俺に命じたけれど、できるだけ体力を使わせたくなかった。万年青の体調に合わせて夜を重ねるうちに、俺たちは自然とこうして体をくの時にぴったりと重ねあい、ぐずぐずとした官能に身を任せることが増えてきていた。 一秒でも長く万年青の中にいたい。 この夜は強く強くそう思った。 万年青も、そう思っているに違いなかった。 「あああ、万年青、そんなに締めるなよ、ああ、出ちまう」 「まだ、平次、だめ。もっと万年青の中にいて」 万年青が腰のうずくような快感に、あ、あ、と声をもらしながら俺の腕にしがみつく。 「わがままいうな、ああ、くそっ、なんでお前はこんなに具合がいいんだっ」 我慢できずに思わず腰が動く。奥のその場所に触れていると、中の感触はっきりとわかる。万年青の吐息よりもさらに熱い情念で絡みついてくるそこを、そっと押し付けるように触れると、得も言われぬほどの絶妙な力で万年青の中が締まる。単純に力を込めて締まるのではなく、その締め付けてぎゅっととどまり解放する一連の動きそのものが、あの不思議な暴力的に清潔な香りの中で行われる。その官能に全身が泡立ち、中心に熱が集まっていく感覚に奥歯をかみしめなければ、心地よすぎて吐き出してしまいそうだった。 ぬかるみのように俺を誘い込んでくるくせに、出ていくことは許してくれない。 「平次…ッ、ああ、あッ」 深呼吸のようにその場所にじっくりと吸い込まれるように触れては、熱い吐息とともに腰を引く。うねるようなその動きを止められず、さらに深くと万年青の片足の内ももを掴み膝を開かせる。 布団側から伸びて胸や前の性器を時折いじる俺の腕にしがみついていた指が、たまらずにぎゅっと敷き布をつかむ。 万年青の前はとろとろと先走りを流していて、まだ、やだ、というように震えていた。 かわいいそこに触れない。俺の形だけを感じて果てたいと、じれったくうごめく全身がそう物語っていた。 これはちょっとでも万年青の欲望を読み間違えたら、あとでとんでもなくへそを曲げるなと、すこしおかしかった。 「へいじ…」 とろっとした瞳が突き上げに伸びあがりながら俺を見つめる。 その怪しい瞳の輝きに吸い込まれるように、口づける。名前を呼ばれたら必ず。俺たちの約束だった。 まさか、望んでもいないのに離れ離れになるかもしれない日が来るとは、あのころは思いもしていなかった。 おいていかないと万年青は俺に約束をしてくれたのに。 俺はこいつを置いていかないといけないのか。 万年青の舌が震える。 止まらない体の奥からの緩やかな刺激が、指先に、頭にとひろがり、口を閉じていられなくなっていく。それでもへいじ、と呼ぶので唇にかみつき嬲りながら、一層強くなる官能の香りに俺は頭に血が上りそうになる。 獣のように興奮して息を荒くしながら、唇に、耳朶に、うなじに、肩にとかみついていく。その間腰は万年青の奥の大切なところへ、俺以外がふれることのない場所へ何度も触れ、そのまま奥でとどまりゆさぶり、時にはすぐに離れてまた突き入れを繰り返す。 野の字を書くように深く深くえぐると、声にならない喘ぎが漏れる。 「あ、あ、平次ッ、どこにも、あんッ、行かないで」 その声は、快楽のためなのか、離別への恐怖からなのか。 もうほとんど万年青はすすり泣いていた。 「万年青を一人にしないで……嗚呼ッ、はあ、ああ、あ、きもちいい、きもちいよう」 奥がわななく。 頭が沸騰しそうだった。 あの香りが強くなればなるほど、緩やかで緩慢な交合は俺たちの中にある何かを引きずり出していくかのようだった。 お互いの吐息だけが、行き着く先だけを求めて部屋に響く。 どこへも行かない。 ずっと一緒だ。 そう約束してやりたかった。 腕の中ですすり泣くこの麗人に、そんな言葉さえかけてやれない自分がなさけなかった。 匂い立つ肌は汗でしっとりとしていて、どこまでもすべらかで、抱きしめると肌が吸い付いてくる。 離すものか。 互いの体が触れ合い、こすれあうたびに疼きは渦のように甘い刺激が俺たちを翻弄する。 たとえ体が離れ離れになっても。 決して。 記憶の中では、胸の中では、この男を離すものか。 初めて会った日の、人形のような青白い顔の万年青を、凛としたまなざしを思い出す。 忘れるものか。 失うものか。 この熱を。 息遣いを。 体のうねりを。 この香りを。 「ああ、万年青!」 どうすることもできない現実と快楽に泣く万年青を、かきむしるほどに強く抱きしめた。 これ以上ないほど奥へ。 「あッ――――」 意識が遠のくようなうねりの中で、万年青の肉壁がわなないて果てた。腹の底から俺の官能を搾り取るようなその動きに、肩にかみつきながら、みだらに乱れる一点に向かって、たたきつけるように俺も精を吐き出した。 敏感になりすぎた万年青の体は、俺の射精の勢いにさえ感じて、いつまでもとろとろと甘く果て続けていた。 びくびくと気持ちよさに戻ってこられない万年青のこめかみに口づける。 これ以上は万年青の体には無茶だった。 そっと頭を撫でながら瞼に、頬に、顎へキスをおとす。 はあ、はあ、と万年青の吐息が聞こえる。 「はあ、万年青、よく頑張ったな」 へいじ、と口元が呼んでいた。中から性器を抜くと、その動きにさえ感じて万年青はぼうっとしながらも少し息をつまらせて精を吐き出した。 体が思い通りにならずにゆるゆるとイキ続けている万年青を見守りながら、そっと口づける。 万年青が意識を失うように瞼を閉じる。 涙が敷布に流れ落ちた。 「行かないで……」 そのか細い声を、抱きしめることしかできなかった。 「不肖横山泰輔、皇国のために一命を捧げ戦地にて戦ってまいります」 軍服に身を包んだ泰輔は、別人のように見えた。 駅に見送りに来た村中の者たちが、万歳を斉唱する。 「行って参ります」 「泰輔!」 泰輔はふと足をとめ、振り返り俺を見た。 「これは預かっておく。お前が帰ってくるまで、ずっとしまっておくからな!」 泰輔のささらを、よく見えるように日光の下にさらす。 蔵の子になりたがっていた泰輔。 少年のころに豊治のやつにはめられた火落ちの一件から、手代として酒造りそのものからは遠ざかっていた。 帰ってこい。 帰ってきたら、お前は蔵人だ。 泰輔は何を思ったのだろうか。 「平次さん…それ…!」 万歳に軍歌にと見送られる中、泰輔には伝わっただろうか。 「行って参ります!」 泰輔は汽車の中から、何度もそう叫んだ。 必ず戻るから。 そう叫んでいるように見えた。 「行って参ります!」 夏の暑い日だった。 泰輔が二度とこの村に戻らないことなど、まだ誰も知らなかった。 寝込んで見送りに行けなかった万年青は、ささらの話を俺に聞かされて静かに涙を流した。 「泰輔……」 泰輔には、この大倉以外に帰る場所などない。 そういう意味では、万年青と似通ったところがあった。 「泰輔が戻るまで、必ず大倉を守らなければいけねえ」 いつ己に赤紙がくるかもしれない毎日。 一日一日を、別れのその日ではないことを確かめる日々。 どれほどの不安に万年青を置き去りにしているか、痛いほどわかるのに、俺の口からはそんな都合のいい夢物語のような未来がでる。 一時大倉を押し上げた好景気にさえ、戦争の影が忍び寄ってきていた年だった。 酒蔵に許される醸造の量が厳しく制限され始めていた。 大倉を守る。 このことばが万年青にどれほどの苦労をさせるか、俺はわかっていたはずなのに。 おれは万年青にすがるような気持ちで、そう漏らしていた。 「はい。必ず」 万年青は余計なことは言わなかった。 ただ静かに、そう答えた。 俺に赤紙が届くのは、翌年の春先。 新しい酒を絞り終えて、皆造を迎えたころだった。 半夏生のひざしを一緒にみつめることは、もう叶わなかった。
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