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赤紙が来てしまえば、万年青も俺も取り乱してしまうのではと思っていたが、実際はあっけないものだった。 悲しむよりも前に、俺は万年青に大倉を引き継ぐ準備を始めた。 「ぼくに商いのことを…?」 「ああ、酒造りは杜氏に任せればいい。だがこの大倉はお前のほかに頼めるやつがいない。番頭もばあちゃんも高齢だ。俺が戻る前にもしも何かあったとき、支えられるのはお前しかいない。俺が戦争から戻ってこられるのが、いったいいつなのかわからない今は、お前に引き継いでおくべきなんだよ」 「は、はい」 戦争から戻ってくる。 俺は頑なにそう信じて物事を進めることにした。 おいていかないでと、体を重ねるたびにすすり泣いていた万年青に、してやれるのはこれくらいだった。 「俺は絶対に戻ってくる。それまでの間だけだ」 万年青は不安そうな顔をして聞いていたが、やがてはっとしてその濡れる瞳で俺を射抜いた。 兄のことを打ち明けたとき、万年青は似たような瞳の輝きをしていた。 もういいの、何も言わなくていいの。 そう俺に言ってくれた万年青。 俺が今何を考えているのか、わかったのかもしれなかった。 俺が戻ってこれる保証はどこにもない。 絶対に戻る。 俺を信じろ。 そう、心から信じて口にする一方で、それ以外の言葉をあえて飲み込むしかない俺を、万年青は大倉に取り残される不安よりも大事なことだと思ってくれたようだった。 俺はどうしても不安だった。 平一郎が残したものをこんなかたちで置いていくことも。 戦争で命のやりとりをすることも。 万年青に重いものを背負わせてしまうことも。 役に立たなくていいと言ったくせに、役に立てと伝えていることも。 不安だった。 情けなかった。 こんな終わりが俺の人生なのか。 震えるこぶしを見て、万年青は覚悟を決めたようだった。 万年青は手が出るたちだ。 気が弱いなどとんでもない。 気が付けば万年青が俺を抱きしめていた。 「万年青に教えてください。大倉の全部を」 俺はなぜだか兄を思い出した。 万年青に託すことを、平一郎なら許してくれる気がした。 入営日までの数日間で、万年青に必要なことを伝えるしかなかった。 帳場に布団を敷いて寝かせて、その横で起きている間中はずっと商いのことを教え込んだ。 「これが仕込み配合表で、こっちがお得意様の名簿ですね。ああ、近江の家も入っているのですね」 「…あぐりがな、買ってくれているんだ」 姉の話に感傷的になる暇は万年青にはなかった。 それは俺よりも万年青がよくわかっていた。 「平次、この現金出納帳と配合表、納品先と量を記した判取り帳は、すべて税務署が点検するのですね?ここには今年と昨年の分しかありませんが、それ以前のものも万年青が見てもよいですか?どの程度の数字の動きをしているのか、知っておきたいです」 「あ、ああ。それなら全部兄さんの部屋にある。困ったらそっちを見るんだ」 「わかりました。今年から物品税という項目がありますが、これは?」 万年青の飲み込みは怖いぐらいに早かった。 「今年から、酒を造ったら課せられる造石税と、酒が蔵から出ていくときに課せられる物品税とができたんだ。だから前の年のにはないんだよ」 「そうですか…」 俺や番頭から教わったことを、万年青は覚書に必死に書き留めていた。 「万年青、もしもわからないことがあったら、兄さんの部屋に行け。兄さんも俺も、そこにある本からたくさん学んだ」 ふと、万年青は手を止めて俺を見た。 「どうした?」 「いえ。平次が本を読んでいる姿を、あまり見たことがないので。意外な思いがしただけです」 「ひでえな。これでも兄さんの部屋のは全部読んだ」 「今ぼくは帳面に書き留めていますが、平次がそうしているのを見たこともないです」 俺と同じことに触れた万年青は、俺のやりようが自分とは違うことが新鮮だったらしい。 これから離れ離れになるというのに、俺たちはそんなことがうれしかった。 「俺はたぶん、ちょっとばかりは記憶力がいいんだぜ…」 頬を撫でると、万年青が素直に目をつぶる。 そっと瞼に唇を落とす。 「不思議なんだ。なんだって皆帳面なんか取るんだか。一遍みりゃあ、忘れるようなもんじゃねえだろ」 馬鹿だ馬鹿だと、家の連中にも村の連中にも言われてきた。 一生を家の手伝いとして終えるこの時代の次男以下の男たちは、自分がどれだけの器を天から与えられているのか気が付きもしない。 そういう意味では、俺は万年青の瞳がはっと見開かれている理由に心当たりすらなかった。 あいつは馬鹿じゃない。 ちょっとばかり計算が苦手なだけさ。 兄さんと交わしたそんな会話を、万年青は思い出していた。 「平次。手紙を書きます。返事を書かなくてもいいですから、絶対に読んでください」 万年青はそういって俺にしがみついた。 この人は。 覚えていてくれる。 紙が燃えてしまっても、この人は。 前線がどんなものなのかは万年青には見当もつかなかったが、俺が読んだものは忘れないと知ってそんなことを考えた。 「万年青はいつでも平次と一緒ですからね」 どんなときも。 何があっても。 覚えていて。 祈るようにそういう万年青を、俺は黙って抱きしめることしかできなかった。 骨ばった肩甲骨。 薄い鎖骨 細い腰。 ひんやりとした肌の下で、トクトクと波打つ命を感じながら、あの日泣きながら肌を重ねたことを思い出していた。 「必ず戻るから。それまで、頼む」 うん、と万年青はだまって首を縦に振った。 俺はより強く万年青の鼓動に耳を当てた。 「半夏生、一緒に行ってやれなくてすまねえ」 待っているから! 出征の汽車の車窓から、小さくなっていく万年青の姿が目に焼き付いて離れない。 あの細いからだから声を振る絞って、そう叫んでいた。 何が起こっているのかよくわかっていない平太が、万年青の手に縋りついている。 肉親を重ねて失う不安に泣くこともできない花緒の肩を、万年青が守るように抱いていた。 死ねない。 女学生と幼い子供を両手に抱き留めながら、万年青はそう思った。 あれほど命などいらないと思ったのに、今は一秒でも長く生きたいと心から願っていた。 とうさま、かあさまと一度も口にすることのかなわなかった平太。 もう二度とそう口にすることのかなわない花緒。 こんな二人から、なぜこれ以上奪っていこうというのか。 守らなければ。 もしも自分がなくなってしまえば。 もしも刀自さまがなくなってしまえば。 そのときまだ俺が帰ってきたなかったら。 万年青の中には怖いぐらいの想像が駆け巡っていた。 一瞬、秋と夏の姿がよぎった。 後ろ盾を亡くした子供の末路は、どんな時代でも搾取という最悪の形が口を開けて待っているに違いなかった。 「花緒さん、平太さん、万年青が……」 二人の体を痛いほど抱きしめた。 「万年青ちゃんッ」 「どうしたの、万年青ちゃん。平次ちゃんはどこいくのぉ」 出征の意味を、もう二度と会えないかもしれない別れを理解している花緒。 俺がどこに行くのかもわからない平太。 そのすべてが万年青には、自分の命よりも大切なものに思えた。 平一郎。 義姉さん。 そして平次。 自分に生きる場所をくれた人たちがのこした、大切な二人。 「万年青にできることは、全部しますからね」 大倉を守らなければ。 どんなことをしてでも。 どんな手段をつかうことになったとしても。 たとえ体が自分を裏切ったとしても。 それでもこの二人を、大倉を守るためならば。 できないわけじゃない。 だって。 この二人の父親は、その修羅の道をたった一人で歩いてきたのだ。 平次が戻るまでがなんだというのか。 「あなたはこんな景色を見ていたのですね、兄上さま」 一人兄の部屋にたたずむ万年青。 その手には、大吟醸・花緒が握られていた。 杯に移し、一息に飲み干す。 涙があふれた。 俺との思い出のすべてが、二人だけで交わした祝言からすべて思い出されて、万年青は涙を止められなかった。 「万年青も覚えましたよ、平次。兄上さま、義姉上さま。この味を、香りを、必ず守ります」 兄から託された薬品の箱が脳裏によぎる。 骨すら残らなかった平一郎の灰を抱いて、慟哭していた篠山を思い出す。 「でもぼくは同じところに堕ちたりしない…ッ」 この年から大倉は万年青を主人として、酒造りが始まっていった。 いつだったか花緒が、父と母がいなくなっても、変わらずに日常が続いたことへの怒りを口にしていた。皮肉なことに、さらに俺がいなくなっても、酒造りは続いていった。 まるで体中をめぐる血液のように、それが絶やされることはなかった。 もしも酒造りが途絶えるとしたら。 それは大倉という体が、この村が死に絶えるときに違いなかった。 「万年青さま、これを」 その年の新酒を杜氏が持ってきたころには、万年青はすっかり大倉の帳面も把握していた。 横になるときも、熱が出ている時も、万年青は死ねないという自分の病気を逆手にとって仕事を覚えた。 そうせざるを得ない理由があった。 俺の危惧した通り、番頭が体調を崩し、宿下がりをしたのだ。 どうしてもわからないことは電話や手紙で番頭に尋ねながら、商いにしがみつく万年青を見て杜氏はよく似た誰かを思い出した。 それは万年青が少しでも力を借りようと、俺のではなく兄の羽織を引っ張り出してきてからはより一層蔵人たちに、あの激しい気性の主人を思い出させた。 大吟醸・花緒を作り上げたその主人が、自分たちのそばにいるような心地さえする。 「新酒が…」 酒を飲んだこともほとんどなかったというのに、やはり万年青はその香りを強く感じ取った。 「ああ、兄上さまと平次の酒ですね、これは」 杜氏は万年青の酒への感受性の高さを、もはや認めざるをえなかった。 万年青もまた、己の器の大きさや形を、誰にも教えてもらえないままに育ったのだった。 「へい。平次にも飲ませてやりてえですな」 「ええ、本当に。ありがとう、杜氏。ああ、刀自さまにお持ちしなくては」 俺の出征で気落ちするかと思いきや、相変わらず元気な祖母は万年青と杜氏に大目玉を食らわせる。 「万年青!このワシに先に新酒を持ってこぬとは、罰当たりが!」 「も、申し訳ありません」 「まあまあ」 「杜氏、お前もじゃ!」 「ひい」 酒ができた喜びのあまり、万年青はその日から久しぶりに起き上がることができなくなってしまった。俺がいない中で、なんとか酒ができたことへの安堵が、緊張の糸を切ったのだ。 「万年青ちゃん、見てこれ!」 「なあに、ねえたん、それ」 花緒と平太がそんな万年青のもとへ駆け込んでくる。 「名誉賞ですって!またうちのお酒が金賞を取ったのよ!」 「本当に?」 「そうよ、見て!」 花緒の持ってきた電報には確かに、大倉の酒が連続して金賞を取り続けていること、そしてその功績を認められて名誉賞を取ったことが記されていた。 「これってすごいことなんでしょう?」 「そうなの?」 喜色を浮かべる二人を見て、万年青は大倉の兄弟を思い出した。 「ええ、そうですよ。このお酒は………みんなの命が詰まっているんですよ」 その知らせは、一人また一人と働き盛りが減っていくこの村に、一時の喜びをもたらした。 入営先の俺のもとにも、その知らせは届けられた。 「何をそんなににやにや見てるんです」 「うるせえやい。残してきた嫁さんが一生懸命頑張ってるとわかって、かわいくてしょうがねえんだよ。あ~さっさと終わってくんねえかな、この戦争」 俺の軽率すぎる発言に周囲はぎょっとしていたが、俺は入営してからというものずっとこんな身の入らない調子なので皆もう慣れていた。 「大倉さん、前線でもそんな調子でいてくださいね」 「おう、任せときな」 「奥さんの名前は」 上官が聞けば憤死するのではないかというぐらい軽薄な俺と、なんとなく馬が合うそいつは、ちょっとばかりよくない筋の家の出らしく、人を食ったようなところがあった。 「万年青、というんだ。俺にはもったいねえくらいのよくできたやつだよ」 「万年青…?」 珍しい名前だろう、と話しているとふと思い出したことがあった。 「ああ、そういえばお前も近江だったな。万年青も旧姓は近江というんだ」 「近江、か」 そいつは少しだけ何か考えるようにしていた。 「なんだよ、近江」 近江源というその男は、すこしばかり考え込むようにしていたが、集合の笛を聞いて俺も近江も意識をそがれた。 「いや、なんでもない。いよいよ配属ですね」 「ああ」 覚えている。 万年青からの手紙はすべて覚えている。 戦争は酒造りにどんどんと影を落としていった。 大倉酒造が名誉賞を与えられたその年以降、品評会は中止となり、開かれることはなかった。 この戦争によって、多くの蔵が泥船のような経営に追い込まれた。 かならず戻るから。 そんな無責任な言葉を信じて、これから万年青は懸命に泥船の舵を取っていくことになる。 「……兄上か」 近江のその言葉は、俺の耳にはついに聞こえなかった。 戦火の中で、また一組の兄弟の運命がすこしだけ交わろうとしていた。
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