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「金属供出ですか」
日本中の酒蔵を襲った戦争の波は、大倉にも確実にやってきていた。
日用品から寺の鐘まで、さまざまな金属が軍へ差し出された。
そしてそれはもちろん、多くの酒樽を金属と琺瑯のタンクへと切り替えていた大倉酒造でもだった。
「そんな、このタンクは兄上さまと平次がやっとの思いでそろえたものなのですよ」
村役にそう万年青は気色ばんだ。
「どの家も鍋やら何かにつけお出ししているんですよ。大倉さんにはこんなに立派な金属があるというのに、それを出さないでは皆が納得されませんよ」
「でも…」
「万年青さん、あんた我儘がすぎるんじゃないかね!」
急に怒鳴り声をあげた村役を万年青はまじまじと見た。
平一郎や平次に、かれがこんな態度を取ったことがあったろうか。
腰を低くしたその姿しか見たことのなかった万年青は、一瞬別人なのではないかとさえ感じ取れた。
「お国のために戦争に行くこともないアンタが!それくらいしたらどうかね!」
病人だというだけで、万年青の気の弱そうなその様子だけで、村役は強い態度に出てきていた。
しかし万年青は踏みにじろうとする人をとてもよく知っていたので、なんだとさえ思った。
「タンクがなくては酒が造れません。ましてや『花緒』には琺瑯のタンクがなくては」
ひるむ様子のない万年青に、少しばかり意表を突かれた村役は一歩下がった。
「ほかの物をお出しします。タンクだけは絶対にどこへもやりません!」
「なんという生意気な!」
「同じことを平次にも、兄上さまにもおっしゃってごらんなさい。平次が戻ってきたら、こんなふるまい、許すはずがありません」
侮られているのだと、万年青にはわかっていた。
けれどそこにひるむようなことは、万年青はできなかった。
必ずもどるとそういった男のために。
それだというのに、万年青がそうやってかばったタンクも、祖母の一声で半分以上が供出されることになった。
「どうしてですか!刀自さま」
「お黙り、万年青」
「いいえ!あれは、兄上さまと平次にとって、とても大切なものなのですよ」
「黙らんか!わしとてそんなことはわかっておるわ!」
屋敷のそとにまで響き渡るその声に、蔵人たちははっとして手を止めた。
杜氏でさえも二人の話し合いの行方を見守るしかなかった。
「刀自さま…」
「お国のためじゃ…。平次を無事に戻してもらうためじゃ…」
この戦時中に、いったい誰が守りたいものを守れたのだろうか。
千人に針を通してもらった手ぬぐいで、鉛の銃弾一発での避けられただろうか。
小さくそう悔し泣きをする祖母。
急に、この人はこんなにも小柄な方だったろうかと、思った。
「鉄砲の玉は少しでも多いほうがいい。酒は木の樽でも作ることができる」
「刀自さま」
「よいな、万年青!よいな!」
縋るようなその声に、万年青はうつむくしかできなかった。
「万年青?どうした?」
ときどき万年青は立っていられないほどのめまいに襲われた。それが無理をしすぎているせいなのだと、本人が一番よくわかっていた。
「いえ、ちょっとめまいがするだけです」
「……横になって休め。それも仕事のうちじゃ」
あれほど万年青を追い詰めていた、健康な体でない、という事実でさえ、戦争による人手不足の中では問題にさえならなかった。
蔵人のように動ける体でなくとも、それでも今万年青の休憩が必要な体でもいないよりもはるかにまし。
健康でない。
人の役にも立てない。
あれほど病人たちを追い詰めたその言葉は何だったのか。
何一つ万年青にも、平一郎にも語られないまま、ただ人手不足というそれだけで、過去の戒めが解かれていく。
「蔵に…?」
「へい」
「…ぼくが蔵に入ってもいいのですか?」
「『花緒』の香りや味を覚えているのは、もうあっしと万年青さまぐらいなもんです。稔や若いのにすこしでも教えてやってくだせえ」
半年、また半年と、万年青はどんどんと大倉の酒蔵になじんでいった。
今まで遠ざけられていた分を取り戻すかのようだった。
俺と一緒にいたころの、6割も米を削ったあの香り。
蒸米からなにから違うさわやかで芳醇な香り。
蔵人たちに酒造りの工程を教わりながら、万年青はその香りを探して伝えた。
もうそれしかできることはなかった。
あの味を守ると誓ったのに、酒造りに制限がかかったのだ。
「こんな米では『花緒』は作れやしませんよ!」
蔵の中に万年青の悔しがる声が響く。
長引く戦争により酒造の原料となる米の生産まで制限され始めたのだ。
大吟醸のように半分以上米を削るなどはもってのほかで、精米制限令によって精米歩合は65%以上に制限された。
平一郎と俺が、いかに米を削るかに執着していたことをよく知っている万年青には、杜氏や蔵人たちとおなじかそれ以上に、ゆっくりと押しつぶされる現状への忸怩たる思いがあった。
「この村の電気も、水田へ水を引くポンプも、あの縦型精米機も、全部米を削って『花緒』を仕込むためなのに!」
「万年青さま…」
「稔!稔は悔しくないの!こんな、こんなことって」
「万年青さま。誰だって悔しいですよ、もちろん稔もです。けれどもう、どうしようもねえことですよ」
米を8割以上磨いてはならない。
やがてその制限は、酒米そのものを配給制への変貌させていく。
日本中の酒蔵が、ただアルコールを造るだけの場所への変貌させられたのだ。
かつて日本中にあった大吟醸・花緒のような存在が、市場から、記憶から、そして造り手である蔵人たちの技術から消えてなくなろうとしていた。
泣きはらした目で帳面を見つめながら、万年青はぽつりとこぼす。
「杜氏、『花緒』を作りましょう。少量でも」
「え?」
万年青の濡れる瞳が怪しく光っていた。
「蔵から酒造りを途絶えさせてはいけません。あんなものは大倉の酒ではありません」
稔と杜氏は、信じられない思いで万年青を見つめた。
万年青とはこんな人だったのだろうかと、特に稔はその青白い顔をまじまじと眺めた。
同時に稔には泰輔の顔が浮かんだ。
今のこの大倉を見たら、彼はなんというだろうか。
蔵人としてのプライドのようなものが、ごみくずのように踏みにじられているこの現状を。
それを黙って受け入れている自分たちを。
「少しだけでいいんです」
「万年青さま、お国のお達しどおりに作っていないものなんか、売れやしませんぜ」
「売らなければいいのですよ」
「売らない?」
「ええ。市場に出回らなければ、誰も気が付かない。大倉には神田がある。あの米はもともと市場供出する米ではないから、自分たちの食用の米だと言っておけば誰にも分らないのでは……」
「だめだ、万年青さま!それは密造ですよ」
杜氏が周囲を探るように視線を巡らせて、万年青を小声でいさめる。
しかし万年青にもそんなことはわかり切っていた。
「万年青はどんなことをしても、大倉を守ると約束しました。戻ってきた平次に、『花緒』の作れなくなった大倉をお返ししても、意味がないではありませんか」
その言葉に、稔ははっとはじかれた。
自分たちの酒を造れなくなった大倉を、泰輔はどう思うのだろうか。
そしてそれほどまでに万年青が大倉を想っていることに、自分はいままで何をみてきたのだろうかとさえ思った。万年青に大倉の切り盛りができるはずがない、大倉はどうなってしまうのだろうか、とただ不安に駆られるだけだった。
しかし万年青は。
この沈む泥船を賢明に支えようとしていた。
「責任はすべてぼくが取ります、お願いします!『花緒』をこの大倉から絶やさないで!」
杜氏や蔵人たちを泣き落とした万年青は、その年からひっそりと密造に手を染めてしまった。祖母も反対さえせず、それはひょっとしたら大倉の者にとっての最後のよすがのようにさえなっていた。
「ずいぶんなことを、してるじゃねえか」
万年青に呼び出されて久方ぶりに大倉を訪れた篠山は、平一郎の羽織を羽織った万年青から密造酒の話を聞かされた。
覚悟を決めた冷たい瞳の万年青と、篠山の中の誰かが被る。
「これを俺に捌けってのか」
「ここにおいてくのも、足がついてしまうんです。あなたなら、できるのではありませんか」
「こんなあぶねえ橋、ただで渡れってのはいくら何でもな」
「篠山さん。これが何かがわからないのですか」
「あん?」
「これは、兄上さまなのですよ」
小さな樽の前に立った万年青は、薄暗い蔵の中で篠山を振り返る。
「大吟醸・花緒。こんなもの、この国のどこを探してももう手にも入らない。それをただ同然で捌けるのですから、十分だと思いますよ。それに、あなたが手を付けないなら、これは川に流すしかありません」
「てめえ、平一郎の酒を捨てちまうって言ってんのか」
「あなたのお客さまの中には、軍部の方々も多いでしょう。上等なものをそろえて接待をするのも、悪くないのでは?あなたのお屋敷は、うってつけの場所にありますし」
万年青は聞かない。
もう篠山がこの蔵に来た時点で話は決まったも同然だからだ。
「実家からお客様を紹介することもできましょう」
どんなことでもするのだ、という思いが万年青を動かしていた。
実家の姉や義理の兄を頼って、篠山に客を紹介して密造酒を独占させるなど、訳もないことのさえ思えた。
あの兄弟は命を懸けたのだ。
薄汚れるくらいが何だと言いうのか。
「それに…」
これは万年青にとっての戦争だった。
「兄上さまのご位牌の前に、備えて差し上げてください」
密造酒の製造は、万年青の差配によって本当にひっそりと行われた。
誰にもわからないのではないかと思えたが、それでもぎりぎりと万年青の胃を締め付けるようなことはつぎから次へと起こった。
「欠減?!」
酒樽のたがが緩んでいたことにより、8合もの酒が減ってしまっていた事件があった。
明朝一番に出頭し、説明をしなければ営業停止にする。
その命令に誰もが密造よりも身がよだつようだった。
密造酒の心労で寝込んでいた万年青は、その量に愕然とする。
普通、木製の酒樽が酒を吸い込んだとしても、四斗樽でせいぜい1合ほど。
たがが緩んでいたとはいえ、8合とは多すぎる量だった。
「それは、そんなにも……」
「俺たちが悪いって言うんですか?たが屋もだれも、皆戦争に行ってしまって、ろくに道具の手入れもできないのは、大倉のせいだと言うんですか!」
憤る稔を杜氏や花緒がなだめる。
祖母は黙りこんで聞いていた。
「明日、税務署へ行ってきます。大倉の者が行かなければなりませんよね?」
「でも万年青ちゃん、そんなに具合が悪いのに」
私が行く、と言えたらどんなにいいだろうか。
花緒はそう心で叫んだ。
未成年の花緒には、それを担うだけの資格がない。
父の死も、母の死も。
大倉の不遇も。
いつだって花緒には資格がなかった。
花緒にはもう、万年青が十分すぎるほどに無理をしていることが分かっていた。
俺ではなく、平一郎の羽織を万年青が引っ張り出した理由。
口すれば緊張のすべてが崩れ去るような気がして、花緒は言葉を飲み込むしかなかった。
けれど。
あの父の青白い顔と細い体。
脱力して不愉快な発汗に悩まされる姿。
そのすべてが被って見えた。
「大丈夫、心配しないで」
俺が一緒に居さえすれば。
こんな無茶を万年青にさせるような真似はしなかった。
税務署の野郎がこっちに出向きやがれと、怒鳴ることだってしてやりたかった。
発熱の予感に魘されながら、万年青は仏壇の引き出しからブリキの箱を取り出す。
明日死んでもいいから、今健康に。
お前だってそう思う日がくる。
守るものを持った万年青には、痛いほどわかることばだった。
「平次……、いつ戻ってきてくれるの」
もうこのころには、俺からの便りは途絶えてしまっていた。
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