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「こんなことは、脱税行為と取られても仕方のないことですよ」 明朝の税務署には万年青の姿があった。 「申し訳ありませんでした。ですが、決して酒税をごまかそうという意図はありませんでした。鉄製のタンクに慣れてしまった我々の不行き届きでした」 静かに頭を下げる万年青に、所長の言葉が降りかかる。 「だいたい、蔵元は何をしておいでなのか。さすがは大倉の旦那というところですか。長兄の平一郎どのは立派な方だったが、遊び人と評判の平次が後を継いだとか」 こみ上げるような何かを、万年青は必至で飲み込んだ。 膝について頭を下げたまま、じっと床のしみを見た。 「それは、もう…何年も前のことです」 俺が大倉の跡目をついでから何年も経っていたが、いまだにここいらでは平一郎の名声が絶えなかった。それを聞かされるたび、俺は平一郎という男になにもかも踏みにじられたような気にさえなっていた。 俺も、篠山も、奴が死んだあともすべてを打ち明けることも許されず、その名声にじっと耐えるような日々を過ごさなければならなかった。 そんなすべてを腹に納めて、大倉を大きくするのだと働いてきた俺を知る万年青は、何も知らない人たちからの心ないことばに、悔しいなどでは言い表せないような気持ちをかみしめた。 「そうですか。どの蔵元も芸者遊びがお好きですからな。今後は二度とこのようなことがないようにしてくださいよ。非国民とそしりを受けても仕方のないようなことです。今回は始末書で許しましょう」 万年青の奥歯がぎりぎりと鳴りそうなほどにかみしめられる。 目のまえが真っ白になる怒りとは、こういうものなのかとさえ思えた。 「平次は今出征しております」 ポツリとこぼされたその声は震えていた。 床のしみがぽつ、ぽつと増える。 万年青はこぼれていく涙が止められなかった。 泣くまいと決めたのに。 「お国のために戦っております」 「これは…。いや、失礼した」 気まずそうな所長の顔を万年青はぎっとにらみつけた。 「それでも私たちは非国民なのですか…ッ」 蔵の帳場の電話口に椅子を引いてきた万年青は、深く座り込んで電話口の声を聴いていた。 「なあに、心配するな万年青。お前の密造酒のことはばれてはおらん」 「ごめんなさい、姉さま。万年青、悪いことをしていますね。今回は始末書で済みました。ありがとうございます」 「…お前もよい大人じゃ。悪いことの一つや二つぐらい、して当たり前じゃ。ましてや家族を守る立場になったのじゃ、私に頼るぐらいは何でもないことだと思え」 あぐりの声は優しかった。 「今回は私は署長にお前の姉だと、電話を入れただけじゃ。気にすることはない」 「本当に、ありがとうございました」 蔵のそとでは平太の声がする。 カエルを見つけたとはしゃいでいた。 逃がしてやりなよ、と花緒にたしなめられている。 万年青は二人の声を聴きながら、なぜだか泣いてしまいたかった。 そとの声がこんなにも響いてくる。 もう蔵には、蔵人の歌などどこにも聞こえてこなかった 「万年青、大丈夫じゃ」 嗚咽を漏らす万年青の声を、あぐりはしばらく黙って聞いていた。 「そうじゃ、万年青。実はな、少しここを離れることになったのじゃ」 「離れる?」 「あやつの仕事の都合でな。私は嫌じゃといったが、どうしてもとうるさいので行ってやることにしたわ。娘もここではちと空襲が心配なのは確かじゃ」 あやつ、とは義理の兄のことだ。 なんだかんだであぐりとは仲がいい。 「まあ、どちらへ?」 「広島じゃ」 「母上も?」 「そうじゃ。あのばばあ、まだまだ元気なのじゃ。しばらくこちらは留守になるからな」 「姉さま」 「ふん」 あぐりのそんな声に、万年青は少しだけ毒気を抜かれた。 あぐりは女性なので戦争に行くことはない。 そのことが痛いほど万年青をなぐさめた。 「姉さま」 「なんじゃ」 「……お元気で。引っ越されたら、すぐにお電話くださいね」 「……当たり前じゃ」 電話を終えて蔵の外にでると、平太がまだカエルをつついて遊んでいた。 平太さん、と声を掛けるとうれしそうに抱き着いてくる。 しゃがんでその小さな抱擁を受け止める。 「万年青ちゃん、寝てなくて大丈夫なの」 「ありがとう、花緒さん。さすがに疲れたので、もう休みますね」 「平太も一緒に寝るう」 「はいはい。では今晩は一緒にお布団をしきましょうね」 「おねえたんも」 「わかったわよ」 平太は母も父もしらない。 聞こえないくらいの声で、寝入る前につぶやいた言葉に万年青は平太をまじまじと見た。 「平太さん、今なんといったの」 「なんでもないよう」 もじもじとするその様子がかわいらしくて、万年青は平太の頬をつつく。 赤ちゃんのころから、平太の頬はふくふくとしてつい触りたくなるものだった。 「母様っていっただけだよう」 平太はそう言って布団の中に恥ずかしそうに潜る。 そして寝つきの良い平太は、すうすうと眠り始めてしまった。 昼間に十分に体をやすめていた万年青は、その衝撃に動くことができなかった。 「平太さん、万年青を母と呼んだの…?」 それは考えてみたこともないことだった。 父も母も知らない平太にとって、自分が親なのだと、不思議なことに万年青は考えたこともなかった。母様と呼びかけることもかなわないままに親を失った平太を、ずっと気にかけていた。 「ぼくを親だと思ってくれるの…」 「万年青ちゃん」 花緒そっと万年青の手を取る。平太とは反対側の布団に入っている少女が、じっと万年青を見上げる。 「わたしも万年青ちゃんと平ちゃんは、自分の親なんだと思っているわ」 両親によく似ている花緒は、とてもやさしい顔をしていた。 まだまだ幼さの残る少女なのだと、万年青はっとして花緒を見つめた。 さびしい、と言葉にしない花緒。 万年青はそっと花緒の髪を撫でた。 この子たちが、自分の子。 自分が親。 想えばそんなことに一生縁がないと思っていた。 「こんなに大きくなったんですね」 「うん」 花緒には万年青が泣いているように見えた。 「なんてきれいな娘さんなんでしょう、花緒さんは」 つらいことばかりだけではなかった。 ほんの少しばかりの、痛いような温かさも確かにあった。 兄上さま。 義姉上さま。 申し訳ありません。 決してお二人の立場にとって代わろうなどと、思いません。 でも。 それでも。 この子たちがかわいい。 親に呼びかけて答えてもらえるうれしさを。 成長を喜んでもらえる喜びを。 教えてあげたい。 お二人ならきっと教えて差し上げたことを。 抱きしめあげたい。 お二人がきっとそうしたように。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 どうか。 親と呼ばれて喜ぶ万年青を、どうかお許しください。 痛い、と万年青は思った。 泣いていることを悟られまいと布団にもぐりながら、ただ痛かった。 けれどどうしようもなく嬉しくて。 ただ愛しくて。 そう思うたびに申し訳なくて。 生きてきてよかった。 かつて生きながら死んだ同然だった少年は、数十年の人生の中でこの日初めて、心からそう思えた。 「稔、なんてことをしたの!」 その年の秋、杜氏はついに大倉へやってこれなくなった。 仕込みの季節以外ではただの農夫である彼らは、働き手を失うばかりのどの村にとっても、体を壊すほどに仕事が増えているのだった。 腰をわるくした杜氏は、それでも最後まで大倉へ旅立とうとしていたが、それでも立ち上がることすらできなかった。 最後までそれを万年青には伝えなかった杜氏に変わって、少なくなった蔵人ともに稔が門の前に立つ。そのの姿をみて、花緒は思わず声を上げた。 稔は眉一つ動かさず、静かに答えた。 「これで、俺は鉄砲を持てません」 「稔…」 花緒は、すすり泣いていた。 「馬鹿!こんなことをして、私がありがとうなんていうとでも思うの!」 稔の瞳はとても静かだった。 誰になにを言われようとも、もはや戻ることなどできないのだ。 この時代に、健康な男児が兵役を逃れるなど、常識では考えられないことだった。 「命に比べれば、指くらいはなんでもないことです」 合理的に物事を考えて話すたちの稔にとって、それは至極当然の結論だったらしい。 杜氏が大倉へ行けない、と聞いたとたん、行動は早かった。 他の誰も止める間もなく、あっさりと猟銃で右手を吹き飛ばしたのだった。 「稔…、どうしてそこまで」 万年青の言葉に、稔は意外そうな顔をした。 そしてその言葉には、困ったように笑っただけで、ついに答えることはなかった。 指の代わりをしてほしい。 稔はそう花緒に申し出た。 杜氏から差配を引き継いだ稔の指示で、今年も酒造りが行われた。 そして花緒や大倉の女中たち、万年青やこどもの平太も、不足する人手は家の者たち皆で補った。 かつては病人も女も蔵に入ることなど許されなかった。 祖母だけが最後まで反対していたが、万年青が根気強く説得した。 「勝手にせい!」 最後にはそう許しを得た。 「おばあさま、ありがとうございます」 刀自さま、とやっと呼ばなくなったのはこのころだった。 酒造りはもう何年も前から割当制になっていた。 製造する酒の量はすべて国に決められているのだ。 戦前の2割以下の製造量に落ち込んだ大倉を、それでも皆で支えていた。 痛みを感じながら、それでも前に進んでいけることに、喜びを感じていたのは万年青だけではなかったはずだった。 だれもが耐えしのびながら。 それでも、ぽっきりと折れる日は今日ではないことをかみしめていた。 「ことしもできましたね」 「右手を吹き飛ばしといて、よくそんなにのんきになれるわよね、稔。村で風当たりとか考えたりしないの」 「いいんです。泰輔だって戦っているんです」 はっと花緒の手が止まる。 「これが俺の戦争なんです」 皆造のお祝いは、ささやかながらも今年も催された。 稔の食事を世話してやりながら、花緒は涙をこぼした。 「稔…」 「だからあなたが気に止むことは、何もないんですよ、花緒さま」 そんな二人を、万年青は脇息でなんとか体を起こしながら、祝いの膳越しに見つめている。 ふと、花緒もそういう年頃に近づいてきているのかもしれない、と思った。 思い切りがよすぎて稔では不安だな、と世間の親のように、娘にまとわる虫について思いをはせるのだった。 長い長いこの戦争で、この祝いの時だけは誰もが束の間の喜びをかみしめることを、自分自身へゆるすことができていた。 「失礼します。大倉どのはいらっしゃいますか」 玄関にそう来客が来たのは、そんな最中だった。 「わしが行こう」 「おばあさま、万年青が行きますよ」 「ふん、まだお前さんよりも元気じゃわ。疲れておるのじゃ、座っとれ」 「そんなこと申しておりませんよ、一緒に参ります」 まったく、お前は素直なそぶりをしていつも強情じゃ、とぶつぶつ文句をもらす祖母の体を支えながら、万年青は二人で蔵の帳場の方へ出向く。 入り口のランプのもとに、外の闇から国民服の見知らぬ男が顔をのぞかせていた。 「大倉平次少尉の奥方でいらっしゃいますか」 「はい」 その顔に万年青は見覚えがあった。 役場から家々に兵士のその後を告げるのは、この男ではなかったか。 男は黙ってはがきを万年青へ差し出した。 万年青が受け取ると、敬礼が向けられる。 「勇猛果敢なる戦闘の末、7月2日未明、中国東北部にて戦死されました」 俺の死亡広報が万年青の手から滑り落ちた。 誰もが息を潜めた蔵の床に、乾いた音を立てた。
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