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「万年青、いい加減にせんか」 祖母の声が物悲しく響く。 攻め立てるわけでもなく、ただ悲しみをを撫でるように発せられた。 「……ええ」 気の抜けた声が万年青からこぼれる。 囲炉裏の傍にみな自然と集まっていた。 「うっ、うっううっ!平ちゃん…っ、平ちゃん!嘘よ!こんなこと嘘よ!」 仏壇の前では花緒が泣き崩れていた。 血走った目で俺の死亡広報を拾い上げて、びりびりに裂いた花緒は、そのかけらを握り締めたまま慟哭を上げた。 なぜこんなにも家族を失わなければならないのか。 そんな思いが花緒にはあった。 父の優しい手のひら。 厳しい声。 決まって慰める俺のおどけた声。 母のまなざし。 平太は覚えてなどいないが、花緒は覚えている。 だからこそ、何もかもを失ってきたのだ。 最初から花緒の世界にあったものは、一つ一つ失われてきた。 「…もう戻ってこないの?」 平太の幼い声がぽつりとこぼれる。 祖母が平太の頭を撫でる。 「そうじゃ。お国のために、立派に戦ったのじゃ…」 「いや!そんなことない!こんなことの、何が立派なのよ!」 そう言って花緒は仏壇の上の箱をなぎ倒した。 俺の遺骨だと言われて渡された桐の箱からは、形の良い丸い石が転がり出ただけだった。 一緒に倒された大倉の酒が、畳に広がってしみ込む。 「花緒!」 祖母の声は震えていた。祖母もまた、一つ一つを失いながらいきてきたのだ。 「平次がなんのために出征したとおもっておるのじゃ!お前たちやこの国を守るためではないか!それを家族が称えもせんとは、お前が一番罰当たりじゃ!平次の死をなんと思って居る!」 「死んでないわ!平ちゃんは死んでなんかない!こんなの、ただの石じゃない!きっと中国のどこかで生きてる!私のために戦ってくれて、死んでくれてありがとうなんて、絶対言わないんだから!」 「花緒!」 ひときわ大きな声が響く。 「死んだのじゃ!平次は!」 「………う、ああああああああああーんッ!ああああ~っ」 女学校を卒業しようかというころの少女が、声を上げて泣く。 花緒は子供のころから、わき目も降らずに泣くようなことはしない子だった。 人目を避けるために押し入れにこもって、一人で泣く子だった。 まるで幼い子のように花緒は泣いた。 秋と夏。 父と母。 そして俺との別れを。 「お姉たんっ」 感受性の強い平太が、祖母の怒気と姉の涙につられて涙ぐむ。 ふと、いつもなら優しい指がすぐに頭をなでてくれるのに、それがないことに気が付いた。 悲しくて寂しくて指を吸う平太が万年青を見る。 柱に身を預けた万年青は、ぼうっと囲炉裏の火を見つめていた。 祖母の怒声にも、花緒の泣き声も、平太の視線にも、どんなことにも万年青は反応しなかった。 万年青の周りだけはただ静かだった。 「万年青たん」 平太がその膝に甘えるように手を置いても、万年青の両手は床の上に放り出されたまま、だれのことも抱きしめない。 このときの万年青の心の中は、ぽっかりとすべてが抜け落ちたかのようだった。 かなしい その言葉すら沸いては来なかった。 今の自分が感じているものが大きすぎて、その形が分からなかったのだ。 けれど万年青はそのことすらわかっていない。 形が分からないから、言葉にもできない。 言葉にもできないから、万年青は何も話せなかった。 涙さえ流れてこない。 万年青も、自分はいったい何をしているのだろうか、とさえ思った。 時間がたてば花緒は泣き止んだ。 祖母は平太を連れて寝た。 けれど万年青は、その場所からうごくことができなかった。 花緒にも祖母にも平太にも。 万年青は誰にも反応しなかった。 やがて花緒が布団を敷き、祖母が着替えさせてくれて寝かせてくれた。 されるがままに世話を受けながら、万年青は涙が出てこないことがやっと悲しいと思えた。 自分は何をしているんだろう。 どうして何もできないんだろう。 できることが何もないのは、なぜなんだろう。 生まれてからこのかた、嫌というほど感じてきたことのはずなのに、まるで初めて感じることのように万年青はそんな言葉をかみしめていた。 「万年青たん、おなかすいたよう」 平太がそうせっついても、万年青はピクリとも動けなかった。 万年青の頭の中は俺のことでいっぱいだった。 何もできない。 平次はこんな気持ちだったのかな。 ふとそんなことを想う。 兄の体のことを知った俺に襲い掛かった無力感。 悲しむことも、喜ぶことも、そのどちらもできなかった。 悲しめば兄の生き方を否定し、喜べば兄の命を否定していた。 なにもかもが、俺の両手をすり抜けていく。 俺にできることは何もなかった。 篠山のように、麻薬を注ぎ込んで。 兄の命を否定しながら、その刹那の先の夢でも見ればよかったのだろうか。 灰になった兄を抱いて。 篠山は満足だったとは思えないが。 俺の死を悲しめば、俺は何のために戦場で戦ったのだろうか。 俺の死を喜べば、俺は何のために生きていたのだろうか。 そう思うと、万年青の両手から、心から、なにもかもがすり抜けていっていた。 「どうして万年青には灰も残らないの…?」 愛した男の灰を抱いた男の顔がよぎる。 愛する人の命の炎を削り取りながら、その炎に空気を送り続けていた男。 燃え尽きた灰だけを抱きしめて、何を思って泣いていたのだろうか。 あの男のように、自分も何かの役に立っていれば。 そうすれば今、灰を抱きしめることでもできたのだろうか。 「万年青が役に立たなかったからなの…?」 ぼうっとしていると、やっと涙があふれてきた。 かなしい むなしい そのどんな言葉も今の万年青の気持ちではなかった。 言葉では言い表すことなど到底不可能な喪失感の海の中に、万年青はたったひとりで投げ出されていたのだ。 俺との思い出を反芻するたびに、涙が勝手にあふれてくる。 死んだら灰を貰う約束をした男がいた。 万年青は初めて、その男をうらやましいと思った。 やがて3日もすると、万年青は急に日常を取り戻していった。 飲まず食わずで寝込んでいたせいで、体力が落ちて帳場に出ることは難しかったが、部屋に帳面を持ち込んで商いの記録をつけ、電話口に椅子とひざ掛けを持ち込んでお得意先に連絡をしたりした。 まるで俺の死の知らせを聞く前とおなじような働きぶりに、周囲の者たちは気味悪がった。 「万年青、大丈夫か」 遠慮してだれも聞けないので、祖母が声を掛ける。 戦争に行く前の生活と同様に、万年青は俺の言いつけを守って、自分の体の様子を見ながら生活をしていた。できるだけ遅くまで休んで、昼からは自分の部屋で横になる。休憩をたっぷりとって、夕方からまた少し動く。休息さえ十分にとれば、体力を使わない針仕事ならコツコツとこなせていた万年青は、針をペンとそろばんに持ち替えて働いていた。 皆が食べ終わったころに起きてきた万年青は、祖母のそばに座って朝食を取り始めた。 祖母のいぶかしがるような視線を漫然と受け止める。 食欲の戻った万年青は、もくもくと芋を食べながら答える。 「ええ、ずっとお休みをしてしまって申し訳ありませんでした」 「そうか…」 小さい茶碗に薄い芋粥。 少しだけの干し芋。 そんな粗末な朝食を食べ終えて、万年青は一人土間へ降りて食器を片付ける。以前と変わらないその背中を見ながら、祖母は声を掛ける。 「葬儀の準備をしなければならんな」 カタン、と水瓶の木蓋が閉じる。 万年青の半夏生のように淡く白い指先が、震えながら木蓋の取ってを離した。 「葬儀?誰のですか」 万年青は振り返る。 「万年青、お前…。ふざけているのか」 「いいえ。葬儀なんて必要ありませんよ」 万年青の顔ははつらつとしていた。 まるで祖母が冗談を言ったのだとでもいうかのようだった。 「平次は死んでいないのですから」 「………お前は」 万年青は誰に対しても、この日以降ずっとこの調子を貫いた。 狂っている、という印象さえ時には人に抱かせたが、万年青はそうふるまうことにした。 生きている。 いつか帰ってくる。 大倉を頼むとそういったのだから。 だからまだ、平次のためにできることがある。 そうしたら。 ほんの少しでもいいから。 灰でも戻ってきはしないか。 そんな矛盾した考えに自分でも気が付きながら、万年青はそうふるまった。 「お前はわしの孫に、線香も上げてやらんつもりか!」 「平次は生きているんですもの、必要のないことです」 「死んだんじゃ、平次は!」 「いいえ、嘘です。生きています」 「万年青!平次は死んだ!死んだんじゃ!死んだ……、死んだんじゃ…。平一郎も……いねも…。平次も。良平も……お勝も…。皆、死んだんじゃ……ッ!」 良平というのは、祖母の息子のことだった。 お勝というのはおふくろさんのこと。 万年青はほとんど初めて耳にする名前に、祖母のそばに駆け寄った。 「おばあさま」 背中を丸めて、顔を抱え込んで祖母は泣いていた。 あの祖母が、俺なんかのために涙をこぼしていた。 「死んだ!皆死んだ!それをわしは悲しいなどとは思わんぞ!皆精一杯生きたのじゃ!平次も!平次がお前を置いて戦場へ行くのを、悲しまなかったわけがない!あれだけお前を大切にしていたのじゃ!その平次が!」 初めて聞く祖母の胸の内に、万年青の胸はちぎれてしまいそうだった。 初めて会ったころの、厳しいばかりだった祖母を思い出した。 実家に追い返されそうになった日。 離縁を言い渡された日。 そんな日々が一瞬で体の中によみがえった。 いや、厳しかったのではない。 この人は。 「立派に生きたとは思わんのか!わしの孫は、大切なお前を大倉へ残して、そうまでして戦った平次の死が、労わってももらえぬなどあんまりではないか!」 「おばあさま」 万年青の瞳からは涙がこぼれた。 祖母の背中をさすりながら、万年青は自分が祖母を傷つけていることをよく理解した。 「平次!なぜ死んだ!皆なぜ、なぜわしよりも先に死んだ!」 おいおいとわき目も降らずに声を上げる祖母を、万年青はこの日初めて目にした。優しく肩をたたきながら、それでも万年青は告げた。 「平次は生きています…ッ!どうしよう、おばあさま。そう思わないと、万年青は死んでしまいそうなんです……」 万年青はやっと心情を吐露できた。 今この身に襲い掛かる喪失の一部を、やっと言葉にすることができた。 「万年青…ッ」 祖母は泣いた。 泣きながら万年青を見た。 震えながら、どうしよう、とおびえる万年青。 年老いてしわがれた指が、その白い指を包み込む。 かつて苦労もなにも知らないような指だったそれは、ペンとインク、裁縫と酒造りのあとが刻まれた大倉の者の手になっていた。 「万年青や…。そうか…。そうか…」 祖母はかみしめるように、年の刻まれた声でお経のようにそうつぶやいた。 「お前が、生きるためなんじゃな……」 「ごめんなさい、おばあさま。ごめんなさい」 「お前も精一杯、生きようとしているんじゃな……」 祖母はいつまでも万年青の手を撫でて、ごめんなさいとすすり泣く万年青が落ち着くまでそうしてくれていた。 万年青の狂ったようなふるまいを、決して許したわけではなかった。 けれどそうすることでしかもう万年青は生きてはいけないのだと、変わってしまったその手を撫でるたびに祖母は思った。 万年青はついに、俺の葬儀はあげなかった。 祖母が俺の母親を尋ねに行きたいと言い出したのは、そんな日が過ぎたころだった。
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