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「平次のお母上ですか」 万年青は自室に敷いた布団の上に身を起こして、文机に寄りかかりながら祖母の言葉を聞き返した。 何を言っているのだろう、と祖母を見つめた。 「平次のお母上はおなくなりになったのでは?」 「それは平一郎の母じゃ。平次は息子がよその女に産ませた子なのじゃ」 それは万年青が一度も耳にしたことがなかった事実だった。 「平次は…一度もそんな話をしませんでした」 「物心つかんうちからこの家で育ったのじゃ。平次にとっても、会ったこともなければ名前も知らん女じゃからの」 万年青は自分の母親を思い出していた。 後継ぎに妾の子を。 その話が出たとたん、母は半狂乱になった。 決して本家にその子を迎え入れることをよしとしなかった。 大倉には平一郎という立派な男児がいたというのに、なぜ俺はここへ連れてこられたのか。 「どうして平次は大倉へ引き取られたのですか。大倉には平一郎さまがいらっしゃったのに」 祖母は茶を万年青に入れてやりながら答える。 急須から立ち上る湯気が、夏だというのに暑苦しかった。 万年青の問いかけに、祖母はしわの刻まれた手をしみじみと撫でた。 沈黙の後、祖母は深い溜息をついた。 「平一郎は……小さいころから体が弱かったからの。わしのバカ息子が、お勝の家系にお前と同じ病の者がいることをえらく気にしおって」 祖母の語り始めた内容に、万年青は身を乗り出した。 遠い過去を思い出す語り部に対して、自然と布団の上に正座して居住まいをただす。 肩から掛ける兄の上着の裾をぎゅっと握る。 まさか。 健康な子供ではなかったから、たったそれだけで家族として崩壊していった実家を思い出す。 「お勝さんとは、兄上さまのご母堂でいらっしゃいますよね」 「そうじゃ」 祖母はまた深い溜息をついた。 「バカ息子は芸者遊びにかまけたかと思えば、ふと血筋を思い出したのじゃ。そして、気に入った女を囲って平次を産ませた。わしは反対じゃった。平一郎を差し置いて、妾の産んだ子にこの大倉を継がせるなど、もってのほかじゃ。妾のもとで育てればよいものを、息子は弟がいたほうが蔵が助かるといって引き取りおった」 万年青の胸には、平一郎が俺をがみがみと叱っていたあの頃のことが、ぐっとよみがえってきていた。自分の病を知っていた平一郎が、俺のことをどう思っていたのか。 健康でないからと、まるで代替品のように突然弟ができた平一郎が、自分の人生について何を思ったのか。 俺は生きたかった。 俺の酒を造るんだ。 生まれてきた意味を形に残すことに、生涯固執し続けた平一郎。 自分という人間が、替えの効く存在などではないと確信したかったのかもしれない。 俺が生まれた。 ただそれだけが、平一郎を追い詰めていたのだ。 万年青の瞳には涙の膜がじんわりと張っていた。 兄さんの嫌がることは、何一つしたことがないんだ。 そう俺が話したことを思い出していた。万年青はそれを、命を削って生きることを受け入れたことを指していたのだと思っていたが、本当は。俺の顔が泣きそうにいつもなっていた、あの意味は。 自分の存在こそが兄を死に駆り立てたきっかけなのだ、と知っていたからなのでは。 「ああ、平次!」 嘔吐のような悲しみが、万年青にこみあげてきた。 「あんまりです!どうして!」 平一郎が命を懸けたものが、報われる形であってほしい。 俺は何度も万年青にそういいきかせて、平一郎の跡を継いできた。 全部できた、と最後の言葉を口にして、満足そうに逝った平一郎。 そのそばで泣き崩れていた俺。 兄の死は、俺の罪が確定した瞬間だった。 「兄上さまはあの大吟醸が、『花緒』がある限り報われるでしょう!でも平次は!兄上さまを亡くしてしまった平次は、もう二度と報われない……ッ!あれだけ兄上さまのために手を尽くしたのに…、平次だけが…ッ」 「万年青…」 「どうして?健康で、力持ちで、明るくて優しくて……ッ!なのにどうして平次がこんなにも報われないの!どうしてっ、どうして平次がこんなにつらい思いをしなくてはいけなかったの!平次が何をしたというんですッ」 「そう思うなら、平次の葬儀をあげてやらんか」 「いや!嫌です!平次は生きてる。きっとそうなんです!あんな人が、あんなに立派で…ッ、かわいそうな人が……死ぬなんて間違ってる!」 「間違っているかどうかなど、関係のないことじゃ。そう泣くな。お勝も良平も平次を実の息子のようにかわいがった。平次も自分が妾の子じゃとは知っておったが、息子たちを親と思って育った」 「兄上さまの代わりにするために生まれて、必要がなかったから弟として一生兄上さまに仕えるように言い聞かされて育てられて!ひどい…ひどい!平次!」 蔵のために。 この時代、特に俺の育った村ではその傾向が強かった。 家の存続のために、弟には何も自由にできる財産がない。 結婚さえも家長の許しがいる。 俺はこの大倉のために引き取られたのだ。 「結果的に平次が大倉の者として育ってくれてよかったが、わしは反対じゃった。あのような女の産んだ子じゃ」 「あのようなとは」 「芸者じゃよ。平次の母親は、葛西坂の芸者なのじゃ」 葛西坂と聞いて、万年青ははっとした。 秋と夏の懐かしい顔が目に浮かぶ。 特に秋には、平一郎が情けをずっとかけ続けていた。 家族を家を支えようとする姿が、自分と重なったからなのだろうか。 最後に握らせた上等な袱紗を、いまも秋は持っているだろうか。 「じゃがあれでもわしの孫じゃ。……せめて実母に弔ってもらうぐらい、かまわんじゃろ。な、万年青」 夏の強い日差しが縁側に降り注ぐ。 軒下の風鈴が、りーんりーんと涼しい音を立てる。 遠くに泣く蝉の声が聞こえる。 震えるような万年青のすすり泣きが、いつまでも続いていた。 祖母が話題にもしてこなかった俺の母のことを口にしたのは、俺に対する弔いの気持ちからだった。頑なに俺の死を認めない万年青は、仏壇に写真を飾ることも遺骨の箱を置くことも拒否した。 祖母は万年青のその考えに、反対はしなかった。 誰にも弔ってもらえない俺を、せめて実母なら。 そう祖母は思ったのだった。 泣き伏した万年青は、最後には祖母の考えに頷いた。 祖母は嫌がったが、まさか一人旅をさせるわけにもいかない。万年青が一緒に行こうとしたが、どうしても税務署に呼ばれていたため、結局は花緒が一緒に行くことになった。 モンペ姿の二人が汽車に乗り込むところを、万年青は平太の手を引いて見送った。 同じ汽車からはたくさんのやせ細った都会の人々が下りてくる。 皆一様に大きな荷物をもっていて、それはすべてこの田舎で食料と交換してもらうためだった。 「万年青ちゃん、あれ…」 「ええ。花緒さん、都会はきっと今この村より貧しい。気を付けてくださいね」 「うん」 「宿についたら、すぐに電話をしてください」 「わかってるわ」 「花緒、早うせんか」 「はあい、おばあさま」 もうこのころになると、都市部には空襲が頻繁に行われ、深刻な食糧不足に見舞われていた。今日明日の食事をもとめて、たくさんの人々がこうして田舎に殺到して、一軒一軒頭を下げて食料と焼け残ったわずかな財産とを交換してもらうのだった。 この村も決して豊富に食料があるわけではなかった。 密造酒用に神田に植えていた酒米も、その食糧苦にうるち米へと植え替えを余儀なくされていたのがこの年だった。 もうだめなのかもしれない。 密造酒の売れ行きを計算しながら、万年青はそんなことをよく思っていた。このままの調子で食料を分け与えていたら、大倉の家人の食べるものがなくなってしまう。 しかし、神田の酒米を食用の米に変えれば、まだ少し持つかもしれない。 平次ならどうするだろう。 兄上さまならどうするだろう。 互いをこの上なく傷つけ合い、それでも助け合ってきた兄弟。 大倉を、この蔵を途絶えさせてしまえば、二人の人生はいったい何だったのだろうか。 「さあ、平太さん、万年青は出かけてきますからね」 「うん。いってらっしゃい」 女中に平太を預けると、万年青は税務署へ行くために服を改める。 土間の方から、ふかした芋をおやつに貰っている声が聞こえてくる。 床板をきしませて部屋へ戻ると、縁側からは枯れた甜瓜の蔓が見えた。 タンスを開けて、白い着流しを取り出すと、その下に俺の着物が見えた。 平次 その悲しみは嘔吐のように万年青を襲った。 無理やり日常を取り戻したけれど、崩れ落ちて立っていられないほどの気持ちが、万年青の都合など関係なく気まぐれに彼を打ちのめしていた。 大倉のことを知れば知るほど、あのころに見えていた景色が変わっていく。 いま会いたい。 なにも悪くないと、平次が納得できるまで抱きしめたい。 それだけなのに。 「どこにいるの…。いま、一人なの…ッ」 中国の冷たい土の上に倒れる俺の姿が、万年青の脳裏に浮かんで消えた。 税務署からの呼び出しは、大倉に張り詰めた空気をもたらしていた。 少数のこった女中と手伝いの少年たち。 村のために女子供をできるだけ雇った大倉にとって、存続は村の運命を左右する死活問題だった。 農地を借りる小作たちはまだよかった。 大倉酒造の桶やたがを造っていた家、荷運びをしていた家、人力をしていた家。 この蔵がなくなれば、蔵を支えていたあらゆる家族たちが、この戦時中の厳しい食料難の中に投げ出されてしまうのだ。 万年青はその日、俺の着物を襦袢替わりに袖を通した。大きな袖と丈を少しばかり糸でつめ、その上から自分の白い着流しを身に着ける。そして、兄も俺も袖を通した、大倉の法被を着た。 「万年青に力をくださいね……」 神棚の前で万年青はそう祈った。 松尾さま、と口にすると懐かしい気がした。 「では少しいってきますね、平太さんをよろしくお願いします」 女中にそう声を掛けると、緊迫した空気に包まれた女中の一人が、深々と頭を下げた。 「いってらっしゃいませ、旦那さま」 万年青はその言葉にはっとして、その下げられた頭を見つめた。 嫁いできたころに、井戸の水から何まで教えてくれたのはこの人だった。 名前をお千代さんといった。 旦那さまではない、と否定するなど無責任だった。 「いってまいります」 門の前に用意されていた人力に乗り、声を掛ける。 「出してください」 「はい、旦那さま」 車輪が持ち上がり、ゆっくりと動き始める。 託されたものの大きさを、万年青は受け止めなければならなかった。 戦時中、多くの酒造が強制的に営業停止に追い込まれていた。 精米制限令によって、まず米を削る割合を制限された。 公定価格が設定され、酒の値段が決められて収支のバランスは崩れた。 食糧管理法が制定され、酒造米さえ配給制となり粗悪な酒米しか手に入らなくなった。 アルコールを添加することが奨励され、酒の味や風味は地に落ちた。 酒そのものが配給になり、大倉を支えるのは密造酒となった。 それでも万年青は泥をかみしめるような思いで酒造りを続けてきた。 そして戦時中の経済統制によって、複数の酒蔵が統合された。統合とは、実際には酒蔵の営業停止を意味する。この国に8000以上あった酒蔵は、3800前後までその数を減らしたのだった。 「どうかもう一度ご検討ください、お願いします!」 「大倉さん。いくら頭を下げられても、これはもう決まったことです」 「うちの蔵には、ここしか生活の糧のない者がたくさんいます、どうか」 「何度あなたのお願いを聞いてきたと思っているのです!どれだけの優遇を大倉が受けてきたか!あなたのご実家が頼りだったとしても、今回はもうあきらめることですな!これ以上大倉だけを特別扱いすることはできません。これはあなた方へのいやがらせなどではない。これが国策なのです!お国のためなのです!」 万年青は税務署の荒れた床板に膝をついて懇願した。 しかし署長の声が容赦なく落ちてくる。 「あきらめなさい!」 「どうか、どうか!」 嫁いできた日が脳裏によぎる。 勝手に祝言を挙げたこと。 お前は何も悪くないと言われたこと。 吟醸酒を目指す話をされたこと。 酒米の田植え。 蔵人たちの歌う歌。 兄の顔。 俺の顔。 大吟醸・花緒が金賞を取った日のこと。 なにもかもが、過ぎ去っていく。 ただ万年青だけを残して。 「大倉酒造は本年をもって廃業処分とします」
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