61人が本棚に入れています
本棚に追加
/73ページ
37
経済統制の中、配給制度は多くの人たちを飢えさせていた。需要と供給のバランスは完全に崩壊しており、この国のどこかが空襲で焼かれるたびに、社会を支える経済の流れは濁り、鈍くなっていっていた。
しかし人というのたくましいもので、あの万年青が密造と密売に手を出したように、今や公然と街では闇市が横行していた。
「うわあ!すごい!砂糖も塩もこんなにある!」
宿で待っているように言われた花緒は、すこしだけと自分に言い訳をして闇市に来ていた。本当は祖母と一緒に葛西坂へ行きたかったが、祖母が強く拒否したので仕方なく別行動をとることにしていたのだった。
「…あるところにはあるのね」
農地のおかげで食べるものにはそれほど困らないが、それでも砂糖や塩は配給に頼らざるをえない。甘いものなどねだればすぐに出てきた時代を、平太は覚えてなどいないだろう。
花緒は自分の上等な着物で砂糖を買い求めた。
今は美しい着物よりも、小袋一杯の粗悪な砂糖のほうがはるかに価値があったのだ。大倉の跡取り娘として何不自由なく育った花緒にも、戦争は価値観の変容を迫ってきたのだった。
かばんに砂糖をしまい込んだその時だった。
聞きなれないサイレンが青空の下に鳴り響いていた。
「な、なに?」
バタバタと闇市の人々が逃げまどい始める光景に、花緒は驚いてそう漏らす。近くにいた見知らぬ男が花緒の腕をつかむ。
「アンタばかか?!空襲だ!早く防空壕へ逃げるんだよ!」
空襲
それは田舎に暮らす花緒が経験したことのないものだった。
人にもまれながら狂乱の中を流されていると、その男に腕を引っ張られる。
「こっちだ!」
「あッ」
「こっちに防空壕がある。走れ!」
訓練では知っていたが、花緒は空襲とはどんなものなのか実感がなかった。手を引っ張られながら、男の速さに必死でついて行くと、ばらばらと豪雨のような音が聞こえる。
はっとして空を見ると、縦長のキラキラと光る何かがはるか上空から落ちてきているのが見えた。
「馬鹿か、見るな!」
ばっと男が花緒を抱え込む。
数秒もしないうちに、ばりばりという音があちこちで聞こえてきた。
同時に悲鳴と熱風が周囲を襲う。
なおも走りながら顔を上げると、そこにはほんの数分前の都会の日常はどこにもなかった。
燃え盛る火
髪や服に火が付いたまま逃げまどう人々。
家屋に突き刺さる縦長の、銀色の筒。
「あれが、焼夷弾…」
「何言ってるんだお前は!」
田舎のお嬢様育ちの花緒にとって、町そのものが無差別に焼き尽くされるなど初めての経験だった。
「入れてくれ!女の子だけでも!」
「もういっぱいだ!これ以上は無理だ!」
男が防空壕の戸を叩くが、中からは拒絶の声が聞こえてくる。
その老女の声に、花緒はやっと現実に追いついた。
「おばあさま……ッ」
「ああ?」
「わ、わたし、おばあさまのところに行かなくちゃ!」
「この炎の中をか?危険だ、お前はこの防空壕へ入れてもらうんだ」
「でも入れてくれないって言ってるじゃない!葛西坂はどっちかしら、私、行かなくちゃ!」
「葛西坂…、あっちならまだ火の手が少ないか…?」
花緒と男のほかにも、防空壕の前には人だかりができていた。
皆中へ入れてもらえないのだ。
ごうっという音に花緒が振り向くと、今まで逃げてきた道が炎の柱に包まれていた。
じりじりとほほが燃えるようだった。
「…平ちゃん」
花緒の脳裏には戦争に行った俺の姿が浮かんだ。これが、こんなにも圧倒的に人の命を奪おうとするこんなことが戦争。初めて花緒が感じた命の危険だった。
「行くぞ!」
男と花緒は炎の中を逃げた。
たすけて、と全身を炎に包まれた人を見捨て、家屋につぶされたまだ息のある人を見捨て、ひたすらに炎から逃げた。
「おばあさま、おばあさま!」
たどり着いた葛西坂はすでに炎に包まれていた。
「花緒さま、なぜこんなところに!」
「篠山さん、おばあさまは?!ここへ来ていたの、平ちゃんの戦死をここにいる平ちゃんのお母さまに知らせにきていたの」
「おばあさまはもうずいぶん前にここを発たれましたよ。ここはもうだめです、早くお逃げください!川へ!どの防空壕ももはや入れますまい。どなたかはしらないが、花緒さまを頼む!」
男は篠山をまじまじと見た。
「お前は逃げないのか」
「……女郎たちより先には逃げられん。川から西へ行け。もう焼け切って火が少ないかもしれん」
「わかった」
篠山は葛西坂の芸妓たちを逃がすために、炎の荒れ狂う廓の中を戻っていく。秋野と夏野の腕を引いて、篠山もまたこの空襲の中を逃げまどうことになるのだった。
こんなにも近くにいたというのに、花緒とその姉弟たちは邂逅することさえできなかった。
「行こう、こっちだ!」
「おばあさまを探さなくちゃ!」
花緒は混乱してそう口走ったが、男に諭される。
「今は自分が生き残ることのほうが先だ!」
ごうっとまた火の手が上がる。
割れた窓ガラスの破片が道路に散らばる。
足元に燃え盛る材木の破片。
落ちてくる焼夷弾。
一歩ずれれば自分も死んでいたかもしれない。
さっきまでいた場所が爆弾で吹き飛ぶ。
そんな中を花緒は逃げまどいながら、視線では必死に祖母を探していた。
なんとか火の手の少ない石橋の下に逃げ込む。
川には多くの人が火から逃れて飛び込んでいて、息がある者もいればやけどに覆われてすでに息絶えている者もいた。ぷかぷかと死体の浮かぶ川の物陰に身を潜め、その光景を見つめる。
それはまるで地獄だった。
「こっちだ!橋の下に逃げてこい!」
男は逃げまどう親子を見つけると橋の下に呼び込んだ。
先に逃げていた者が声を荒げる
「勝手なことをするな!これ以上は入らない!」
「橋の下なんて誰のものでもないだろうが!俺が出ていく。だからこの人たちを入れるんだ!」
そう言って男は親子の逃げ込む先を用意してやった。川の水を頭からかぶる男は、花緒を振り返った。
「あんた名前は?」
「は、花緒。大倉花緒」
「じゃあ、もしも大倉花緒を知っているばあさんがいたら、ここの場所を教えておくよ」
見ず知らずの自分を助けてくれた男の顔を花緒はやっとまじまじと見た。
俺よりも年下の青年の顔は、どこか品があった。
精悍な顔つきの青年にはっとして、花緒は着物を入れていた風呂敷を取り出して水につける。
「これ、持って行って!頭巾にしてかぶれば火除けになる」
青年は少し笑ってそれを受け取った。
「ありがとよ」
「…お礼を言うのはこっちだわ。あなた、名前は?」
「俺は近江源という。花緒、元気でな」
ぽん、と大きなてのひらが花緒の頭を確かめるようになでる。
源はそれっきり、燃え盛る炎の街の中に飛び出して行ってしまった。
焼野原になった街を花緒は呆然と歩く。
人の体の焦げるにおいが周囲に漂っている。
「あの、人をさがしているんですが…」
目につく人にそう聞いて回るが、皆花緒と同様に疲れた顔をして首を振るだけだった。
駅にけが人が集まっていると聞いて、花緒はひとまず駅に向かう。
両腕にカバンを抱えて何とか歩く。逃げる際に火が燃え移って、紐の部分がだめになってしまったが、カバンの中身は無事だった。電話を借りることも帰りの電車に乗ることも何とかできそうだった。
一面の焼野原のなかを、不愉快なほどに生ぬるいかぜが撫でていく。
花緒が初めて経験した空襲は、終戦間近に行われた空襲の中では最大規模のものだった。
「おばあさま…」
焼け出された人びとの中を祖母を探して何時間も花緒は歩き続けた。
夜になっても探しつづけ、やっと明け方に祖母をみつけた。
半分焼け落ちた病院に運び込まれていた祖母は、爆弾の炎に全身をあぶられて危篤の状態だった。
「これはもう、手の施しようがありません。今晩が山でしょう」
「それだけなのですか?せめて痛み止めか、解熱剤でもいただけないのですか」
「もうこの人は死ぬんだ。そんなものはもったいない」
かつて自分にかけられた言葉と同じ言葉が、祖母に向けられて万年青は愕然とする。
「そんな…」
街で空襲があったことを聞きつけた万年青が人をやって花緒と祖母を大倉へ連れて帰ってきたのは、それからすぐだった。万年青は花緒を抱きして泣き崩れた。
意識のもうろうとしている祖母のために医者をよんだが、匙を投げられてしまう。
万年青は祖母の枕元に座りこんだ。
「万年青や……大倉は、税務署は何だった」
今わの際だというのに、祖母は大倉のことを気にかけていた。
「………」
万年青が口ごもると、祖母の語気は荒くなる。
「言わんか!」
大きな声が体に響いた祖母は、やけどの痛みにうううとうめく。
「お、おばあさま!」
おろおろと万年青は手を伸ばしたが、もはや皮膚が何かにふれるだけで激痛を伴う重症にしてやれることは何もなかった。
「申し訳ありません……もう。もう、大倉は酒造りをつづけることができなくなりました」
ぽた、と畳に涙が落ちる。
万年青は情けなかった。
結局自分は何も守れはしなかったと、自責の念があふれかえりそうだった。空襲の中を花緒が、祖母がどれだけ心細く逃げまどっていただろうか。そんな時に一緒に手をひいて逃げてやれなかった自分が情けなかった。
しかし万年青の手に、包帯の撒かれた祖母の手がそっと触れる。
「万年青や」
その声はひどく優しかった。
万年青は泣きながら、俺や兄は祖母と似ていたのだと思った。
俺たちの優しい声に、そっくりの声色だった
「今まで、よくやった。お前は立派な大倉の人間じゃ」
離縁を何度も迫られた。
役に立たない体だと叱責された。
けれど。
けれど万年青にとって、祖母がいなければここまではこれなかった。
「おばあさま!」
祖母は怒るだろう、情けない奴だと、罰当たりだと自分を責めるだろうと思っていた。
しかし何一つ責めることなく、祖母から発せられたのはねぎらいのことばだった。
申し訳ありません、と泣き崩れる万年青。
すすり泣くその姿に、祖母は朦朧としながらも声を掛けた。
「つらかったじゃろう……。お前はよく…よく頑張った」
よく頑張ったと、祖母の褒められることはうれしいはずなのに、万年青はどうしようもなく悲しかった。
祖母はそこから容体が急に悪くなり、大倉の家には一晩中祖母のうめき声が響いた。
「花緒さん、もう休んでください」
「ううん、ここにいる。おばあさまと一緒にいる!」
花緒はそういって万年青と一緒に枕元に張り付いた。
しかしまだ幼さの残る少女に、一晩中痛みにうめく祖母の姿を見せることはあまりにも酷だった。
「もうおばあさまから離れない!」
万年青はあまりにも花緒が哀れで、抱きしめた。
「花緒さんのせいじゃありません…大丈夫。おばあさまが花緒さんを責めたりされませんよ。どんな人もどんな最後も、精一杯生きた証なのだと。そうおばあさまならおっしゃります」
祖母が万年青に話したことを話しながら、万年青は花緒を慰めた。
万年青は祖母の突き放すような言葉が、残された者を慰めるためのものだったのだと、そう心から思えた。
「おばあさまは、とってもお優しい方なのですよ」
泣き疲れた花緒は夜半になると眠り込んだ。
上から布団をかけてやりながら、万年青は静かに仏壇へ向かった。
ブリキの箱を取り出すと、祖母のそばに座る。
万年青は迷っていた。
こんなことは。
心の中で自分が自分を止めている。
しかし祖母がうめき声をあげるたびに、万年青は熱や痛みにもてあそばれる苦しみを思い出して涙があふれてしまう。
せめて。
せめて安らかに。
震える手で祖母の腕に結束バンドを巻く。
痛みから、熱から、動かない不愉快なからだから解放されるために、平一郎が用意したそれ。
平一郎が篠山に用意させていたそれは、純度の高いモルヒネだった。
「万年青や」
はっとして万年青は手を止めた。
「ありがとう」
万年青が祖母にできる最後の親孝行だった。
最初のコメントを投稿しよう!