椿の墜ちるころに1

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椿の墜ちるころに1

椿という花は、一番美しく咲いた後は、首からふっと地面に落ちる。 雪の上に広がった紅い花びらは、まるで鮮血のようだった。 ************* 「篠山さん」 まだ明かりのついていない置き屋から出ようとすると、子供の声が呼びかける。 手下の男が熊のような体を向けて、奥から三味線を抱えてやってきた秋野にすごむ。 「てめえ、篠山さまだって何度教えたらわかるんだ」 秋野はすごまれても何とも思わない様子で、冷たく手下を見つめた。それもそうだろう。理由もなく商品に手を挙げる男ではない。父親とは違って、自分を傷つけたりはしない。それならば秋野にとってひるむような相手ではないのだ。 平一郎から頼まれてこの置き屋につれてきたときは、あまりにも小汚くて女将たちに文句を言われたものだが、磨き上げると夏野も秋野も、なかなか見られるようになった。 冷たい板張りの上で、白い足袋が寒そうにのぞいている。 「なによ、あたしはね、篠山さんって呼ぶお許しを買ってるの。ちゃんとお代を払ってることに文句を言われる筋合いないわ」 「店だしもまだなくせに、何寝言ほざいてやがる」 「熊、いいんだ。こいつはほんとにお代を払ってるんだぜ」 俺がそう諭すと、熊は驚いたように振り返った。 「ほんとですかい」 「一括で頂戴してるが、さあ、さっさと芸を納めて店だししてもらわねえと、いただいた分が足りなくなるぜ、秋野」 「わかってるわ、だから教えてあげようとおもったのよ」 勝気な様子を隠そうともせずに、秋野はふふんとわらう。 俺が秋野と夏野を買った金から、秋野は本当に代金を先払いしてきた。 これから行く場所は、金さえあればなんだって買える。 お前も金を持てば、誰にだっていうことを聞かせられる。 そう話して聞かせると、真っ先に俺の呼び方を買ったのだ。 「わたし、三味線のお師匠さまに一番筋がいいって言われているのよ。絶対に売れっ子になるんだからね」 「なんだ、そんなことを伝えにきたのか。売れっ子になって当たり前だぜ。はやく俺に何でも言うこと聞かせろよな」 お金があったら何でも言うことをきくか。 秋野はそう俺に聞いてきた。 とんでもねえ女になるかもしれねえな、と思ったものだ。 じゃあな、と店を出ると、空は曇り切っていた。 「まったく、どんな芸妓になることやら。あれじゃ先が思いやられますぜ、兄貴」 「べそべそ故郷を惜しんで、下らねえ身請けを夢見るよりいいじゃねえか」 葛西坂の置き屋は昼間は火を消している。 秋野のいる表通りに面した妓楼から少し離れると、ちょうどよく夏野が手代に手を引かれて歩いていた。ずいぶん伸びた髪をお福に結って、女物の着物を着ている。 「よう、夏野」 「篠山さん!!」 手代は俺を認めると手を放し、控えるように傍に膝をついた。 夏野はお許しを貰えたことに喜んで、俺の足物へ駆け寄る。 「稽古帰りか」 「はい!」 ここいらの陰間は子供のころからよくしつけられる。店の外を歩くときは、たとえ稽古の道中だろうと手代に手をひいてもらって歩かなければならない習わしだった。 夏野の手を引いていたのは、遣り手の手代だった。 それだけ目を掛けられているようだ。 「ぼく、踊りが上手って今日お師匠さまに褒めていただきました!」 「そうかそうか」 なんでだかよくわからないが、秋野も夏野もほめてくれと言わんばかりにそんな報告をする。 「お師匠さまは秋野姉さんにも、ぼくのお話をしてくれるでしょうか」 普通、置き屋が違えばあまり話をすることはない。仕込み同士で稽古帰りに話し込むことはあるだろうが、陰間たちは手代に手を引かれるので、そんな子供同士の時間もままならない。 それもそうだろう。女よりもはるかに賞味期限が短いのだ。早く一人前にならなければならない夏野には、同じ稽古場の誰かと仲良くなる時間はない。だから姉の噂話を知ることも難しかった。そしてそれは、姉の秋野もそうだった。 しかし芸を磨けば、噂は嫌でも耳に入る。 芸事の師匠たちが姉に自分の話をしてくれないかと、淡い期待を寄せているのだった。 「なんだ、そんなことか。お駄賃くれたら、おれが伝えといてやるぜ」 「え?!ほんとう?」 からかうようにそういうと、夏野は一瞬喜んだが、しゅるしゅると困ったようにしぼんでいった。 膝をついた手代にだっこをせがむように寄りかかる。 「でもぼく、お金持ってない・・・」 ずっと黙っていた手代が、ぎろりを俺をにらむ。 「篠山殿。そのお駄賃とはいかほどか。あまりうちのに無理を言ってからかわないでいただきたい」 「なんだよ、つまんねえ奴だなお前は。たばこ一本分でいいぜ」 「だ、そうですよ。夏野さま。さあ、これをそこのに渡しておいでなさい」 「でも…」 「たばこ一本ぐらいで遠慮なさいますな。がんばったご褒美ですよ。これからお師匠さまに褒められるたびに、たばこ一本帳面につけましょう。そこから篠山殿に好きにお支払いになるとよろしい」 夏野はまだもじもじとしていたが、手代が手に握らせると礼を言って懐紙につつみ、俺へ差し出した。 「はい、篠山さん」 「熊、受け取れ」 「へい」 熊に受け取らせると、しびれを切らした手代が夏野を抱え上げた。 「さ、お別れを」 「篠山さん、また…!」 「おう」 夏野はどうやら、秋野以上に妓楼に目を掛けられているようだった。 手代の腕から、こぼれんばかりの着物の裾がのぞいている。暖簾のように風に揺れる贅沢な絹地にくるまれて、夏野は手を振った。 葛西坂は街の中心部よりかは外れたところにある。 この街で女衒を生業としてずいぶん経つ。気が付けばあちこちに商売は広がり、顔も肩書も増えていった。自分の商売一本で立つまでには、すでに背中には鮮やかな彫り物が入り、組のなかのなんとかという跡目も継いだ。 近頃は戦争のおかげで景気もいい。あの夏と秋の父親も、戦争の特需のおかげで増えたタコ部屋へ放り込んで金にしてやった。 どうやったってこの街の泥を、肺いっぱいに吸い込んでいきていくだけだ。 ずっとそう思って生きている。いままでも、これからも。 ただそれを、さらに深く、より濃く、より強く望むようになったのは。 篠山の脳裏に、秋と夏を買えと言ってきた男の顔が浮かぶ。 自分のいうことならなんでも聞くんだろ、と当たり前の顔をして、篠山にいつも無茶を言ってくる。 平一郎という男はそういう男だった。 「ああならねえといいが」 夏野の将来を想いうかべて、つい言葉が漏れる。 あんな男はそう何人もいないほうがいい。 ましてや陰間があんな気質になろうものなら、花街はきっと痴情のもつれで毎日流血沙汰になってしまうことだろう。 けぶるような白いうなじを思い出して、篠山は無性に腹が立ってきた。 何度泣くほど求めさせても、抱きつぶしても、その見下すような視線は変わらないし、欲しいもののためなら平気で篠山の兄貴分たちや親分にも股を開くようなことをする。 どれだけ求めて、囲っても、欲望のままに金を与えてやっても、まだ足りないといつだって満足しない。こっちの独占欲を見透かして、すぐにほかの男の影をちらつかせては、欲しいものがあるだの、頼み事があるだのと言ってくる性根の腐り切った平一郎。 ……一番腐ってンのは、あいつに惚れちまった俺だな。 たばこに火をつけて、立ち上っていく紫煙を見つめながら、篠山は一人そう毒づいた。 「兄貴、どちらまで」 「ああ、俺はこのまま戻る。お前は親分のとこに顔出してきといてくれ」 「へい」 街の空には鈍い色の雲が下りてきていて、しきりに雪を降らせていた。 暗い廊下で電話が鳴る。 「おい、熊!電話が…、ああ、親父のとこだったな」 誰も取るものがいないらしく、仕方なく受話器を取る。 「―――――俺だ」 電話口は無語だった。 「誰だ?」 そう聞いても返事はなかった。 耳を澄ませると、遠くに汽車の汽笛が聞こえる。がやがやと騒がし喧噪も。 ――――――駅。 その場所からの電話に、はっと息が詰まりそうになった。 篠山には一人だけ心当たりがあった。 「平一郎なのか?」 電話口からは相変わらず構内の足音や蒸気機関車の機械音が遠くに聞こえる。 少しだけ、電話口の吐息が震えたような気がした。 平一郎は普段大倉の田舎から電話をかけてきていた。 だいたいが金か薬の無心だった。 駅から掛けてくることなどない。 街に用事で出てきていても、要件がなければ篠山に挨拶の一つもしに来ないような男だからだ。 ーーーーーーーああ、もうだめなのかもしれない。 篠山にはその無言の電話だけで、胸が押しつぶされてしまいそうだった。 脳裏にあの酒のことがよぎった。 今日、たった一人で、東京の駅にいる。 何のために? あいつの酒は、大吟醸・花緒は、もう完成した。 品評会やら、売り込みやらで忙しくするだろうと平次から聞いていただけに、篠山には平一郎がそれらを置いてまで、よほどのことがない限り街へくるなど思えなかった。 街へ出て何をする? いや、何もすることはもうないのだ。 街にも、大倉にも、そしてこの世にも。 だから電話をかけてきた。 もうだめなのだろう。 もう、これ以上は。 「―――――迎えに行く。そこに居ろ」 そういうと、相変わらず電話口は無言だった。 しかし篠山の言葉はしっかりと伝わったのか、電話は向こうから切ってきた。 篠山はざわざわと騒ぐ胸を押さえながら、急いで駅へ向かった。 脳裏には、いつだったか戯れにした約束がよぎっていた。 ーーーーーーーなあ、篠山。俺が欲しいか? あざ笑うかのようにそう聞いてきた平一郎は、無邪気に篠山のたばこを取り上げて吸う。 紫煙をふうっと吹き付けながら、薬で上機嫌になった平一郎は、篠山のものを食い締めてなまめかしく腰をねっとりと動かしながら、あ、と低く声を漏らす。 ーーーーーーー欲しいだろう? その時、篠山は答えなかった。 熱い平一郎の中で、奥歯をかみしめながら射精をこらえていたからだ。 ―――――てめえ、調子乗んなよ。 なんとか言えたのはそれだけだった。 ―――――俺が死んだら、骨をやってもいい。そのかわり、俺が死ぬまでは。 傲慢で高飛車な言い草に本気で腹が立っていたし、数時間前に頭相手に浮気してたことにも本気で殴り飛ばしてやりたかった。腰を掴んで下から突き上げると、中が震えて甘えるように締め付けてくる。 たばこを取り上げて灰皿に入れると、平一郎は少しだけおとなしくなって、中から突き上げ、壁をこすり上げて出入りする篠山に、多少は集中した。 あ、んん、とほどよく低いおとこの喘ぎごえが漏れてきたことに気をよくしていると、平一郎の指が篠山の髪を掴み上げて、上を向かせ唇を奪ってきた。 ―――――俺が死ぬまでは、お前は俺のもんだ。 篠山はその時もう限界が近づいできていて、早くこの馬鹿のはしたない穴で、めちゃくちゃに腰を振って果てたいという思いしかかなった。 なんと自分が答えたのか、正直わからない。 だが平一郎にとって満足のいく答えだったのだろう。 とても喜んだ顔をしていたことだけは、よく覚えている。 そのあとすぐに押し倒して、重い腰をめちゃくちゃに振って果てようとする中、平一郎は珍しく俺の名前をずっと呼んで、背中に爪を立てていた。 かなえられることのないむなしい独占欲とともに奥で果てると、汗ばんだ平一郎の足が体をぎゅっと寄せてくる。篠山の吐き出す鼓動に感じ入って、中が搾り取るようにぎゅっと締まり、びくびくとからだを震わせて平一郎も果てていた。はあ、はあ、と息を震わせながら、目じりに涙をためて口を開く。 ―――――俺が死ぬまで、ちゃんと待てができるか? 人のものを咥え込んで、淫乱に腰まで振って果てておきながら、そんなことをいう。 死ね、くらいには思ったはずだ。 それぐらい本気で腹が立った。 完成した大吟醸。 無言の電話。 その二つがどうしても胸をかき乱す。 「……あの馬鹿ッ」 くだらない約束のために? あの平一郎が自分に電話をかけてきたのか? あんな馬鹿みたいに理不尽なお前の思いついた、お前しか得をしない約束のために。 そんなもののために、家族のそばではなく、俺のところで最期を迎えようとしているのか? いつもの薬の無心であってくれることを願いながら、篠山はもう自分の予想が当たっていて、平一郎がもう持たないのだろうと、どこかでわかっていた。 それはもう、嫌というほどに。 その電話は、平一郎が息を引き取る、少し前のことだった。
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