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椿の墜ちるころに2
駅の構内は薄暗く、行きかう人々も一様に冷え込んだ空気に身をかがめていた。
連れと話しをしながら、足早に立ち去っていく人々をかき分け、篠山は平一郎を探した。
大柄で一目で筋者とわかる篠山を見て、怪訝そうに眉を顰める者も、次の目的地へ向けて日差しのもとへ急ぐ。多くの人の波がここ以外の場所へ向かって、一人ひとりが歩んでいる。
それだというのに、構内のどこかにいる平一郎はどこにも行く場所がない。
今通り過ぎた誰もが、当たり前にたどり着く未来が、平一郎にはない。
無言の電話。
行くべき場所も、紡ぐべき言葉も。
なにもかも平一郎には、なかった。
「・・・・・・・ここにいたのか」
平一郎は駅のホームのベンチに座って煙草を吸っていた。
いつもの着流しに、大倉の家紋の入った藍染めの風呂敷に行李を包み、なんでもないような顔をして汽車から降りていく人や、乗り込んでいく人を見つめていた。
平一郎は篠山が大倉の家にいつだったか忘れていった襟巻をしていた。
ふうっと紫煙が風に流されていく。
平一郎は篠山の方を見ようとしなかった。
「・・・・行くぞ」
風呂敷を掴む。
平一郎は乱暴な篠山のその手つきを見ても、なにも言わなかった。
いつもなら丁寧に扱え、と飛んでくる文句も、この日は何もなかった。
篠山がしばらく待ってみても、平一郎は立ち上がろうとしなかった。
何とかたばこは仕舞ったが、視線はぼんやりと汽車に乗り込む親子連れを見ていた。
ちょうど平一郎の娘の花緒と、同じ年ごろの女の子が、母親の裾に甘えていた。
平一郎の前にしゃがみ込む。
コートが地面についても気にもならなかった。
膝の上に投げ出された手を、そっと握る。
とても冷たかった。
どれだけの時間、一人でこうしていたのだろうか。
「……大倉に帰ってもいいんだぞ」
平一郎はやっと篠山をゆっくりと振り返った。
「送る」
やはり大倉に戻ったほうがいい。
家まで送り届けてやらないと。
篠山にとって、平一郎を見つけさえできれば、自分のそばにいようといまいと、どちらでもよかった。どれだけこの男が家族を大切に思っているのかも知っている。だからこそ、最後は望んだものに囲まれて過ごすほうがいいのかもしれない。
青白いその顔は、頬がすこしばかりこけていた。
気が強い、切れ長の涼しい目元は、ガラス玉のように無感動にじっと篠山を見つめた。
眼のふちが少し赤い。
とんとん、と手をたたいて暖めてやりながら、篠山はもしかすると平一郎は薬を打ちすぎているのかもしれないと思った。
こんなときにキメてんのかこいつ。
相変わらずの最低な振る舞いに思わず笑みがこぼれる。
体が動く、健康にふるまえる、ということに狂気じみた執着を見せる平一郎。
どこにたどり着くつもりなのか、それが見たかったのが始まりだった。
送る、という言葉に、しばらくぼんやりと篠山を見つめた平一郎は目を閉じて、ゆるゆると首を振った。
「・・・・・俺のとこにくるか」
平一郎はかすかに、気のせいではないかと思えるほど小さく、わずかだけ首を縦に振った。
「・・・そうか。お前、初めて俺のいうことを聞いたな」
**************
車の中でも平一郎はずっと黙ったままだった。篠山の屋敷に着くと、促されるままに車を降りて中に入った。
長い縁側を篠山の後に続いて素直に歩く平一郎は、ふと庭の花を見つめて足を止めた。
「・・・そういえば、大倉のお前の部屋からも椿が見えたな」
篠山はそっと平一郎の腰に手を置いて、自分の方へ引き寄せた。
あまりにも反応が少ない。
平一郎はおとなしく篠山の胸に頭を預けてきた。
こめかみに唇を落とすと、平一郎は目を閉じた。
その日から、平一郎の部屋はこの椿の見える部屋になった。
ほとんどされるがままに服を脱ぎ、寝巻に着替えさせられた平一郎は、おとなしく布団に横になった。疲れ切っていたのだろう、篠山が平一郎の行李の中を改めているうちに眠ってしまっていた。
その寝顔を見つめながら、篠山は静かな呼吸に耳を傾けた。
弱弱しいその息。
行李の中に平一郎が入れて持ってきていたのは、篠山が与えた薬と金がいくらかあるだけだった。
「これは・・・」
その中でくしゃくしゃに丸められた紙切れがあった。
手に取って広げると、現れたものに言葉を失った。
大吟醸・『花緒』
平一郎が命がけで造った酒。
瓶に貼られるラベルを、平一郎は握りつぶしていたのだった。
それでも捨てることはせずに、もう帰ることはかなわないと思いながら、行李の中に入れた。
人生の意味を果たした安堵なのか。
誰にも吐き出せない寂寞からなのか。
平一郎の考えていることは、誰にも分らなかった。
理解などされなくていい。
長くなくていい。
時間と動く体がほしい。
他者に当たり前のように与えられている動く体。
それが自分になくとも、平一郎は恨んだり憎んだりしなかった。
一度だけ、弟に激高したことはあった。
だれも知ることのないことだったが、本当に彼の人生の中で、その不平等に腹を立てたのは、その一度だけだった。
自分の父親が、弟を連れてきた日。
風邪で伏せる自分には、弟という予備がいるのだと聞かされた日。
あの日から平一郎は望んだりしなかった。
本当に欲しいものを。
ついに生涯で口にすることはなかった。
命を削って、造り上げた大吟醸。
そのラベルを握りつぶした平一郎。
生きたい。
ただ当たり前に。
生きてみたかった。
終わりなどないように。
不満も不平等もなにもかもないように。
自分以外の誰もが持っていた、当たり前の人生。
自分もそれが欲しい、と。
そう口にしてみたかったのではないだろうか。
篠山はこみあげてきた嗚咽を飲み込んだ。
のどが震える。
手で口を押えて声を押し殺したが、涙があふれて畳の上にシミを造った。
「平一郎……ッ」
本当は、大吟醸に命を懸ける人生を、望んではいなかったのではないか。
役立たずの塵芥のような命ではないのだと、証明するために命を削るような。
そんなことをしなくてもいい、考えなくてもいい生き方。
もうすぐ尽きてしまう残り時間を前に、そう思ったのだろうか。
けれど口にはせずに。
ラベルを握り締めた。
後戻りなどできないから。
「平一郎・・・・」
庭には雪が降り積もり始めていた。
浅い眠りに身をゆだねる平一郎ごしに、一輪の椿が地面に落ちた。
平一郎が言葉らしい言葉を発したのは、その夜のことだった。
篠山は隣に布団を敷いて眠りについていた。
ふと胸騒ぎがして目が覚めた。
平一郎の方を見ると、背中を向けて庭の方を向いているようだった。
閉じ切った雨戸にガラスの障子。
細いうなじがむき出しになっていて、見ているこちらが寒くなってきそうなほどだった。
眠っているのだろう、とそう思い、起こさないようにそっと布団を首まで掛けようと手を伸ばした。
触れるか触れないか。
平一郎が声を出した。
「篠山」
起きていたのか。
篠山は驚いた。顔を覗き込むが、あいにく暗がりで表情は見えない。
ただ近づいた拍子に、篠山は平一郎の手が何かを握っていることに気が付いた。上から手を包み込むと、指先は冷え切っていた。篠山が目覚めるずっと前から、布団から手を出して、じっと見つめていたのだ。
「『花緒』のラベルを、見ていたのか・・・」
手に握られていたのは、篠山がしわを伸ばして枕元に置いておいたものだった。
篠山の手はそのまま平一郎の頭に当てられた。
そっと撫でると、平一郎は黙って受け入れた。
「後悔しているか」
その質問に平一郎が答えないだろうことを、篠山はわかっていた。
素直に気持ちを吐露できる男ではない。
大倉が。
平一郎を裏切った体が。
見放した父親が。
健康な弟が。
信頼を寄せる妻子が。
あの村が。
酒蔵が。
平一郎にそうさせないのだった。
時折唇を落としながら、篠山は平一郎の頭を撫で続けた。
寒いので同じ布団に入り、呼吸に上下する温かい体を後ろから抱きしめ続けた。
返事がなくても構わなかった。
ただこうしているだけでよかった。
おとなしくこの男が自分の腕の中にいる。
誰にも傷つけさせない。
誰のことも傷つけさせない。
無理もさせない。
無茶もさせない。
もう何もかもから閉ざしてしまって、何も考えさせずに眠らせてやりたかった。
そこまで思うと、なぜこんなことを聞いてしまったのかという後悔が、むしろ自分に沸いてくる。
「・・・・すまない。忘れてくれ」
もう寝ていると思ったが、平一郎の方からかさりと乾いた音がした。
ラベルを握った手を、布団の中に入れたらしかった。
「篠山」
「ん?」
「・・・・・・・ありがとう」
平一郎が何に感謝の言葉を口にしたのか、篠山にはわからなかった。
どうしようもなく欲深いけれど、何一つ本当に欲しいものは手に入らない平一郎。
薬と金と体を使ってどれだけあがいても、決して不自由な運命を変えることはできなかった。
この男の欲しがっているものを、何も手に入れてやれなかった。
『欲しい』ということさえ口にしない、求めることすら己に許さなかった愛人に、何も与えてやれなかった。
薬漬けにして、満足そうな表情を見ただけで、なにもしてやれなかった。
篠山はきつく平一郎を抱きしめた。いっそ壊してしまいたかった。それほどきつく抱きしめたのに、平一郎はもう何もいわなかった。
なにが、ありがとうだ。
こんな、こんな最後を迎えようとしているのに。
何もかもを呪いながら死んだっておかしくないのに。
何が。
健康な弟に、同じように体を壊してみろ、と怒れ。
何も知らない蔵人たちに、その体を自分によこせと怒れ。
弟を連れてきた父親に、見くびるなと怒れ。
祖母に、哀れむなと。
妻子に、何も知らないくせにと。
どうして自分だけが、ただ普通に暮らすというそんなことのために、薬漬けにされなくてはいけないのかと。
篠山は平一郎に、この世の理不尽に腹を立ててほしかった。
ただ一言。
『生きたい』という言葉を、この男から聞きたかった。
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