椿の墜ちるころに5

1/1
前へ
/73ページ
次へ

椿の墜ちるころに5

篠山が初めて平一郎を抱いた日。 思い返せば、平一郎はしきりに薬を求めていた。 しかしその時、それはただの中毒者のそれだと篠山には感じられた。 その日からしばらく、平一郎は日がな一日布団でごろごろとしていた。 気ままにたばこを熊や手下にねだり、花札に興じては薬をねだり、却下される。 ときどき、見ない顔の手下たちを見ると手を付けて薬をもらおうとしては、熊や篠山に見つかり叱られると言った日々だった。 挙句の果てには、篠山が仕事から熊と帰ってくると、留守中にやってきた篠山の兄貴分としけこんでいたことさえあったのだ。 「てめえ!」 「なんだよ、うるせえな。お前よりかはずいぶん下手だったけど、薬をくれたぜあいつ。ちょろいな」 ごろごろと布団にくるまりながら、誰が与えたのか煙管で上等なたばこをくゆらせる。その煙管に見覚えがあった。手ひどく平一郎を抱いた次郎長親分のものだった。どうやらここへ来たのか、平一郎が出向いたのかしてかわいがってもらったらしい。たまに平一郎が妙な小金を持っているのも、もしかしたら小遣いをもらったのかもしれない。 怒鳴られても懲りるような兆しさえない。 大学の授業には時折出かけているが、さっさと篠山のところに帰ってきてはごろごろとしている。 次第にヒモのような存在になっていった。 「納得がいかねえよ。お前、俺の家に帰ってくるなら、ちったあ言うこと聞け。兄貴にも親分にも手下たちにも、薬たかるために手だしてんじゃねえよ」 「・・・じゃあお前が薬をくれるってのか?」 「んなワケねえ!」 なんだ、とつまらなさそうに平一郎は布団にもぐりこんだ。 頭をの後ろで腕を組み、ぼうっと天井を見上げる。 「・・・・あんまり、ほかのやつらに構うんじゃねえよ」 「へえ?」 平一郎は眉を少し上げて、縁側に座り込む篠山を見上げた。 「俺に惚れてんのか」 「寝言は寝て言え」 「ああ?」 「・・・・・・・そうじゃない。お前の言ってたことはその通りだ。熊もそうだが、手下たちはみんな田舎にも堅気の世界にも居場所なんてねえ奴らだ。俺たちがどうして徒党を組むか知ってるか?」 篠山の語り掛けた言葉に、平一郎は何も答えなかった。 疲れた様子のスーツの背中を見つめていた。 「俺たちは切った張ったの世界に生きてる。明日誰が死んでも不思議じゃねえ。だから組むんだ。なるべく死なねえようによ」 篠山には平一郎の表情は見えなかった。見たくもなかった。 何もかもあざけるように薬を求める平一郎に、自分がしていることは何なのか話す必要があった。 「人間が寄り集まったら、一番弱いのは使えねえやつだ。んでもって新入りは使えねえ。使えねえから、みんなそう長くは生きねえ」 「・・・・へえ」 その声は馬鹿にするような調子ではなかったが、どこかぼんやりとした声だった。 「お前が手を出して薬をねだるたびに、あいつらは短い命をさらに短くしてるんだ。お前の言う通り、所帯も持てねえ田舎もんだ。でもなんとかマシな人生夢見てこっちの泥みてえな世界に足突っ込んだんだ。お前がちょっかいださなくても、そう長くはねえ。俺だってそうだった」 平一郎はなにも答えなかった。 無言の時間が二人に流れる。 「今でもそうだ。俺も、いつ死んだって文句はいえねえ。楽に死ねるとは思ってねえ。だからよ、お前さんのシャブ狂いに付き合って、下らねえ死に方するつもりもねえし、手下どもにもそんな真似させねえ」 悪党という道を歩むほかなかった。 堅気の世界など最初から用意されていなかった。 そんな場所で生きる誰もが、命のやり取りをしながらもがいていた。 「・・・・・下らねえ死に方ってのは、どんな死に方だい」 珍しくまじめに話を聞いたと、その声を聴いて篠山は思った。 ようやく振り返ると、平一郎は相変わらず天井を見上げている。 「そうだな、後の世に名前が少しでも残れば設けもんだな。堅気の男のケツの穴におぼれて、あぶねえ橋渡って死んじまったんじゃ、だれも名前なんか覚えちゃくれねえからよ」 それを聞くと、ふっと平一郎はわらった。 かすれるような声だった。 「・・・・残す、ね」 泣いているのか? その声のかすれ具合に、篠山はぎょっとして平一郎の方を覗き込んだ。 けれど顔をそむけるように、平一郎は布団をかぶって顔をそむけた。 まさか。 こんな男が涙など流すはずがない。 きっと何かの思い違いだ。 篠山はそう思った。 その日からしばらく、平一郎は起き上がることができなかった。 「これは・・・・薬など勿体ないぞ。悪いことは言わん。田舎に返すんじゃ」 年寄りの医者は難しい顔をして首を横に振った。 「ああ?」 一通り診察を終えた医者がそんなことをいうものだから、篠山は眉をしかめた。 目の前では平一郎が息を荒くしながら、ただ襲い掛かる発熱に苦しんでいる。 田舎に返せ、という言葉と淫奔な平一郎の姿がどうしてもつながらなかった。 「やれやれ。葛西坂で育ったお前さんはわからんか。あそこはただでさえ病人が多いからのう」 「なんだってんだよ、じいさん」 「『怠け病』じゃ。聞いたことはないか」 聞き覚えのある言葉に篠山は顔をしかめた。 葛西坂にはいろんな男女が売られてくる。 田舎で使い物にならない子供が口減らしでやってくることも多い。 その中には特に安い値段で春をひさぐことになる者たちがいる。 いつも具合が悪そうに横たわる彼らは、穴さえあればいいという客の相手を人形のようにさせられる。それは彼らが満足に体を動かすことができないからだ。 『怠け病』だ。 彼らは吐き捨てるように、そう呼ばれていた。 「こいつが?おいおい、こいつは学士さまなんだぜ。そんなわけねえよ、シャブ打ちすぎただけだろ?」 医者は黙って篠山を見た。そして平一郎をしみじみと見つめて言葉を漏らす。 平一郎が自称ではなく、本当に学士なのだというのは、熊がすぐに調べたのでわかっていることだった。 「そうかぁ、無念じゃろうなあ」 無念、という言葉が篠山には理解できなかった。 組の連中を田舎者と馬鹿にし、親分や自分と自由きままにまぐわい、薬を求める。 そんな奴のなにが無念だというのだろうか。 「・・・この病は、成長してから発症する方が重症なのじゃよ。こやつも、最初は健康で勉学を納めるほど優秀じゃったというのに、こんな病になってしまって・・・。この体ではろくに働けもせんわい。田舎に帰って、養生するのがよいじゃろう」 「・・・・こいつは、派手な野郎だぜ?そんなタマかよ」 医者はじろりと篠山をにらむと、立ちあがって帰ろうとする。 「おい、熱を下げる薬ぐらいおいていけよ」 「もったいないと言ったじゃろう。放っておけばいずれ下がる。この病の厄介なところは、なかなか死なんところじゃ。この薬は、ワシはこの患者には売らん。もっと必要な者たちがたくさんおる。こやつを治して何になる?またすぐ熱を出して横になるだけじゃ」 「なッ・・・・・」 「熱くなるな、篠山。お前らしくもない」 床板をきしませて去っていく医者の姿を、篠山は睨むように見つめるしかできなかった。 平一郎の荒い息が部屋に満ちている。 そばに座り込むと、ふっと笑ったように見えた。額にのせてやった手ぬぐいで、瞳の動きまでは見えない。ただ色づいた唇がいつものように胡を描いていた。 まるであざ笑うかのようなその笑みは、平一郎自身のことも嗤っているように思えた。 「・・・大丈夫か」 「医者も、死なねえって言ってたろ。大丈夫さ」 ぜい、ぜいと苦しそうな息が続く。 「心配か?だったら薬打ってくれよ」 布団から白い腕が伸びてくる。 力の入らない指で篠山の服の裾を掴む。 「なにが俺たちは長生きできねえ、だ。十分じゃねえか」 ははは、と乾いた笑い声が平一郎から漏れた。 「お前・・・」 薬をよこせ、とかか細い声で馬鹿にするように言う。 平一郎は医者から熱さましさえ売ってもらえなかった。 強がっているそれは虚勢にしか見えない。 裾を引く指は、まるで幼子が追いすがっているように弱弱しかった。 少しでも篠山が身じろぎをすれば、その手は容易に畳の上に堕ちただろう。しかし篠山は思わずその手を掴んだ。 強く、力がこもった。 「だから、薬が欲しかったのか・・・?」 平一郎は額の手ぬぐいをそっとどけた。 嘲笑するような表情をすっと引っ込ませて、切れ長の目で篠山をにらんだ。 初めてあったあの日を、篠山は思い出していた。 あのころから、まさか。 「同情してんのかい?へえ、そうしたら薬を打ってくれるんだ」 「・・・そんな話はしてねえよ」 平一郎はまた鼻で笑って、手ぬぐいを篠山に投げつけてきた。 勢いもなく、畳に落ちる。 「・・・冷めたよ。薬もねえんじゃ、意味ねえな。熱が下がったら下宿に帰るわ。もうここにはにどと来ねえ」 「おい・・・」 「うるさいよ」 平一郎は聞きたくない、とでもいうように遮った。 篠山に背中を向けて、顔まで布団にもぐりこむ。 「どいつもこいつも。・・・・・・・うるさいんだよ、本当に」 ************* 平一郎の熱は中々下がらなかった。 それどころか、意識はさらに朦朧とし始めた。 「おい、もういいのか」 口元に匙でお粥を持っていってやると少し口をつけるが、すぐにやめてしまう。 吐き戻してしまうこともあった。 「平一郎さん、大丈夫ですかい」 熊も手下たちも、平一郎の看病をした。このまま死んでしまうのではないのか。そんな気さえしてしまうほどの病状はわるかった。 なんど闇医者を呼んでも、じきに下がるし死にはしないの一点張りだった。 「・・・こりゃあ、田舎に帰っても厄介者ですな」 自由きままに体を重ねる平一郎が、田舎で弱り切っている姿を想像できなかった。 熱に浮かされながら平一郎はしきりに、うるさい、うるさいと言った。 ほっといてくれ、外にだしておけばいいだろう。 自分に構うなと、自暴自棄になっていた。 「まあ、平一郎さんのご家族なんですか」 「ええ。平一郎のやつがお世話になってます。ちょっと必要なものを取りに来ましてね」 「最近お見掛けしないわ。どうなさったの?」 「しばらくうちで預かることになったんですよ」 「そうなの」 「忙しくしてるんで、代わりに荷物を」 まあ、どうぞどうぞと、平一郎の下宿先はろくに篠山が誰なのかも確認せずに部屋へ上げた。 「なんだ、こりゃあ」 部屋の中には足の踏み場などなかった。 「・・・醸造。酒税法・・・酒造好適米・・・。国立醸造試験所・・・・・・?」 日の光など入らないほどにうずたかく積まれた本の数々。 床に散らばっている論文と思しき原稿用紙の数々。 小さな文机の上には、書きかけの論文がそのままになっていた。 何度も書き直したあとがそこら中にある。 くしゃくしゃに丸められた原稿用紙が、酒造の本とともに散らばっている。 平一郎はこの論文の周りで生活していたのだろう。 机の周りだけが人の座るスペースがあり、牛乳瓶に一輪だけ椿の花が活けてあった。 「第6酵母と低温長期発酵における吟醸酒の安定製造について…」 後に吟醸酒製造の教科書ともいえる存在になるその論文は、篠山にはそれが何を意味するのか理解できなかったし、誰にも理解されることなく、ちいさな下宿の一室で消えようとしていた。 ただ篠山にはこの部屋の中にあふれる書物がすべて、そこに詰まっているような気さえした。 それほどまでに、部屋の中に満ちている執念のようなものが見て取れた。 田舎で療養するしかない 学問を納めるほどであったのに、無念じゃろう 長生きできねえだ?十分じゃねえか。 薬をくれよ。 薬のために淫奔に体を差し出していると思っていた。 平一郎が欲しているのは、薬ではない。 健康な体 自由に動く体 若い10代のころから、もう薬には手を出していた。 気が付いていたのではないのか、自分の体に。 そんなものが、自分には手に入らないとわかっているのに? 篠山は言葉が出なかった。 平一郎の嘲笑は、最初から己一人に向けられているのかもしれないとさえ思った。 誰にも手に入らないものを求めている。 そんな自分を嗤っていたのか。 ふと平一郎は夜半に目を覚ました。 熱がずいぶん引いていた。体を起こせたのはいつぶりだろうか。 「・・・・・・・・椿」 枕元には見慣れない花瓶に椿が一輪さしてあった。 枝ぶりが自分の部屋にあったものに似ていた。 大倉の村には、夏には半夏生が、冬には椿が咲き乱れていた。田舎を思い出させるものがあって、下宿の部屋に飾っていた。 椿の花は、一番美しくさいた後は、首からふっと落ちる。 「お前さんみたいに、散れたらいいのになァ。お前さんは贅沢だねえ」 誰にも届かないその独り言は、夜の静かな家に溶けていった。 平一郎は死ぬ間際、『生きたかった』と口にすることになる。 しかし生涯ただの一度も、『生きたい』とは口にしなかった。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加