椿の墜ちるころに6

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椿の墜ちるころに6

「ここにいても薬がもらえないなら、二度と来ないさ。同情のつもりかよ、冷めちまった。まあ、看病してくれた恩もあるし、手前らのところの薬にゃ手出ししないよ」 平一郎は熱が下がるとそんなことを言って篠山のところを出ていくと言い出した。 篠山は構いはしなかった。 掛けるべき言葉がみつからなかったし、目の前の一人の愚か者の末路など想像に難くなかった。 これから平一郎にはみじめな人生が待ち受けている。 病人に幸福な生などないのだ。 病にかかった、ただそれだけでこの世のすべてを手放せと語り掛けてくるそれは、何人も拒絶することはできない。受け入れるしか、道がない。たとえその道の先が破滅だったとしても、それ以外の道はもうないのだ。 女衒にとって人は商品。 そんな商品たちは、葛西坂では病にかかれば坂から突き落とされる。 何人の遊女や陰間が梅毒という病にとりつかれただろうか、数えてもきりがない。 病は遊女だけでなく、遊女を仕込む女衒にも、客にも、誰にでもやってくる。 その無作為に恣意的なものなどなく、誰が引き当てても不当だと訴える相手もいない。 病人に幸福な生などない。 そしてそれは、誰に訪れてもおかしくはない。 春をひさぐ者にとって、病とは身近な存在だった。そしてそうした世界につからなければ生きてはいけない篠山にも。 誰に訪れても、文句など言えるはずがない。 篠山はこの世の泥しかしらなかった。 だから、その泥の中で幸福などというものが、誰にもつかめないものだとよく知っていた。 健康も。 安全も。 平穏も。 突然取り上げられても、誰にも文句などいえない。 この世とはそういう場所だからだ。 生まれたくもないのに生まれた以上は、この泥を肺いっぱいに吸い込んで、生きながら体を土に埋めるつもりで、それでもくだらない最後の瞬間まで生きなければいけないのだ。 それが泥の中に生まれたものの運命だった。 だから構いはしなかった。 胸にちりちりとかすめる焦燥のような炎を見ないようにした。 平一郎が病に侵されていることも、遊女が梅毒にかかることも、なんの違いもないことだ。 そう思えて当然のはずだというのに、なにかが篠山の胸をかきむしっていた。 「お前の下宿に、これがあった」 「ああ、それ・・・」 篠山が風呂敷から取り出したのは、平一郎の部屋にあった原稿用紙だった。 薄い色の、古びた原稿用紙に、青いインクが几帳面に文字をかたどっている。 平一郎はまた嘲笑するような視線を向けた。 「いらねえ。落とし紙にしてケツでも拭けよ」 あまりにも投げやりな言い方に、篠山は何かを言おうとした。 しかし、原稿用紙に視線を落とし、押し黙る平一郎を前に、なにも言葉がでなかった。 何とか言えたのは、まるで陳腐な文句だった。 「なら俺がもらった。返せと言っても、かえさねえからな」 ふんぞり返るように篠山がそう言うと、平一郎がひどく稚い表情で篠山を見上げた。 薄暗い冬の部屋の中、米のような白い肌に切れ長の目のふちが赤くはれている。 そこにはいつもの嘲笑はなかった。 ただ本心から、篠山の言った言葉におかしみを感じている様子だった。 どこか優しささえにじむ表情だった。 「ばかだな、お前。そんなもの俺が持ってても、もう何の役にも立たないんだよ」 ひどく当たり前のことのように。 「俺の薬狂いに付き合って、お前もお前の手下も下らねえ死に方させるつもりはねえ、っていったな。俺は下らねえ死に方がしてえよ。お前さんたちみたいに動く体が手に入るなら、どれだけみじめな死に方をしてもいいさ。俺の体はよお、なんの役にもたたねえ。俺が死んでも、弟が家を継げば誰もこまらねえ」 平一郎は篠山を慈しむように見上げた。 篠山の胸のちりちりとした痛みが、一層強くなる。 蒸した米のように透明感のある肌が、冬の日差しに照らされる。 屋敷のひさしが、平一郎の表情に影をつくる。 清潔な水の中に生まれたはずの平一郎が、篠山の泥よりもさらに濁った場所にいるようにさえ感じた。 ひどく清潔なのに。 どこまでも冷たく澄んでいるのに。 一匹の魚も住めない。 「だから、お前さんたちを哀れになんか思わねえし、下らねえ死に方が情けねえとも思わねえさ。薬に手出すななんてえらそうな口利くんなら、俺と同じところに堕ちてから言うんだな、女衒風情が」 平一郎はたった一人で、その水を飲み干してしまおうとしていた。 ************** 「染島さま、こちらが例のものです」 「ああ、篠山。これはよい酒だ、巷で噂の西国の酒だな?吟醸酒」 軍服を崩して左右に女たちを侍らせた男は、お前たちものみなさいと芸者たちに酒を勧めた。高い酒に皆が猫なで声で男をほめそやして礼を言う。優しい表情を浮かべて、染島はそれを受け止めた。 「先生、どうですこの篠山。もってこいと言ったものは、なんでも持ってくる男ですよ」 染島は優雅に微笑んで、先生と呼ばれた男に語り掛けた。 染島に連れてこられた大学教授は、カチカチに固まっていて、女たちが酒を注いでも飲もうともしなかった。 「おや、お好きではないですか?先生もお酒にお詳しい方だ。新しい時代の酒の味をお知りになりたいのでは?」 染島が語り掛けると、教授はびくっと体を震わせた。 「まあ、まあ、染島の旦那。先生はちょっとお勉強に熱心で、酒も女もほどほどなんですよ、きっと」 「おや、酒についてはほどほどでは困りますな。せっかくお願いにうかがっているというのに、意味がなくなってしまいます」 でっぷりと肥えた声の大きい男は、染島の言葉に一瞬目を丸くしてがははと笑った。 お願いにうかがっている、とはこの場には似つかわしくない言葉だった。 「先生、わが国にはまだまだ鉄が必要です。ぜひ先生にはご指導いただきたいのですよ」 「そうです、ぜひ!」 染島の言葉に、社長と呼ばれた男がうなづく。 篠山は黙って畳に伏したまま話を聞いていた。 「で、でもですね、ぼ、ぼ、ぼくは」 「ああ、そうだ!」 染島が大きな、明るく優しい声を出す。 しかし教授は身を縮めた。 「製鉄には人手がいりますが、心配いりません。こちらの篠山が何人でもご用意いたしますよ」 「そ、それは、非道なやり方ででしょう」 非道、と指摘されて内心篠山はおかしかった。 軍人、製鉄会社の社長、筋ものの女衒。 そんな3人に囲まれて、何を言っているのか。 「ならやめますか?残念だな、嫌われてしまったな。嫌いな私とご実家の酒蔵が取引するのはお嫌でしょう。軍は手を引きましょう」 「まってください!じ、実家は関係ないじゃありませんか」 「おやでは、引き受けてくださいますか。お名前をお貸しくださるだけでよいのですよ」 「そ、それは…」 「大学の先生が賛同してくださる事業なら、銀行も金を貸してくれますし、人も集まりますから心強いですな、なあ、篠山!」 「へえ」 で、でも…と教授は戸惑いながら目を泳がせる。 篠山が調達する製鉄にかかわる労働者は、教授の言う通りほとんどだまされて連れてこられることになる。それが篠山の仕事だからだ。人を買ってタコ部屋に連れてくるのだ。家族たちを安心させるために、学者の名前はとても便利だ。 結論をださない教授に、染島はもう待つつもりはないようだった。 もともと拒否権などありはしないのだ。 「では決まりだ!宴を始めよう!」 「あ、あああっ」 教授の慌てふためく声をかき消すように三味線が打ち鳴らされる。 どこまでも優しいが、まったく聞く耳をもたない染島は教授に笑いかける。 「先生、今後ともよろしく」 教授を紹介する代わりに、染島は製鉄業者からお礼を受け取る。 この男は幾度となくそうやって軍に逆らえない者と、戦争成金で金をだぶつかせている者とを引き合わせては袖の下を受け取っているのだ。 もっとも、軍で口利きをしてくれる奴を知らないかという社長の言葉で、この男を紹介したのは篠山だった。 篠山はなんとも思わなかった。 これから自分が人を騙して、たくさんの男や女を北海道の製鉄所へおくることも。 たくさんの人々が奴隷のような暮らしを送ることも。 これが女衒という泥だった。 「篠山、お前最近は派手に仕事をするね」 染島がそう笑いかけたが、篠山は目礼を返した。 篠山の脳裏には、たった一人で水と飲み干してしまおうともがく平一郎の姿があった。 同じところまで堕ちてみろ。 そういったあの表情が忘れられない。 怒りも悲しみもない。 ただ、篠山をこどもでも見るかのような、そんな表情。 あれから平一郎の噂は全く聞かない。 大学にはまだ籍を置いているらしいが、下宿には帰ってきていない。 どの組の薬にも手を出していないところを見ると、今一体どこで何をしているのだろうか。 薬なしで。 あの体で。 あきらめればいい。 おとなしくなればいい。 誰も責めたりはしない。 そういう運命なのだ。 だが、平一郎はもがいていた。 その泥の中から手を伸ばしていた。 篠山が売った女たちもそうやって手を伸ばす。 幸せを掴もうと。 だが平一郎が掴もうとしているのは、幸福などではない。 平一郎がつかもうとしているのは。 今いる泥よりもさらに深い、汚れた血だまりのようなものだ。 それを想うと、篠山は自分の泥が浅ましく思えるほどだった。 胸が焼け付くような予感がする。 開けていけない蓋が開いてしまいそうな。 宴もたけなわになったころ、来客を知らせる茶屋の女将の声がかかる。 「ああ、そうだった。篠山に紹介したい客がいてね。お前は素直だから、取り立ててやろうと思って呼んだんだ。来るのが遅かったな」 襖を開けて入ってきたのは、軍服を着た男だった。 染島よりもずっと体格のいい男で、後ろにスーツを着た付き人を連れていた。 「近江殿。このような場所で酒宴とは、関心しませんな」 「まあ、いいじゃないか。まさか、軍の資金調達のための癒着や薬の横流しの話をするのに、カフェーというわけにもいかんだろう?」 「………ふん」 「我々にはまだまだ金が必要なのだ、大陸は広いぞ」 大陸。 篠山にとってこの国がどこへ向かおうとしているのか、このきな臭い情勢の行く末など知ったことではないが、立ち込める戦争の鉛のようなにおいをこの二人の軍人から感じ取っていた。 「そいつが?」 「そうだ。人も物も、なんでも調達できるだろう彼は。篠山という」 染島の声に促されて、篠山は顔を上げる。 芸者たちの三味線の音など意にも介さない険しい表情を浮かべていた。 男の頬には大きな傷があった。 「おや、山形殿。今日は誰を連れているんだね」 染島は目ざとく山形の付き人に気が付いて、前へ出てきて挨拶をするように促す。 下々のものにはかかわりのないことだとでもいうように、二人とも宴会に興じている者たちなど気にもかけない。 篠山はひどく腹が立った。 軍人二人が、自分を利用しようとしているからではない。 自分たちにとっていい駒が見つかった、と言わんばかりで、篠山が取引を断れるはずがないと思っているからではない。 もちろん篠山はこの二人の軍人から甘い汁を吸えるだけ吸うつもりだ。 泥を誰よりも深く飲み込んでみるのも悪くなかった。 同じところまで堕ちよと、そう望むなら。 しかしはらわたが煮えくり返るとは、このことなのか。 涼しい目元に、軽薄そうな笑みを浮かべて朗々とした声が鳴る。 「これは、どうも」 堕ちたところで、意味はないのだと思い知らされた気分だった。 すべての決定権は向こうが持っていて、篠山は振り回されるだけなのだ。 泥に生きよ、さらに堕ちよ。 そんな呪いのような言葉は、取引などではないのだ。 篠山は自分自身に腹が立った。 自分のものにならなかったと知った今、初めて自分が愚かにもそれを取引だと思っていたと痛感した。出なければ、こみ上げるこの怒りはなんだというのだろうか。 「山形さまにお世話になっている、書生の大倉平一郎といいます」 平一郎は組に手を出す真似をしなくなった。 かわりに、軍のものに手を付け始めたのだ。
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