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椿の墜ちるころに8
「やあ、篠山。よく来たね」
染島の屋敷に呼び出されたのは、夏も終わろうかというころだった。
立派な武家屋敷の中には人が息を潜めているかのような気配があり、薄暗い室内には冷たい空気が漂っていた。
背広か軍服姿しか見たことがなかったが、布団に身を起こしている染島は変わらず人を食ったような表情をしていた。
肩から羽織を掛けているが、少しだけ顔色が悪い。
「染島さま、ご病気とは知らず、失礼いたしました」
「ああ、良いのだよ。もう長くないから」
傍に正座しようとすると、そんな言葉が投げかけられる。
畳に篠山の衣擦れの音がする。
まじまじと染島を見ると、染島はなんでもないような顔をしてこちらを見ていた。
「わかっていたことだ。私の跡目は娘に継がせる予定だよ。妻がうるさいものだから」
ああ、ほらきたようだ、と染島が縁側の廊下へ視線を向ける。
すると湯気の立つ茶器を持って、まだ幼さの残る女の子が着物の裾を器用にさばきながら入ってくる。日本髪を結い上げたその少女は、勝気な様子を隠そうともせずに少々乱暴な手つきで染島と篠山に茶を差し出した。
「姫、ありがとう」
姫、と呼ばれることに何の疑問も感じていない様子の少女は、ふんと父親のそばでへそを曲げた。
「私に茶を入れさせるなど、父上ぐらいじゃ」
「姫には、人並の幸せをつかんでほしいのだよ。お茶ぐらい入れられて罰は当たらない」
シャラ、とあぐりのかんざしが美しい音を立てる。
「そう思うのなら、母上をどうにかしてほしいのじゃ」
「それは姫の仕事にしよう。そのぐらいができなくて、どうする」
「人並、といったのは父上ではないか」
「人並の幸せはつかんでほしいが、姫の力量が人並では何もつかめない。世の中とはそういうものだ。篠山、これが私の跡目を継ぐ娘、あぐりだ」
染島はぷんぷんと怒っているあぐりから視線をそらし、篠山に急に話を向けてきた。
なぜこの場によばれたのかわからない篠山は目を白黒させて、とりあえず頭を下げる。
「姫。こちらは篠山。山形殿の御用聞きをしているから、覚えておきなさい」
あぐりは腕組みをして篠山をにらみつけ、あきらめたように溜息をついた。
「・・・覚えておくだけじゃ。私は父上のような仕事はせん」
その言葉に篠山ははっとした。あぐりは、この年端も行かない少女は、危ない橋を渡ることがこの家の役目だとどこかで気が付いているらしかった。
「好きにしたまえ。私の跡目を継げば、その首を掛ける覚悟さえあればあとは自由だ」
あぐりは父親のその言葉にさえ腹が立ったらしく、ぎっとにらみつけた。
もの言いたげな様子の娘を無視して、染島はぴしゃりと言いのける。
「下がりなさい」
あぐりはこれ以上ないくらいに染島をにらみつけたが、お盆をもつとどすどすと足音を立てて部屋を出ていった。
「私は妻のような気性の荒い女性が好きでね、あぐりはどうも妻の血が濃いな。さて、用事は以上だ。篠山、もう二度とあうこともないと思うが、山形殿と平一郎くんを頼んだよ」
「染島さま、俺は…」
「篠山。この国には戦争が必要なのだ。私が今まで引き受けていた仕事は、どれほど嫌がっても山形殿がすることになるだろう。彼は向いてないが、力になってくれたまえ」
「・・・なぜ俺なのですか」
篠山の言葉に、染島はおや、という表情をして見せた。
「何を言い出すんだね、君には手にいれたいものがあるからだよ」
その見透かすような言葉に篠山は染島を見つめるしかできなかった。
面白そうに染島は微笑む。
ふと平一郎の言葉が蘇った。
近江染島は化け物だ。近づくな。
篠山が何を望んでいるのかを見透かして、餌をちらつかせて。
山形の力になってほしい、といいつつも、やらせることは手を汚すような類のことだ。
染島はどこまでも優しい。
誰が何を望んでいるのか、篠山には絡まった糸に見えるものが、染島にはどこの紐を引っ張ればよいのか何もかも理解できているかのようだった。
優しいから、山形に篠山を残して、自分の意志を継げとささやく。
優しいから、娘に篠山を会わせ、清流と濁流のどちらへ進むべきか選べと叱咤して。
優しいから、篠山に欲しいものを手に入れろとそそのかす。
「山形殿の手伝いをしなさい。そうすれば、君は今よりもたくさんの人も物も金も動かせる。君の欲しいものは、手に入りやすくなるのじゃないかね?ただの女衒で終わるつもりもないだろう」
大倉平一郎を手に入れる。
篠山の目の前にそれが突然広がっているように感じた。
「平一郎くんは酒蔵の息子でね。貧農ばかりの寒村では結構な金持ちらしいが、所詮は田舎者だ。時代に取り残されれば消えてしまうような貧しい村を、近代化させたいというのが彼の夢物語なのだ。私が死んだら、山形殿は忙しくなるから平一郎くんの面倒など見ていられない。誰があのかわいそうな青年の面倒を見てやるというのだね」
ただの女衒には。
到底平一郎は手に入らない。
堅気の世界で生きるあいつに、軍人の情夫になって薬を手に入れたあいつに。
だが、今以上に山形と組めば。
もっと深く、この世の泥に身を沈めさえすれば。
そうすれば、金で、物で、薬で。
あいつの望むものを与えてやることができるのではないか。
霧が晴れてゆき、現れた道に篠山は喜びとも戦きともいえない心地だった。
あいつが手に入る。
本当か?
あの平一郎が?
しかし。自分にその力があれば。
ただの女衒ではなくなれば。
危険すぎる。
山形のトカゲのしっぽになれと言われているのだ、これは。下手をすれば。
篠山は冷や汗をかいていた。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめるようすを、染島は優しいまなざしで見守っていた。
捨て駒になれと、そう言われているというのに。
泥船と知りながら篠山を船に乗せておいて、ここのまま乗っていたほうが欲しいものは手に入ると抜かす染島は、たしかに化け物だった。もしかすると、あの酒宴で平一郎と再会した日。あれは最初から獲物は自分だったのではないか。
舎弟たちの顔がちらついた。
せいぜいチンピラどまりの小物たちばかりだ。篠山がこの道を進むことになれば、同じく血だまりの道を進まなければならなくなる。
だがもう知りすぎている。
やられた、と篠山は内心舌打ちをした。
危険すぎる。
平一郎の顔が浮かぶ。
―――――動く体が手に入るなら、どんなみじめな死に方をしてもいいさ。
―――――俺と同じところまで、堕ちてから言うんだな、女衒風情が。
欲しいもののためなら。
どこまでも堕ちて行ける。
女衒風情のまま、ぬるま湯にいながら何を。
堕ちよ。
平一郎は最初から、自分にそうささやいていたではないか。
あいつを手に入れる方法。
それは一つだけだ。
堕ちよ。
この世という泥の奥底まで。
何も守れず、振り回して、悲しませて、傷つけて。
それでも欲しいとあがくほどに。
なにもかもを傷つけても構わない、自分さえも一番深く傷つけて。
欲しい。
あらゆるものと引き換えに、それだけが欲しい。
その修羅のような道まで堕ちてこいと、平一郎は最初からそう投げかけていたのだ。
眉間にしわを寄せていた篠山の表情が、少しだけ緩む。
平一郎の望むことが理解できた篠山には、どこかすがすがしい気分さえ感じられた。
平一郎は動く体を。
自分は平一郎を。
望むもの以外は何も手に入らなくていいと、そう思えさえすれば。
あとはただ堕ちてゆくだけだった。
「貧しい村を背負う青年には、後ろ盾が必要だ。君が山形殿を支えて、そのぐらいの力を持ちたまえ」
「・・・・ええ、喜んで。トカゲのしっぽになりますとも」
染島はまたおやおやという表情をして、あぐりの置いていった茶をすすった。
「トカゲではない。山形殿は竜になる。君はその尾となりたまえ」
その会話の数日後、大陸の鉄道が爆破されたという事件が世間をにぎわせた一方で、山形を通じて染島の訃報が篠山のもとへ届いたのだった。
さらなる戦争と侵略を望んでいるかのような染島の発言と、満州という言葉。
爆破事件を受けて始まった大陸の占領。
それを歓迎する熱に浮かされたこの国。
世間をにぎわせている事件は、染島がすべて糸を引いているようにさえ思えて、篠山は胸が焦げ付くようだった。
自分が堕ちると決めた泥の汚さを、最後に染島に教えられたような気分だった。
「・・・本当にあちらへ?」
山形は染島の葬儀には出ず、そのまま大陸へ渡ると篠山に告げた。
「近江殿の意志を継がねばならぬ。こちらのことはお前に任せた」
「平一郎はどうされます」
「・・・・・・近江殿に少し顔立ちが似ているだけで、慰めにもならん。お前の好きにしてよい」
山形のその言葉には、平一郎への嫌悪さえにじんでいた。
ならばなぜ手元に置いて、情夫として扱ったというのか。
欲しい、という願いをかなえられなかった山形。
ただ染島ほどの男には、山形にくすぶる欲望の熱などわかり切っていただろう。
だというのに。
染島は何一つ山形には与えずに、ただただ泥の中に堕としたのだ。
山形の屋敷は篠山が管理することになった。
1年前まではまだごろつきと変わらない女衒だったというのに、次郎長親分の屋敷よりも何倍も大きな屋敷に住み、軍のあちこちの動きを掴んで仕事をする。
「それで、手前が山形さまに変わって俺に薬をくれるってのか。見返りは?」
挑発的にささやく平一郎は、その気になれば篠山のもとから離れる算段もついていたのだろう。
山形がどうして平一郎に選ばれたのか、少しだけわかる気がしていた。
二人ともどれほどこの世の泥に身をやつしても、決して手に入らないものを望んでいる。
山形は染島と平和を。
平一郎は健康な体を。
屋敷の部屋を片付けて、出ていく準備を平一郎はしていた。
下宿にもどる、とどこまで本当かわからないことを言う。
スーツを着た平一郎の背中は、より一層その細さが目立つ。
けぶるようなうなじに吸い付いてしまいたかった。
「おい」
後ろから抱きしめる。
平一郎は抵抗らしい抵抗はしなかった。
首元に顔をうずめ、ぎゅっと抱きしめる。服の下の細い腰の肌のぬくもりを思い出すとたまらなかった。
平一郎の目の前にいつだったか、尻を拭く紙にでもしろと言った論文を置く。
布団にばす、と音をたてて差し出されたそれに、平一郎の鼓動が速くなったのを篠山は感じた。
「なんの真似さ」
ただお前が欲しい、と。
そう伝えられたらどんなに良かっただろう。
そうすれば平一郎はあざ笑って馬鹿にして、体を重ねた後は自分を捨てるのだ。
わかっていた。
誰のものにもならないことを。
己の手の中にしか、己の運命があることを許さない。
そんな修羅のような男だと知っていた。
こいつを手に入れるために。
こいつの望むままに。
堕ちていく。
どこまでも。
そう決めてしまうと、どうしようもなくこの柳のような男がいとおしかった。
いつまでも抱きしめていたかった。
燃えるような命が芽吹いているこの魂に、触れることができるというそれだけで。
「なにもいらない」
平一郎が息を飲んだ。
「なにもいらないんだ。自由に生きろ、お前の望むことを、すべてやるんだ」
腰に回された篠山の手に、平一郎の手がそっと触れる。
愛しかった。
どうしようもなく。
平一郎にこんな運命を与えた奴を、呪ってやりたいくらいには、張り裂けそうなくらいに慈しんでやりたかった。
だからこそ、篠山は解放してやりたかった。
同じところまで堕ちなければ、こうして手を伸ばすことさえできないほどの男を。
「生きて夢をかなえるのに、見返りなんていらないんだ」
きつく抱きしめた。
今までのなにもかもと、これからのなにもかもを抱きしめたかった。
薬で体をボロボロにし、命と引き換えでなければ、動く体を手に入れられない平一郎。
ここまで堕ちてくるために、寒村の青年がどれだけの見返りを差し出し続けたのか。
そうでなければ生きてはこれなかった平一郎が、この世で一番清廉なものに思えた。
「もう、いいんだ」
平一郎はまるで縫い付けられたかのように、その場から動かなかった。
俺が一緒に堕ちていくから。
だから、思うままに生きていいんだ。
「なにも諦めるな。生きろ」
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