椿の墜ちるころに9

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椿の墜ちるころに9

「俺が死んだら、骨をやるよ」 何を馬鹿なことを言っているんだと、一蹴するのは簡単だった。 俺はお前から、なにも欲しくはないのだと。 ぐずぐずと抱き合いながら、時折平一郎は俺のたばこを取り上げて煙を吸い込み、俺の顔に吹きかけた。俺が迷惑そうに眉を顰めると、こどものように微笑みさえした。 それから、ふっと表情をなくしてつぶやいた。 「惚れた男の骨を手にできる男が、この世に何人いると思ってやがる」 大陸に旅発つ山形の後ろ姿が、平一郎の脳裏には浮かんでいるのかもしれなかった。 ああそうだ。 平一郎はなぜか俺の返答に、とてもうれしそうな顔をした。 「欲しいだろう?」 調子に乗るな。 この馬鹿。 幾度となく繰り返したこの言葉ではない。 もうずいぶん忘れていたが、あの時俺は確かにこういったのだ。 「お前に惚れてなんかねえよ」 そう言って口づけたのだ。 まるで初めて人の口を吸ったような、そんな心地だった。 何もかもをかなえてやると約束した男が、みっともなく惚れたわけじゃねえと意地を張る。 平一郎にしてみれば、滑稽というほかなかったのだろう。 「死んだら俺は、お前のものだよ」 大倉平一郎を手に入れたまえ。 染島の言葉がぐらぐらと腹の底から湧き上がる。 手に入れたい。 俺だけのものにしたい。 誰にも触れさせずに。 だが同時に、額づいてしまいたくなるほどの、たまらない気持ちが暴れだしてしまいそうだった。 お前はそんな泥の中から、何を掴もうとしているのか。 篠山にはその手の先に、血だまりがあるようにしか思えなかった。 けれど近づくたびに、触れるたびに。 見つめられるたびに。 その泥の中から伸ばす手を、つかんで引き上げてやりたいとさえ思えてしまう。 篠山は胸によみがえった長い思い出を、眉根を寄せながら思い返していた。 「・・・どうしました」 杯を片手に、動かなくなった篠山を客が怪訝そうにみる。 口に入れた瞬間に、花びらでも入っていたのかと思うほどの香りと一緒に、篠山の胸にはあの日々が一息によみがえった。 「これは、酒ですか」 研ぎ澄まされたのどを通る後味の美しさ。 強く鋭い印象だけを残して、すっきりと過ぎていく春の風に吹かれたような。 「こんなものが」 日本酒品評会の役員だという客と軍部の接待。裏金と賄賂で少しでも自分たちを優遇してもらおうとする商売人たちを軍部の人間に紹介するいつもの仕事。 それだというのに。 「・・・それは、素晴らしい酒でしょう」 一人の酒屋者がしみじみと言葉を選ぶ。同席している者たちも、それに全くの異論なくうなずいている。 「大倉酒造がこんな酒を造るなど、だれも想像していなかった。どれほどの苦労があったのか、ぜひ蔵元にうかがいたいものです。今年の金賞は、発表を待つまでもありません」 そうですな、と口々に誰もが同意する。 草がささやくようなざわめきに、篠山はまだこの酒の感動から戻ってくることができなかった。 お前は何に手を伸ばしている。 何故そこまでする。 何故俺の言うことを聞かない。 その血だまりから何を掴みだそうとしているのだ。 そんな言葉が口をつきそうになることは、何度もあった。 金を、薬を無心されるたび。 あまつさえ人を買えと言われるたび。 そのたびに篠山は、あの日平一郎を抱きしめながら胸からあふれた言葉を思い出していた。 なにもいらない。 なにも諦めるな。 「こんなにも美しいものが、酒なのか」 驚きと感動で、篠山は自分がどんな表情をしているのかわからなかった。 だが客たちはしみじみとうなづいていた。 「こんな泥みたいな時代に、どうしてこれほどのものが造れたのでしょうね。こんなに美しいものを、どうして知っていたのでしょうか」 平一郎の顔がよぎる。 こんなにも美しいものが、お前にはずっと見えていたのか。 「篠山さま、我々はこの国の酒蔵をこの時代の中でも守っていきたいと考えています。何卒よろしくお願いいたします」 そう手をついて頭を下げる酒屋の主人たちに、篠山は何も言えなかった。 自分にできることは、賄賂の橋渡しだけだ。 大陸にいる山形が、本国の酒造にかかわる税収に厳しい視線を向けていることは確かだ。 「お前さんたちは、お前さんたちで、やれるだけのことをやりゃあいいさ」 そう言って軍人たちを紹介して、座敷を後にする。 山形の視線がこんなにも細かいところにまでは入ってこないことを、篠山は知っていた。 なので酒屋も酒蔵も、上手に袖の下のやりとりさえ済ませれば、当分の間は大丈夫だろう。 冷え込んできた夜道を歩きながら、篠山の胸にはまるで堰を切ったように何もかもが浮かんできた。 まるで小さな蝋燭の炎が、胸をたためているかのような心地だった。 頬に刺すような冷たさを感じるというのに、胸がいじらしいくらいに温かい。 これが酒か。 これほどのものが酒なのか。 どうしてこんなにも。 「美しい、か」 部下をつれてこなくてよかった、と篠山は足を止めた。 夜道には家々の明かりがぽつぽつと闇を払いのけている。 明かりの中に住まう人々の誰が、明日さえいらないと思っているのだろうか。 明日などいらない。 平一郎にとっては当たり前のことが、この明かりの中の誰にも気に留められずに。 押し出されるように闇と泥の中に生きるしかなかった平一郎が造った酒は、まるで春の風のようで。 そして。 泣きたくなるほど小さな火を、いつまでも胸にともし続ける。 本当に、そんな酒だったのだ。 頬を熱いものが伝う。 篠山はいつまでも、夜の明かりの淵に立ちすくんでいた。 今までのすべてと、すぐそばの終わりを想いながら。 ************** 東京に出てきたときには薬が効きすぎていたが、2,3日もすると相当落ち着いてきた。 どうしても外せない用事から、できるだけ急いで帰ってきたが、篠山はそんな自分を悟られまいとわざとゆっくりと部屋へ入った。 平一郎は勝手に部屋をあさって見つけた本やら何やらを地べたに広げながら、ぼんやりと身を起こしてこたつに寄りかかっていた。むに、とほほを机に押し付けたまま、ごそごそと篠山を振り返った。 「おかえり」 そう言って少し微笑む。 今まで平一郎にそんな風に笑いかけられたことなどなかった篠山は、一瞬身動きができなかった。そんな様子には一切構わないで、平一郎はこたつの上にみかんを置いて、むいてくれと言って横になる。 「何してんだい、入りなよ寒いから」 「あ、ああ」 篠山がみかんを剥いた端から、寝そべったまま平一郎がみかんを口に運んでいく。 鉛筆をぶらぶらと揺らしながら、思いついたように時折原稿用紙の束に何かを書き込んでいた。 外ではまだ正月気分の抜けきらないこどもたちの羽子板の音がする。 雪を踏みしめてゆく人々の気配。 熊が用意した火鉢や、こたつの中の炭のあたたかい気配。 毒気を抜かれるような穏やかな光景に、篠山は目を白黒させた。 しばらく状況について行けず、いわれるがままにみかんを10個も剥いた。 もしゃもしゃと端から端から食べていく平一郎をみて、驚いたなと心では別のことを思う。 こいつ、こんなにみかんが好きだったのか。 口を開けば金と薬と酒の話しかしないような男だった。 何も諦めるなとはいったものの、あまりにも本当に諦めなかったので、好物さえも今の今まで知らなかった。 「お前さんも、よくこんなものを持ってたもんだね」 「ああ?」 わきわきと無心になってみかんをむきながら、下から聞こえてきた言葉に首をかしげる。何を言っているのか、と思い平一郎を覗き込む。 「お前、それ」 それは昔、薬を絶たれて自暴自棄になっていた平一郎が、落とし紙にでもしろと置いていった論文の束だった。 「これ、卒業論文にするつもりだったんだよ。今見ると、実際と違うところが多いもんだな」 そう言いながら、えんぴつを滑らせていく。 なめらかな音を聞きながら時間が過ぎていく。 平一郎が篠山のもとにやってきてからというもの、嘘のように毎日は穏やかで、ときおりお前は誰だと思うほど、平一郎自身さえも怒ることも怒鳴ることもせず、ひどく穏やかだった。 散歩に行こう、と平一郎から言い出した時には熊も篠山も箸を畳の上に落としたものだった。 庭の雪作った雪玉を投げてきたこともあったが、命中するとひどく喜んだ。 ひとしきり篠山をからかった後は、またこたつにもぐりこんでみかんを剥けと言ってはごろごろしていた。 「ここの風呂は相変わらず広いねえ」 かつて山形の情夫として過ごした屋敷を懐かしみながら、平一郎は風呂上りの体を篠山に預けてきた。読んでいた新聞をたたんで布団のそばに置きながら、篠山は平一郎の濡れた髪を手ぬぐいでぬぐう。 まるでおかしな錯覚さえしてしまいそうだった。 平一郎が健康で、少しばかり家族から離れて休んでいるだけだと。 そんな平凡な毎日が続いていくことなど、ありえないのに。 たったそれだけの凡庸な暮らしを。 望むことさえしなかったというのに。 のどがぐっと引き絞られるような思いが胸を締めた。 「・・・・どうしたんだい?」 「・・・いや」 あまりにも穏やかな生活に戸惑う篠山を、平一郎はふっと笑った。 「春告」 名前を急に呼ぶので、思わず見つめ返す。 しかし目が合うより先に、平一郎の白く細いうでが首に回る。 「すまなかったね」 その細さに。 浅い呼吸に。 篠山は目を閉じて抱き返した。 平一郎も、ただ黙って力をより強くした。 欲望を幾度となく慰め合ってきた。 けれどただお互いの鼓動を聞きくために、抱きしめ合ったのは初めてのことだった。 横になりながら、いつまでもそうしていた。 とくとく、という命の音がする。 こんな小さな罪のない音が。 明日さえ許されないのか。 次の日、平一郎はもう起き上がることはできなかった。 平一郎が死ぬ直前に戯れに手直しした論文は、戦後復員した弟の平次の働きによって出版され、酒蔵の近代化の歴史に刻まれることになる。 近代酒造の教科書として、後世にまで残るのだった。 おわり
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