2

1/1
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

2

 新入生は新学期の大波に押し流された。濃密なオリエンテーション、内容のわからない教科名の時間割、ひっきりなしに体育館と教室を往復し、毎日高速のベルトコンベアに運ばれてるみたいだ。えみは帰るたび、家でぐったりした。  それでも荒れた中学生と違い、生徒たちはどこかおだやかだった。えみも少しずつ慣れ、クラスの中でも特におとなしい女子、ふたりと行動するようにもなった。  はじめていっしょにお昼を食べたとき、えみがおどおどと出身中学名をいうと、ふたりはすぐに察したようだった。他の中学校の間でも、えみの中学校の荒れようは知れ渡っていた。 「そこの話を聞いてると、いつもものすごく怖かった」  小林真麻はいたわりをこめていってくれた。 「ほんとに、卒業できてえらいね、卒業できて、えらいね」  三宅佐緒里はえみをほめちぎった。 「いやあの、わたしは亀みたいにしてたから、だ、だいじょうぶなんだ」 「亀?」  中学校では首をすくめ、殻にとじこもる亀のようにちぢこまっていたという、えみの微妙なたとえに、ふたりはめんくらったようだが、とくべつ追求はしなかった。  実際は、えみがあまりに地味すぎて、直接の標的にはならなかっただけだ。かといってなんの被害もないこともなく、突然うしろから蹴られたり物を盗られたり怒鳴られたり、は日常だった。  お弁当のふたを開け、三人でいっしょに手を合わせたときだ。真麻の椅子の後ろを、男子がわやわやと集団で通った。ぴたりと口を閉じ、真麻は赤くなったまま固まった。えみもそうする。となりの佐緒里もそうしているだろう。三人のタイミングはぴったりおなじだった。  この三人は、ヒエラルキーの底で目立たないよう傷つかないよう、底を浮遊する女子で作る、相互扶助的グループだった。 「これからはいっしょにお昼食べようね」  男子が行ってしまうと、真麻は念を押すようにいい、えみはこくこくと何度もうなずいた。  それからそっと、梓亜のほうを見る。  えみは真麻たちと、教室の端で机をくっつけていたが、梓亜は自分の席にひとりでいた。  梓亜とはひとことも話せていない。家に帰るたび、明日こそ明日こそと何度も誓うのに、朝がくると声は出ないし近づくこともできない。  小学生のときのほうが、用事さえあればまだ、話しかけることができていただろう。  昼休みの教室はいくつもの島ができて、にぎやかだ。そのなかで、真麻も佐緒里もぽつりぽつり話しながら、お弁当を食べた。  ここなら、梓亜を誘っても、だいじょうぶだろうか、それともやっぱり無理だろうか。えみはいつもそんなことをつらつら考えてしまう。  三人のなかで話し始めるのはだいたい真麻だ。あたしんち、猫を十五匹飼ってるんだと真麻はいった。 「みんな茶トラなんだよ」  小柄な真麻はひとこと話すごとに、まんまるい頬を赤く染めた。消しゴムが転がっても赤くなる。 「じゅう、ご、十五匹はすごいね、十五匹は、すごいね」  佐緒里がいつも背を丸めているのは、平均よりもかなり高い身長を気にしているためらしい。ショートカットの髪先が、あちこちにくるくるとはねてしまうのも、嫌でしょうがない。のばすとアフロになる。鎖骨がひとより出ている。どれもこれも、佐緒里のコンプレックス。悩みが多くてたいへんだな、とえみは思っていた。 「ご飯あげてるの、おかあさんなんだけど、おかあさんが帰ってくると、猫がみんな玄関まで走っていって、廊下歩くおかあさんにぞろぞろとついてくの。かわいいんだ」  真麻がいうと、 「えー、見たい、えー、見たい」 と佐緒里が興奮した。  えみはその光景を思い浮かべる。真麻のおかあさんの足もとに、入れ替わり立ち代わり、じゃれつきながら、行列するしましま茶トラの猫たち。ぞろぞろというより、ずるずる、十五匹。もはや毛布だ。 「毛玉の、ウェデングベールみたい」えみはいった。  ふたりは一瞬ぽかんとしてから、くすくす笑った。  ちいさいころ、えみがなにかいうと、まわりのひとは鼻で笑い、兄や妹はあきれて笑った。ことばがすらすら出なくなったのは、そのころからかもしれない。  真麻と佐緒里、ふたりの笑いかたにそんな含みはない。えみは安心する。はじめて、このふたりを好きだと思う。  授業でも目立たず、いつも「ぼっち」の梓亜は、すぐに「そういう子」に分類されていた。生徒たちは気にかけない。  梓亜がひとりぼっちでいるのを見るたび、声をかけようと思うのに、えみの顔も身体もこわばって動かない。  おおぜいのなかでひとりでいるのはつらいし、友達がいないと他人に思われるのはもっとつらい。  梓亜は気にしていないのだろうか。ずっと自分を好きなひとの輪に囲まれて生きていたから、そうじゃなくなる恐怖心を持ち合わせていないのだろうか。  中学校が梓亜とおなじだった真麻に、中学時代のようすを尋ねられたのは、いっしょにお昼を食べはじめて、十一回目のことだった。 「上倉さんといっしょの小学校やったの?」 「うん、わたしおなじクラスでね」  家でなんども練習しただけあって、どうにかすらすら話せた。  真麻はなんでそんなことを尋ねるのかと不審がることなく、埋まってしまった記憶を掘り起こすためにか、軽く眉をしかめた。 「おなじ組になったことないから、よくわかんないけど、ぼんやり名前覚えてるから、けっこう目立ってたひとじゃないかな。一年生のときはよく聞いてた気がする。二年は、どうかな。受験でバタバタするようになったら、ひとのうわさとか聞かなくなっちゃった。受験でうわさなんかするひま、なくなったんだよね」  彼女たちの中学校は市内一大きい。クラスが違い、教室が離れていれば存在も知らずに三年間、ということもありえた。 「あ、そうだよね、変なこと聞いてごめん」  えみは食べかけのおにぎりを口に押しこんだ。ごくっと、飲みこむ。  明日こそ、梓亜に話しかける。 「本人に訊けよ」  昔、剣道を習っていた兄のことばは、いつも厳しい。えみは、すぱーん、と面を打たれたようにやられてしまう。 「ともだちの姉ちゃんに訊こうとか、まわりくどいことせんと、本人になんかあったんかっていえば、そんで終わるやろ」  やっぱりこうなった。離れて暮らしている社会人の兄が帰ってくると知り、ひとばん、どう切り出したら、こんなふうに切り捨てられないか、えみは悩んだ。兄の晶と梓亜の姉は同級生だった。  できたら、梓亜の姉とこっそり連絡をとれないか、そして理由をぼかしたまま、情報だけ聞き出したかった。  けれど、晶はそんな手には乗らなかった。ぱんぱん質問され、おどおど答えて、結局、懸念していることをつらつら白状させられ、やっぱりがみがみいわれてしまった。  昔から、兄は苦手だ。  晶は冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出し、口をつけて飲んでいる。母親が一番怒る行為だが、晶はやめようとしない。  えみはダイニングキッチンで立ちつくしていた。  だまってしまった妹を一瞥し、晶はいった。 「だいたいおれ、頭のいい上倉とは仲良くなかったし。そうとうツテたどって調べんと連絡先なんかわからんわ」 「そ、そこを、どうにか」 「はあ? どんだけ大変だと」  晶はどうしても回らない、調味料のチューブのふたでもにらむように妹を見た。えみは自分がなにをいいたかったのか、わからなくなった。 「おまえ前髪長すぎてじゃまじゃね? 高校に入ってもその髪、切ってないの? 校則違反じゃね? 髪の奥からにらみつけられたって、ぜんぜん、迫力ねえし」  晶は一番つかれたくないところを指摘し始めた。もうだめだ。えみがあきらめて行こうとすると、戸がさっと開いた。 「おにいちゃん帰ってきたの? なにしゃべってんの?」  中一の妹、あんが帰ってきた。「あー、おみやげ、エクレアだ、好き好き」  あんは部活のあとらしく体操着で、まだ五月なのに半袖だ。とても自分とおなじ血が通っているとは思えない。 「おいしー。なかのクリームが二種類なんね。すごい、おにいちゃんわかってる」妹の笑顔にくもりはない。晶のみやげを見つけると、すぐにぱくつく。  えみの卒業直前、中学校では生徒の集団転校騒ぎが起こった。そこでやっとおとなが本腰を入れ、やっといじめは収束し始めた。  入れ替わりで入学したあんは、姉や姉の同級生のような目にはあっていないらしい。  あんはきれいな黄色の傘を持ち歩いている。えみたちの代では、ちょっと目立つ傘を持っていると、すぐに壊されるか盗られるかしてしまい、そのうち透明コンビニ傘でもやられるようになって、だれも傘を持たなくなった。もちろん、えみもだ。  当時、おとなたちは傘を持たない子どもたちを、若いもののそういう「流行」なんだろうと判断したのか、実は事情がわかっていてもめんどうだったのか。とにかく深く追求しなかった。  だから、あんの黄色い傘を見ると、時代は変わったんだなとしみじみしてしまう。 「こいつの、髪うざいって話」 「あー、それね。えみに似合っとらんわね。なんで切らんの」  えみは晶とあんの顔を見比べた。  ふたりとも切れ長の目で、両親も純日本風、額の輪郭はシャープで、黒目もふつうだ。いわゆる、しゅっとした顔だ。えみだけがちがう。  ダルマと呼ばれたえみのきもちはわからない。  ふたりはいつの間にか、昔話でもりあがっていた。 「家族で砂丘に行ったときのこと、おぼえとる」 「しゃがんで、砂をひとつまみして、じーっと見たと思ったら、ここに何粒あるのって、かあちゃんに訊いたんだよな」 「理解できんね、えみってド天然だわ」  えみはだまって部屋を出た。いくらか怒ってもいた。梓亜本人に尋ねられるくらいなら、わざわざ晶に頼むはずがないではないか。今日だって、もたもたして結局できなかったのだ。  そう、兄の性格からして、こういう結末になると、うすうすは予期していた。それでも、梓亜に無視されるほうが怖いのだ。  毎日少しずつためた勇気が一定量に達し、えみが梓亜にどうにか声をかけたのは、高校の部活申し込み最終日、前日だった。  昼休みの教室はざわざわして、窓から黄砂が入ったのかほこりっぽい。誰もが自分の仲間と話し、自分のことで忙しい。えみが前の席によろよろと近づいて行ったことなど、気にするものはいない。  梓亜のまわりだけ、喧噪は届かず、取り残されていた。それは中学のころの、いやな光景を思い出させる。  黒歴史の中学生活をへて、えみは一段と梓亜に距離を感じていた。自分みたいな暗い三年間を送ったものが話しかけてくるなんて、嫌じゃないだろうか。  もしも梓亜が以前のままの、ぴかぴかした梓亜だったら、気後れでえみは押しつぶされ、自分から話しかけるなんて、一生できなかっただろう。  けれどえみはどうしても、梓亜の事情を知りたかった。梓亜は、こんな毎日を送るべき存在ではないのだ。 「し、し、しあっちゃ」  えみの、きれぎれの声に、梓亜は顔を上げた。 「ああ、えみ」  梓亜は座ったまま、えみにほほえんだ。とたん、えみのなかでぽんと音を立て、きれいな花が開いた。  はじめて梓亜が話しかけてくれたときのように、あたりが光にてらされ、世界はぱあっとあかるくなった。  しあちゃん、  しあちゃん、  しあちゃん  えみは胸のなかで何回も名前を呼んだ。梓亜は、入学してからずっと、えみが逡巡していたことなど知らず、深く、やわらかに、笑った。  何年かぶりの、梓亜の声。昨日までふつうに口をきいていた友人どうしのように、ほがらかで、おうようだった。自分を全肯定してくれる、ひろくてやわらかい、声。  どうしてこの声を聞かずに、何年も過ごせたんだろう、とえみは思った。  泣き出しそうになりながら、それでもえみは変にあいた間を取り繕うために、練習してきた台詞を、どうにか口にした。 「部活、どこか、入る?」  もしゃもしゃした髪型でも、そのせいで大好きだったきれいな顔がよく見えなくても、えみにとってはやっぱり、梓亜はまぶしい存在だった。 「ううん」梓亜はいった。「入らないよ」 「え、しあちゃん、運動神経いいし、もったいないよ」  てっきり中学のときのように、チアリーダー部かほかの運動部に入ると思っていた。そこから会話を続けていくつもりだったのに。  梓亜はじっとえみを見て、「ここ、チア部ないよ」といった。 「えっ」  思っただけなのに、気づかずに声に出していたのかと、えみは手で口を押さえた。  ふっ、と梓亜は笑った。  梓亜が笑うたび、えみのなかでぽん、と大輪の花が咲く。 「あ、あ、しあちゃん、向こうで、いっしょに、お昼食べない?」 「ごめん、もう食べた。いまから文庫本読むつもり」 「そうなんだ、じゃあ、また」  梓亜は机のなかから青いブックカバーを出して、読み始めた。えみは満腹のようなもの足りないような、ふわふわしたきもちのまま、真麻たちの席に戻った。 「上倉さん、どうだって?」 「もう、お昼、食べたって」 「そうなんだあ」  えみはふたりに、前もって梓亜を誘っていいか尋ねていた。  真麻と佐緒里はお弁当を食べ始めたが、えみはおにぎりを持ったまま、お花畑の頭でぼおっとしていた。  それからえみは、なるべく梓亜に声をかけるようにした。毎日毎時間は無理だが、うすい勇気をかき集めてためこんでは、梓亜を誘った。  梓亜はいっしょに行動したりしなかったりした。  高校は想像よりずっと忙しいところだった。四月はシステムに慣れることに費やされ、ゴールデンウィークでひといきつくと、試験や球技大会といったイベントが日々を埋めていく。  真麻たちは写真部に入部し、いろいろと忙しそうだ。えみも誘われたが、繊細な機器を扱う自信がなくて入らなかった。梓亜とおなじ、帰宅部だ。  とにかく梓亜はえみが誘わない限り、ひとりで行動する。他人が存在することを忘れているようにすら思えた。  ほおっておくと、ひとりで弁当を食べ、ひとりでトイレに行き、ひとりで下校した。  女子がひとりでトイレに行くなんてありえなかった。あの中学でですら、えみは仲良くもない子と列になって廊下を歩いた。  真麻たちは、自分たちとは異質の梓亜がたまに混じることにとまどったが、梓亜が他人を傷つけるタイプではなく、ほとんどしゃべらないことがわかると、静かに受け入れた。  ふたりはおなじ部に入らなくても、怒ったりしない。自覚はあった、ふたりのやわらかさに助けられ、えみはくじけずにすんでいた。ものすごく、頼っている。  あの、小学校のころのような、特別なきらきらを梓亜は見せなかった。  授業中は当てられたときしか口を開かず、得意だった体育は淡々とこなし、よぶんなことはなにもしない。  オーラを消し、教室の隅でひっそりと暮らす梓亜は、中学時代の自分のようで、えみはもどかしかった。  あせった。  いつまでも芽吹かない種に、水をやり続けているような気になった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!