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新入生は新学期の大波に押し流された。濃密なオリエンテーション、内容のわからない教科名の時間割、ひっきりなしに体育館と教室を往復し、毎日高速のベルトコンベアに運ばれてるみたいだ。えみは帰るたび、家でぐったりした。
それでも荒れた中学生と違い、生徒たちはどこかおだやかだった。えみも少しずつ慣れ、クラスの中でも特におとなしい女子、ふたりと行動するようにもなった。
はじめていっしょにお昼を食べたとき、えみがおどおどと出身中学名をいうと、ふたりはすぐに察したようだった。他の中学校の間でも、えみの中学校の荒れようは知れ渡っていた。
「そこの話を聞いてると、いつもものすごく怖かった」
小林真麻はいたわりをこめていってくれた。
「ほんとに、卒業できてえらいね、卒業できて、えらいね」
三宅佐緒里はえみをほめちぎった。
「いやあの、わたしは亀みたいにしてたから、だ、だいじょうぶなんだ」
「亀?」
中学校では首をすくめ、殻にとじこもる亀のようにちぢこまっていたという、えみの微妙なたとえに、ふたりはめんくらったようだが、とくべつ追求はしなかった。
実際は、えみがあまりに地味すぎて、直接の標的にはならなかっただけだ。かといってなんの被害もないこともなく、突然うしろから蹴られたり物を盗られたり怒鳴られたり、は日常だった。
お弁当のふたを開け、三人でいっしょに手を合わせたときだ。真麻の椅子の後ろを、男子がわやわやと集団で通った。ぴたりと口を閉じ、真麻は赤くなったまま固まった。えみもそうする。となりの佐緒里もそうしているだろう。三人のタイミングはぴったりおなじだった。
この三人は、ヒエラルキーの底で目立たないよう傷つかないよう、底を浮遊する女子で作る、相互扶助的グループだった。
「これからはいっしょにお昼食べようね」
男子が行ってしまうと、真麻は念を押すようにいい、えみはこくこくと何度もうなずいた。
それからそっと、梓亜のほうを見る。
えみは真麻たちと、教室の端で机をくっつけていたが、梓亜は自分の席にひとりでいた。
梓亜とはひとことも話せていない。家に帰るたび、明日こそ明日こそと何度も誓うのに、朝がくると声は出ないし近づくこともできない。
小学生のときのほうが、用事さえあればまだ、話しかけることができていただろう。
昼休みの教室はいくつもの島ができて、にぎやかだ。そのなかで、真麻も佐緒里もぽつりぽつり話しながら、お弁当を食べた。
ここなら、梓亜を誘っても、だいじょうぶだろうか、それともやっぱり無理だろうか。えみはいつもそんなことをつらつら考えてしまう。
三人のなかで話し始めるのはだいたい真麻だ。あたしんち、猫を十五匹飼ってるんだと真麻はいった。
「みんな茶トラなんだよ」
小柄な真麻はひとこと話すごとに、まんまるい頬を赤く染めた。消しゴムが転がっても赤くなる。
「じゅう、ご、十五匹はすごいね、十五匹は、すごいね」
佐緒里がいつも背を丸めているのは、平均よりもかなり高い身長を気にしているためらしい。ショートカットの髪先が、あちこちにくるくるとはねてしまうのも、嫌でしょうがない。のばすとアフロになる。鎖骨がひとより出ている。どれもこれも、佐緒里のコンプレックス。悩みが多くてたいへんだな、とえみは思っていた。
「ご飯あげてるの、おかあさんなんだけど、おかあさんが帰ってくると、猫がみんな玄関まで走っていって、廊下歩くおかあさんにぞろぞろとついてくの。かわいいんだ」
真麻がいうと、
「えー、見たい、えー、見たい」
と佐緒里が興奮した。
えみはその光景を思い浮かべる。真麻のおかあさんの足もとに、入れ替わり立ち代わり、じゃれつきながら、行列するしましま茶トラの猫たち。ぞろぞろというより、ずるずる、十五匹。もはや毛布だ。
「毛玉の、ウェデングベールみたい」えみはいった。
ふたりは一瞬ぽかんとしてから、くすくす笑った。
ちいさいころ、えみがなにかいうと、まわりのひとは鼻で笑い、兄や妹はあきれて笑った。ことばがすらすら出なくなったのは、そのころからかもしれない。
真麻と佐緒里、ふたりの笑いかたにそんな含みはない。えみは安心する。はじめて、このふたりを好きだと思う。
授業でも目立たず、いつも「ぼっち」の梓亜は、すぐに「そういう子」に分類されていた。生徒たちは気にかけない。
梓亜がひとりぼっちでいるのを見るたび、声をかけようと思うのに、えみの顔も身体もこわばって動かない。
おおぜいのなかでひとりでいるのはつらいし、友達がいないと他人に思われるのはもっとつらい。
梓亜は気にしていないのだろうか。ずっと自分を好きなひとの輪に囲まれて生きていたから、そうじゃなくなる恐怖心を持ち合わせていないのだろうか。
中学校が梓亜とおなじだった真麻に、中学時代のようすを尋ねられたのは、いっしょにお昼を食べはじめて、十一回目のことだった。
「上倉さんといっしょの小学校やったの?」
「うん、わたしおなじクラスでね」
家でなんども練習しただけあって、どうにかすらすら話せた。
真麻はなんでそんなことを尋ねるのかと不審がることなく、埋まってしまった記憶を掘り起こすためにか、軽く眉をしかめた。
「おなじ組になったことないから、よくわかんないけど、ぼんやり名前覚えてるから、けっこう目立ってたひとじゃないかな。一年生のときはよく聞いてた気がする。二年は、どうかな。受験でバタバタするようになったら、ひとのうわさとか聞かなくなっちゃった。受験でうわさなんかするひま、なくなったんだよね」
彼女たちの中学校は市内一大きい。クラスが違い、教室が離れていれば存在も知らずに三年間、ということもありえた。
「あ、そうだよね、変なこと聞いてごめん」
えみは食べかけのおにぎりを口に押しこんだ。ごくっと、飲みこむ。
明日こそ、梓亜に話しかける。
「本人に訊けよ」
昔、剣道を習っていた兄のことばは、いつも厳しい。えみは、すぱーん、と面を打たれたようにやられてしまう。
「ともだちの姉ちゃんに訊こうとか、まわりくどいことせんと、本人になんかあったんかっていえば、そんで終わるやろ」
やっぱりこうなった。離れて暮らしている社会人の兄が帰ってくると知り、ひとばん、どう切り出したら、こんなふうに切り捨てられないか、えみは悩んだ。兄の晶と梓亜の姉は同級生だった。
できたら、梓亜の姉とこっそり連絡をとれないか、そして理由をぼかしたまま、情報だけ聞き出したかった。
けれど、晶はそんな手には乗らなかった。ぱんぱん質問され、おどおど答えて、結局、懸念していることをつらつら白状させられ、やっぱりがみがみいわれてしまった。
昔から、兄は苦手だ。
晶は冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出し、口をつけて飲んでいる。母親が一番怒る行為だが、晶はやめようとしない。
えみはダイニングキッチンで立ちつくしていた。
だまってしまった妹を一瞥し、晶はいった。
「だいたいおれ、頭のいい上倉とは仲良くなかったし。そうとうツテたどって調べんと連絡先なんかわからんわ」
「そ、そこを、どうにか」
「はあ? どんだけ大変だと」
晶はどうしても回らない、調味料のチューブのふたでもにらむように妹を見た。えみは自分がなにをいいたかったのか、わからなくなった。
「おまえ前髪長すぎてじゃまじゃね? 高校に入ってもその髪、切ってないの? 校則違反じゃね? 髪の奥からにらみつけられたって、ぜんぜん、迫力ねえし」
晶は一番つかれたくないところを指摘し始めた。もうだめだ。えみがあきらめて行こうとすると、戸がさっと開いた。
「おにいちゃん帰ってきたの? なにしゃべってんの?」
中一の妹、あんが帰ってきた。「あー、おみやげ、エクレアだ、好き好き」
あんは部活のあとらしく体操着で、まだ五月なのに半袖だ。とても自分とおなじ血が通っているとは思えない。
「おいしー。なかのクリームが二種類なんね。すごい、おにいちゃんわかってる」妹の笑顔にくもりはない。晶のみやげを見つけると、すぐにぱくつく。
えみの卒業直前、中学校では生徒の集団転校騒ぎが起こった。そこでやっとおとなが本腰を入れ、やっといじめは収束し始めた。
入れ替わりで入学したあんは、姉や姉の同級生のような目にはあっていないらしい。
あんはきれいな黄色の傘を持ち歩いている。えみたちの代では、ちょっと目立つ傘を持っていると、すぐに壊されるか盗られるかしてしまい、そのうち透明コンビニ傘でもやられるようになって、だれも傘を持たなくなった。もちろん、えみもだ。
当時、おとなたちは傘を持たない子どもたちを、若いもののそういう「流行」なんだろうと判断したのか、実は事情がわかっていてもめんどうだったのか。とにかく深く追求しなかった。
だから、あんの黄色い傘を見ると、時代は変わったんだなとしみじみしてしまう。
「こいつの、髪うざいって話」
「あー、それね。えみに似合っとらんわね。なんで切らんの」
えみは晶とあんの顔を見比べた。
ふたりとも切れ長の目で、両親も純日本風、額の輪郭はシャープで、黒目もふつうだ。いわゆる、しゅっとした顔だ。えみだけがちがう。
ダルマと呼ばれたえみのきもちはわからない。
ふたりはいつの間にか、昔話でもりあがっていた。
「家族で砂丘に行ったときのこと、おぼえとる」
「しゃがんで、砂をひとつまみして、じーっと見たと思ったら、ここに何粒あるのって、かあちゃんに訊いたんだよな」
「理解できんね、えみってド天然だわ」
えみはだまって部屋を出た。いくらか怒ってもいた。梓亜本人に尋ねられるくらいなら、わざわざ晶に頼むはずがないではないか。今日だって、もたもたして結局できなかったのだ。
そう、兄の性格からして、こういう結末になると、うすうすは予期していた。それでも、梓亜に無視されるほうが怖いのだ。
毎日少しずつためた勇気が一定量に達し、えみが梓亜にどうにか声をかけたのは、高校の部活申し込み最終日、前日だった。
昼休みの教室はざわざわして、窓から黄砂が入ったのかほこりっぽい。誰もが自分の仲間と話し、自分のことで忙しい。えみが前の席によろよろと近づいて行ったことなど、気にするものはいない。
梓亜のまわりだけ、喧噪は届かず、取り残されていた。それは中学のころの、いやな光景を思い出させる。
黒歴史の中学生活をへて、えみは一段と梓亜に距離を感じていた。自分みたいな暗い三年間を送ったものが話しかけてくるなんて、嫌じゃないだろうか。
もしも梓亜が以前のままの、ぴかぴかした梓亜だったら、気後れでえみは押しつぶされ、自分から話しかけるなんて、一生できなかっただろう。
けれどえみはどうしても、梓亜の事情を知りたかった。梓亜は、こんな毎日を送るべき存在ではないのだ。
「し、し、しあっちゃ」
えみの、きれぎれの声に、梓亜は顔を上げた。
「ああ、えみ」
梓亜は座ったまま、えみにほほえんだ。とたん、えみのなかでぽんと音を立て、きれいな花が開いた。
はじめて梓亜が話しかけてくれたときのように、あたりが光にてらされ、世界はぱあっとあかるくなった。
しあちゃん、
しあちゃん、
しあちゃん
えみは胸のなかで何回も名前を呼んだ。梓亜は、入学してからずっと、えみが逡巡していたことなど知らず、深く、やわらかに、笑った。
何年かぶりの、梓亜の声。昨日までふつうに口をきいていた友人どうしのように、ほがらかで、おうようだった。自分を全肯定してくれる、ひろくてやわらかい、声。
どうしてこの声を聞かずに、何年も過ごせたんだろう、とえみは思った。
泣き出しそうになりながら、それでもえみは変にあいた間を取り繕うために、練習してきた台詞を、どうにか口にした。
「部活、どこか、入る?」
もしゃもしゃした髪型でも、そのせいで大好きだったきれいな顔がよく見えなくても、えみにとってはやっぱり、梓亜はまぶしい存在だった。
「ううん」梓亜はいった。「入らないよ」
「え、しあちゃん、運動神経いいし、もったいないよ」
てっきり中学のときのように、チアリーダー部かほかの運動部に入ると思っていた。そこから会話を続けていくつもりだったのに。
梓亜はじっとえみを見て、「ここ、チア部ないよ」といった。
「えっ」
思っただけなのに、気づかずに声に出していたのかと、えみは手で口を押さえた。
ふっ、と梓亜は笑った。
梓亜が笑うたび、えみのなかでぽん、と大輪の花が咲く。
「あ、あ、しあちゃん、向こうで、いっしょに、お昼食べない?」
「ごめん、もう食べた。いまから文庫本読むつもり」
「そうなんだ、じゃあ、また」
梓亜は机のなかから青いブックカバーを出して、読み始めた。えみは満腹のようなもの足りないような、ふわふわしたきもちのまま、真麻たちの席に戻った。
「上倉さん、どうだって?」
「もう、お昼、食べたって」
「そうなんだあ」
えみはふたりに、前もって梓亜を誘っていいか尋ねていた。
真麻と佐緒里はお弁当を食べ始めたが、えみはおにぎりを持ったまま、お花畑の頭でぼおっとしていた。
それからえみは、なるべく梓亜に声をかけるようにした。毎日毎時間は無理だが、うすい勇気をかき集めてためこんでは、梓亜を誘った。
梓亜はいっしょに行動したりしなかったりした。
高校は想像よりずっと忙しいところだった。四月はシステムに慣れることに費やされ、ゴールデンウィークでひといきつくと、試験や球技大会といったイベントが日々を埋めていく。
真麻たちは写真部に入部し、いろいろと忙しそうだ。えみも誘われたが、繊細な機器を扱う自信がなくて入らなかった。梓亜とおなじ、帰宅部だ。
とにかく梓亜はえみが誘わない限り、ひとりで行動する。他人が存在することを忘れているようにすら思えた。
ほおっておくと、ひとりで弁当を食べ、ひとりでトイレに行き、ひとりで下校した。
女子がひとりでトイレに行くなんてありえなかった。あの中学でですら、えみは仲良くもない子と列になって廊下を歩いた。
真麻たちは、自分たちとは異質の梓亜がたまに混じることにとまどったが、梓亜が他人を傷つけるタイプではなく、ほとんどしゃべらないことがわかると、静かに受け入れた。
ふたりはおなじ部に入らなくても、怒ったりしない。自覚はあった、ふたりのやわらかさに助けられ、えみはくじけずにすんでいた。ものすごく、頼っている。
あの、小学校のころのような、特別なきらきらを梓亜は見せなかった。
授業中は当てられたときしか口を開かず、得意だった体育は淡々とこなし、よぶんなことはなにもしない。
オーラを消し、教室の隅でひっそりと暮らす梓亜は、中学時代の自分のようで、えみはもどかしかった。
あせった。
いつまでも芽吹かない種に、水をやり続けているような気になった。
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