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 その子は、前川えみの知る「上倉梓亜」ではなかった。  廊下に戻り、掲示板に貼ってあった座席表を確かめる。席は名簿順に決められていて、そこはやっぱり、「上倉梓亜」の席だった。  廊下の窓は中学校より大きく、光量はじゅうぶんだ。見間違いではない。  きゃっきゃとにぎやかな新入生のかたまりが、えみの肩にぶつかって、でも気がつかずにとなりの教室に入っていった。  あんまりうろうろしていると、入学早々悪目立ちするかもしれず、えみは席に戻った。おしゃべりしている生徒はいない。  しんとした教室の、真ん中くらいのえみの席からは、廊下側一番前の、その子のうしろ姿が見えた。  女子にしては幅広めの肩に、中途半端な長さの髪がかかっている。藍色のジャケットは大きめで、体型がよくわからない。藍色の背中には、小学校のころ、えみには見えた、あのきらきらしたつばさはなかった。  えみが入学したのは、偏差値のたいして高くない、生徒がおとなしいのが特徴の、そう、えみ自身のような高校だ。えみの覚えている、すべてにすぐれた梓亜にふさわしいところではない。  別人じゃないのか、もういちどえみは目をこらした。つやが感じられない髪はゴムで無造作にまとめられ、表情は見えない。  教室の前の戸が開いて、起立と自分でいいながら、眼鏡の先生が入ってきた。入学式で紹介されていた担任だった。立ち上がろうとして、あっと思った。立つ動作を始めたその子の、横顔が見えた。覚えがあった。  あの形のいい耳は、梓亜だ。  小学校卒業と同時に、梓亜の一家は引っ越した。ひとり暮らしだった祖母と同居するため、別の町に家を建てたのだ。  これで、梓亜の祖母の家はえみの近所ではなくなった。  他市に行ったわけではないが学区が違ってしまい、梓亜とえみは別の中学校に通うことになった。おとなにとってはたいした距離ではない。しかし、当時こどもだったえみにとっては、絶望的なへだたりだった。  失望とともに始まった中学生活だったが、黄金の日々の反動でもあるかのように、三年間は暗黒期となった。校内にいじめと暴力が吹き荒れ、おとなでもかんたんに止められるものではなかった。  もしかしたらえみは、一生ぶんの幸運を、あの、小学生さいごの数ヶ月で使い果たしたのかもしれなかった。えみにとって、梓亜との思い出、梓亜の存在だけが支えだった。  梓亜はきっと小学校時代のまま、きらきらと暮らしている。そう信じていた。  実際、中学校入学当時は、他校で楽しそうな梓亜の様子も耳にした。運動が得意でスタイルのいい子しか入れない、チアリーダー部にスカウトされたとか。友だちのいないえみにすら届いたうわさなのだから、それはかなり注目されたニュースだったのだろう。  なんの落ち度もないクラスメイトが標的となりいじめられ、しばらくすると交代して、次は別の子が犠牲になる。  そんな教室で、えみは縮こまって、ただひたすら思い出にすがった。胸のちいさなともしびに手をかざし、こごえそうなこころをあたため、嵐が過ぎるのを待った。  最悪な中学生活に、もしも梓亜がそこにいたら、なにか違っていたかもしれない、と、あの梓亜の魔法を恋しく思ったこともあったけれど、こんなところに梓亜がいなくてよかった、というきもちのほうが強かった。  梓亜の人生を汚したくなかった。自分がつらければつらいほど、梓亜はすこやかな毎日を送れるのだと、おかしな想像さえしていた。  そうしてどうにか三年、生きのびたのだった。  えみにはもちろん、梓亜に会いに行くような余裕も勇気もなかったし、梓亜から連絡もなかった。  こんな中学時代を送った自分はもう梓亜にふさわしくはない。もう二度と会えない、そう思っていたから、目の前の現実が、なかなか受け入れられなかった。  自己紹介が始まった。名簿順に、生徒が立ち上がる。そして名のる。名前というものはなんてすごい個人特定ツールなのだろう。間違えようが、ない。  その子が立つ。 「上倉梓亜です」  梓亜がそこにいた。地上で燃えつきた、流星のように。
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