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 高校の校舎は三階建てL字型だった。教室数の関係で、一年生の教室は東棟に二つ、南棟に三つと分けられている。この棟が違うと、同級生でも部活が同じでない限り、長い間出会わないこともあった。  だから、同中出身の江内友隆が近寄ってきたとき、えみは一瞬、だれかわからなかった。江内は東棟で、えみは南棟だ。顔を合わせたのは、卒業以来だった。 「おー、前川ぁ、ちょっと今日、相談あんだけどぉ」  えみは、両棟をつなぐ渡り廊下で呼び止められた。どこかあまえるような語尾を、耳が覚えていた。えみがなにも答えないうちに、江内は放課後に教室で待っとってといって、自分の棟のほうに走っていってしまった。  えみが教室に戻ると、口をきいたことのない女子が寄ってきた。 「いまの、前川さんの彼? すっご、かわいい」 「いえ、違います」  えみにしてはめずらしくさらりと否定し、彼女の脇をすり抜けて、席に着いた。  やっぱりかわいらしいのか、とえみは思った。  江内は、小動物系の顔にいつも愛嬌たっぷりの笑みを浮かべて、誰とでも距離が近い男子だった。悪くいうとなれなれしい。昔から、上級生下級生の女子には人気があったように思う。  ただ、同級生的には。さっき話しかけてきた女子も、違う中学出身だ。  えみの学年では名字の江内は、あり「えない」の、「えない」といわれていた。最初はいいやつだと思って仲よくしていても、次第に「アレ?」おかしいぞ、という気になってくるからだ。  愛想がよく調子はいいのだが、信用してはいけない男ナンバーワンと、えみの同級生たち、とくに女子にはそう評されていた。 「上倉に、文化祭のオンステージに出て、ふたりでまんざいしようって誘ったんだけど、ソッコー断られてん」  江内は放課後の掃除終了後、かなり時間がたってから現れた。これから部活とかで、体操着に着替えている。えみはずっと、暗い教室でひとりで待っていた。そのことについて江内の謝罪はない。  ほかのクラスの男子と話しているところを、だれにもみられなくてよかったと、えみは思った。陽は傾き始めたが、教室の蛍光灯はつけていない。そのほうが安心して話せる。 「舞台映えして笑いもとれるなんて、おれの知ってるなかじゃ上倉くらいやろ。あいつが小学校の、卒業生を送る会でやったアイドルのものまね、すっごいクオリティやったやん。やっぱ上倉しかいねえと思うんだよね。前川、上倉とおなじクラスやろ、前川からも上倉に出るよういってくれん?」  文化祭は夏休み中に準備をして、九月、休み明けすぐに行われる。内容はクラス合唱、部活発表、模擬店。そしてオンステージというものがあるらしかった。  この前のロングホームルームでは、そのくらいしか説明されていない。詳しい内容については、また次だ。 「そ、の、オンステージって、なんなの」 「部の先輩からいろいろ聞いたんだよね。体育館の特設ステージで、なんでもやりたいパフォーマンスできるの。バンドやってるヤツが曲を演奏してもいいし、カラオケやダンス、青少年の主張みたいな演説とかでもいいんだって。そこでおれと上倉がまんざいやって、どかんとうけて、優勝して、もう人気者になっちゃう予定。いいと思うやろ、ね、ね、前川からもすすめてよ」 「わたしが、なんで」 「おれら幼なじみやんか、な、そんくらいしてもいいやん」  こういうところだと、えみは思った。  最初は、かわいらしい外見で女子を引きつける江内だが、毎日の教室では、すぐにあり「えない」になるのだ。  中学のとき、えみは江内とおなじ地理発表の班になった。江内はとっちらかったアイディアをつぎつぎと出して、すべてを盛りこもうとし、班内に大混乱を招き、最後にはあきてほおり出した。  残りの班員は怒りながらもイチからやり直し、どうにか発表を準備したのだ。  当時、だからあり「えない」の「えない」なのか、と、えみは納得したものだった。  彼がえみですらあまり気負わず話せる男子なのは、小中高と、ずっとおなじ学校だからではない。クラス内でのうきかたに、親近感があるからだ。 「でも、しあちゃん、いまは、ああいう、かんじだし」 「ああいうかんじ? だれが? あ、もしかして、上倉、もうなんか別の出し物で出場決めてんかな」  江内は訊き返した。えみは正面は見られなくて、壁の掲示物が気になるふりをしていた。 「それは、たぶん、ないと、思うけど」  そうか、知らないのだ、えみは気がついた。江内は、梓亜が昔とは違い、恒星級の生徒ではなくなっていることを知らないのだ。  江内のなかでは、梓亜はまだ、ぴかぴかのスターのままだ。 「おれもさ、高校デビューしたいんだよね。オンステージって順位つけるらしくてさ、優勝して目立って、人気者への一歩を踏み出したいんや。それには上倉の力がゼーッタイ必要やと思うんさ」  江内の高校デビューしたい、というすなおなことばは、えみのなかにすとんと落ちた。江内も、えみとおなじ中学時代を乗りこえて、ここにきた生徒だった。  自分のことでせいいっぱいだったえみは、江内があそこでどう立ち回ったのか、どんな目にあったのかは知らない。でも、今度は今度こそは楽しくやりたい、という江内のきもちはわからないでもなかった。 「しあちゃんに、いってみるよ」  えみはいった。 「あ、そう?」  うん、強めに、えみはうなづいた。  誰かがが、机の角にがつんとぶつかった。えみたち三人はぴたりと話をやめた。息を止めて、通り過ぎるのを待つ。爪をいつもピンクに光らせている、クラスメイトだった。彼女は、かたまった液晶画面のような三人を気にもせず、廊下に出て行った。  えみは彼女みたいな存在にとって、自分は、脇役ですらない、背景なんだなと思う。それが不満なわけではない。掲示板の時間割変更よりも価値のない、ぺらぺらしたモブ。そのほうが安心するし、それでいい。  先にお弁当を食べ終えていた真麻は緊張を解くと、帰りに市立図書館に寄っていこうといい出した。  最近、真麻は風景の写真集にハマっているのだった。佐緒里もちいさく息をはいてから、お弁当箱を片づけ受け答えしている。 「動物の写真集探そうかな、動物の写真集探そうかな」 「わかる、癒されるよね。どうぶつ好きー」真麻はそこまでいって、なにか思い出したらしく、そういえばと話し出した。「この前、部屋で食べようと思って、台所にあったたこ焼き、チンして部屋から出たら、なんか視線感じてふり返ったんだよ。そしたら、廊下の角からにゃんこたちが、十匹くらいずらっと縦に、顔だけちょこんて出してるの、すっごかわいかった」 「ええ、かわいいかわいい」  真麻のうちの、猫のエピソードはどれも楽しい。  十匹の茶トラが、ずらっと縦に並んでいる。茶色と白のしましまのまるい頭、くりくりとした目が、角に沿って。ものすごいかわいさだ。  えみも一番最後に再起動して、くちもとをほころばせた。まっすぐに揃った、まんまるの茶色。「みたらし兄弟って、名づけない?」  真麻と佐緒里はころころ笑った。それですこし、勇気が出た。 「江内くんと、なんでそんなことしないといけないのかな」  梓亜は、読みかけの文庫本を閉じた。梓亜のまつげが、色味のない、白い頬に濃い影を落としている。  えみは慎重に表情を読もうとした。気を悪くしているわけではないと思う。梓亜はふしぎそうだった。えみがなにをいい出したのか、わからないみたいに。 「江内くんて、昔、すっごい、おもしろかったよね。授業中に、冗談いって、先生も、みんな、笑ってた。しあちゃんも、ひとを笑わすの、うまかった。ふたりそろえば、すっごいおもしろいかけあい、できそうだから」  えみは、思いつくかぎりのことばを並べた。のどがからからになった。  江内とはおなじ学校ではあったものの、とくに仲がよかった記憶はない。  それでも、えみみたいな女子に、なんのてらいもなく話しかけてくれた。他の男子よりしたしみやすかったのは、ほんとうだ。地理の発表の後、班員全員が江内をののしっていたことは忘れることにする。 「えみはなんでそんなに、熱心なの」 「見たいから」  えみは勢いこんだ。歌でも演劇でも、なんでもいい。舞台のうえできらきら輝く梓亜を見たいのだ。客はみんな、うっとり見とれることだろう。  昔みたいに。 「しあちゃんと江内くんが、体育館を沸かせているところ、目に浮かぶよ。江内くんが、台本用意するっていうし、しあちゃんには、そんなに負担に、ならないんじゃないかな、って思って。わたしも、できることがあれば、なんでも手伝うから、どうかな」  えみが話している間、梓亜は黙っていた。  そこには梓亜の感情はない。  さざなみひとつない湖面に、ぽつんと青白くちいさく、自分の顔だけが映っているようだ。水面下にまで、えみの声がちゃんと届いているのかわからない。  えみは自分が宇宙船になって、梓亜という宇宙をただよっているような気がした。その宇宙は先が見えず、どこもひたすらに遠く、無音の、謎めいた空間が広がっている。  えみが行けるのは、宇宙のひろさに比べれば、ほんのわずかだ。星はどれも遠く向こうでまたたき、えみは手の届かないその光に、恋い焦がれている。  えみにとって、梓亜は梓亜のこころは遠すぎる。 「わかった」梓亜はいった。「やってみる」  梓亜の髪はあいかわらず、手入れが行き届いていないのかふぞろいで、こまかい表情を隠している。 「でも最近、どういうのがはやってるとか、知らんのよね。ぜんぜんテレビとかも見てないし」  えみは「わたし、手伝えるよ」と、らしくない大声を出した。「動画とか、DVDとか、いっしょに見ん?」昔みたいに。 「やった、超爆笑オンステージにしようぜ。ゼッタイ優勝な」  江内は廊下で大声を上げ、梓亜の肩をばしばしたたいた。何事か、と生徒たちはふり返る。 「上倉、だれかものまね、できそうなんおる?」 「まんざいするんじゃなかったの」 「ちらっちらっとものまね入れてさ、それにおれがつっこんだら、そんだけでどっかんってうけるんじゃね? カンペキ、脚本もう完成したようなもんよ」 「やってみないとわからんけど」 「おお、できそうなんあったら、後で教えて。それでネタねるから。小学校んときのさー、おまえの東川先生のものまね、おもしかったなあ。そっくりな眼鏡かけてさ。あれ、おまえが針金着色して作ったってマジ? あのひと、たしかにかくかくした変な眼鏡かけてたよねー。あのにせもんの眼鏡とおまえのまね、いまだに忘れられんわ」  やはり江内のなかでは、梓亜は小学校のときのまま、キラキラ上倉のままなのだ。  お祭り男の江内が手伝ってくれるなら、梓亜は大舞台で、かがやきを取り戻すかもしれない。 「そういや、この前ゲーセンで奴らに会ったわ」  江内が話し続けていた。「鹿西高校に行った、おまかせ鈴木とか、小学生のうちから厨二病の鎧とか」 「ああ、なつかしいね」 「あ、相馬もいたな。かけっこケンちゃんの相馬」  えみの胸がひとつ、おおきく鳴った。  江内と梓亜は、正確には江内が一方的に、思い出話を続ける。江内の口ぶりでは相馬は元気そうだ、えみはほっとした。  五限目の予鈴が鳴り、江内は慌てて自分の棟に走っていった。  授業が始まっても、えみは気分を切り替えられなかった。  記憶という霞のあっち、遠い昔の出来事のように思えるが、現実には卒業してまだ半年もたっていない。油断するとすぐに、中学時代の影にとらわれてしまう。黒歴史はほんとうにやっかいだ。  あれは放課後だった。  えみは掃除が長引いて、あわてて帰ろうとしていた。当時は一分一秒でも、学校にいる時間を減らしたかった。それなのに、まだ順番じゃないはずの掃除当番を押しつけられ、結局ひとりでやっていた。  誰もいない廊下をひたひたと小走りにしているとき、窓から体育館の脇が見えた。  何人かの男子が、小道を固まって歩いていた。  何年生かはわからない。  離れて、ひとりだけ、うなだれてついて行く。  先行く男子がふり返って、鋭くなにかいう。遅れていた生徒がぱっと顔を上げ、前の集団に追いつくと、男子たちはそのまま体育館の裏に消えた。  えみは逃げた。  そして一晩眠れなかった。  すこしうとうとすると、夕方の体育館の光景が脳裏によみがえった。あれは、いじめの現場だったのではないか。  だのに自分は、見て見ぬふりであわてて帰った。直接止めに行けなくても、せめて先生か、おとなを呼んでくるべきだったのではないか。  もしも、もしも相馬くんになにか重大なとこがおこったら、わたしのせいだ。  怖そうな男子たちにおどおどとついていったのは、相馬だった。  梓亜と話すきっかけをくれた、ちょっと自信過剰なところもある、足の速い男の子。赤い長靴をはいて、うすぐもりの空の下、南天の実のようにあざやかだった。  えみは、彼を、助けなかった。  いじめを知りながら黙っていたものは、いじめをしていたものと同罪である、だれかのそんなことばが、えみの頭のなかをぐるぐる回った。  翌日、えみは相馬の教室前の廊下をうろついた。相馬はふつうの顔で登校していた。傷もあざもなさそうだった。  でも、制服の下はわからないと思い、えみはぞっとした。  彼がいつか学校に来なくなるのではないか、卒業までそれを気にし続けた。
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